秘密の場所
なぜ、この子を誰にも教えなかったここに連れてきたのだろう。ここのことは、智也にも教えていない。あいