非常階段-97

導かれてきた君

「さすがに、ミステリー小説ではなかったんだね」
 翌日の休み時間、今回も智也に背中を蹴られた俺は、女友達と雑談する深井に声をかけにいった。振り返った深井は、「よお」と笑みを作ったものの、ほかの女の子たちは変な顔をする。この頃、俺は理解する相手としか接さない傾向があるので、そういう眼は余計に神経をびくつかせる。
「話があるんだけど」と裏返りそうな引き攣った声で深井に作り咲いをし、彼女は友人たちをちらりとすると咲いを噛み、「いいよ」とうなずいてくれた。そして、智也も混ざって晴れた窓際で一連の相談をすると、アルミニウムの手すりにもたれる彼女はそうくすりとした。
 手すりに両腕を預けて、開けられた窓の景色と向き合う俺は、昨日の被害妄想を思い出して頬を熱くする。確かにこみいった心配だったが、俺としては切実なものだった。風が熱っぽい頬を撫でていく。
「で」と俺の背後で空の女子のつくえに勝手に座る智也は、深井に首を捻じった。
「どうなんだよ。もうチャイム鳴るぜ」
 智也は黒板の脇の時計を一瞥する。次は三時間目だ。深井は智也は無視して、俺に気さくに微笑んだ。
「いいよ。塩沢には兄貴の借りもあるしね」
「ほんと」
「昼休みに二ノ宮くんを連れ出してきたらいいんでしょ」
「うん。ありがと。あ、もしひとりで行きづらかったら智也と、」
「何でだよっ」
 つくえを飛び降りて形相を突っこんできた智也に、身を引いて眉を顰める。
「だってお前、二ノ宮見たいって言ってたじゃん」
「あ」とぱたりと表情を切り替えた智也に、「ひとりで大丈夫だよ」と深井は胡散臭そうに仏頂面になる。「いや」と智也は軆ごと深井を向くと、彼女を指さした。
「俺も行く」
「ひとりでいいって言ってんでしょ」
「お前が柊と話すことはマイナーだから、ついてきてって言っても信憑性がない」
「それどういう意味よ、あたしじゃ警戒するってのっ」
「はん、十八歳ってだけの鬼みたいな顔しやがってさ」
「何だとおっ」
「あ、あの──」
 俺が気弱に止めに入らなくても、さいわいチャイムが鳴ってくれた。智也と深井はぎりぎりと歯軋りして睨みあうと、思いっきりそっぽをしあって、俺は放って行ってしまった。
 くたっと首を垂らして息をついた俺は、やっぱお似合いだよ、と内心禁句をもらして、そばのつくえに戻る。三時間目の社会の教科書をつくえに出しながら、まあこれで二ノ宮と顔合わせるんだな、といよいよの期待や不安に、さざなみは落ち着かなくなってくる。
 どんな奴だろう。ベッドに腹這いになって手紙を読み返し、夕べはそんな想像ばかりしていた。
 対象外だったら邪慳にするのもひどいが、本当に、生理的に合わなかったらどうしよう。かといって、けっこうタイプで一気に好きになっても情けない。性格は手紙の限りではひかえめそうだが、文面だと性格が変わる奴は多い。あてにして先入観を持つのは避けたほうがいいだろう。
 改めて読み返すと、夏休みずっと俺のことを考えていたという一文に妙にどきどきしてしまった。俺が落ちこんだり智也と遊んだりしているまさにそのとき、そんなふうに俺を想っていた奴がいたなんて不思議だ。
 俺と話がしたい。でも何を話したいのかは分からない。ひとつひとつ文を吟味し、やっぱ告白したいとか意思があるわけじゃなさそうだな、という感も覚えた。
 小学校のときから男に惹かれると自覚しているということは、好きな奴もいるのかもしれない。ここに気づいて、わりと気が楽になった。好きな奴がいる奴を好きになっても仕方がない。だから、俺はこいつを好きにはならない。
 でも、そういう心理になって、智也の言葉を思い出すと複雑になった。
 芽さんにだって、きっとなかなか会えないと分かっていて会いにいった。俺はやはり、あの初恋の痛手を引きずっているのだろうか。なるべく人を好きになるのを避けている。
 たとえ相手がゲイで、あんな気持ちは味わわないと分かっていても、聖域に宿った気持ちが砕け散る日が怖い。失くすなら初めから持ちたくないと後退ってしまう。
 俺はあらゆる不快な経験に対し、初めからなければよかったと思っている。恋愛にそのみじめな後悔を滲ませているのだ。好きになるかもしれない相手とは出会いたくない。誰かを愛して強くなりたい反面、俺は恋愛にそういう陰性も抱いている。
 陰を乗りこえるためにも、俺は二ノ宮には出会わなくてはならない。第一、好きになるとも限らない。友達かもしれない。嫌いになるかもしれない。分からないのだ、この子がどういう人間かなんて。
 知ってから決めよう、と思った。会って、二ノ宮がどんな奴か知って、彼との関係は決める。ひとりうなずいた昨夜の気持ちを何とか保ち、散漫に飛び散る錯乱に震えそうな心を抑えた。
 会うのを昼休みにしたのは、放課後だと終業のずれでつかまえそこねるかもしれないからだ。普通の休み時間では、第一棟二階にあるらしい一年三組は遠くて往復だけで精一杯だ。
「昼休みだといない場合もあるんじゃない」と事前に述べた深井に、昼食時間の終わりかけを狙うことにした。それなら弁当箱を置きにくると思ったのだが、三人で教室を出た段階になり、「購買ならふくろ捨てるゴミ箱はどこにでもあるよなあ」と智也が自分が通りすがりに捨てたゴミで気がついた。
 俺はつい変な顔になっても、だとしたらどうすればいいのかも思いつかなかったので、ひとまず一年三組に向かうことにした。俺をはさんで、三人で騒がしさの低い階段を降りていく。
 みんなはまだ教室なり中庭なりで昼食をとっている。俺たちはかっこんできた。本来俺ひとりがそうすればいいのに、ふたりを早食いに巻きこんだのはちょっと申し訳ない。
「桐島に同調するのは癪だけど」と深井はいつも通り日の射す踊り場で、俺に首をかたむけた。
「ほんとに会えなかったらどうすんの?」
「じゃなかったらほら、昨日のうちに返事来なかったショックで休みだったら」
「………、休みだったら仕方ないけど、いなかったら放課後どこかに来てくれとか誰かに伝言してくれよ」
「なるほど」
 智也はそれで納得したが、女の子はこういうとき大雑把じゃない。
「どこかってどこにする? 裏庭?」
「裏庭は──いや、まあ、任せるよ」
 二階に着くと、渡り廊下を渡って左に一、二、三組と並んでいる。一番奥は、何かの特別教室だった気がする。何せ俺はここで待機で、「よろしく」と律儀に頼むと、智也と深井はそれぞれ請け合った笑みをし、一年生の教室の並びに踏みこんでいった。
 ひと気のない階段沿いに残された俺は、首を垂らしてそばの白い壁にゆっくりもたれる。ふたりの前では装っていた強い鼓動の負担が、呼吸にかかってくる。かなり深く響いている。頭の中が白っぽく熱く、目を伏せると肺を使った呼吸で胸をなだめた。
 うろうろしそうな視線は足元に据えつけられても、遠くのいろんな声や音にかきたてられる神経はどうしようもない。この故障寸前のような心臓がうるさいはずなのに、こめかみに流れおちていく汗の音が聞こえる。
 こちらが告白に挑むようだ。手紙の断章が気持ちを混乱させ、ほんとどんな奴なんだろ、とさしせまって胸苦しくなる。そして、この後に及んで、疑問に嘘をつけなくなった。
 彼は俺をどう想っているのだ。ただの先輩なのか。もしかしたら──考えないほうがいい気がして、これまで目を背けてきた。けれど、もしそうだったら。
 しかし、一年生だ。そういうことは考えず、純粋に分かりあえる友人が欲しいだけかもしれない。ならばこちらも下心は持たないほうがいいのに、あれこれと妄想はやんでくれない。
 何も考えまいとしても、じたばたする感情や五感が頭を制御させない。眼前の前髪が震えている。もうやだ、と逃げ出したいぐらいの緊張に泣きそうになったとき、近づいてくる何人かの足音がしてはっと廊下に直立した。
「お、柊。連れてきたぜ」
 智也の声にどきんと息をすくめた。連れてきた。連れてきた、ということは──
「ほら、こっちだよ。塩沢先輩は」
 緩い逆光の中、深井が俺の死角に手招きをし、躊躇うような空気の間のあと、踏み出す上履きが見えて三人目がすがたを現した。俺は唇を噛んで息を止める。服装はもちろん、俺や智也と同じ夏服だ。背丈は深井と変わらない。彼も俺を認めて目を開くと、そのまぶたをそっと溶かしてはにかんだ笑みを見せた。
 まだ、ぜんぜんあどけなかった。輪郭も骨格も、柔らかみが残っていて線が幼い。毛先がくせっぽく跳ねた前髪は分けられ、黒い瞳はおとなしく、口元も内気で主張は苦手そうに見える。飛び抜けて綺麗な顔立ちではなかったが、特に拒絶反応のある箇所もなかった。
 この子が──。
 そう思うと、ほうけた軆の端々がじわりと熱に痺れ、殴られた名残のように妙に平衡感覚が崩れそうになる。
「何突っ立ってんだよ」
 なのに、智也に遠慮なく肩を押され、俺は派手にのめりかけてしまった。あわてて体勢を正すと、ばつの悪さを抑えて彼の前に立つ。やや臆した彼はひかえめに微笑み、小さく頭を下げると俺の瞳を素直に見つめた。
「初めまして。二ノ宮夏樹です」

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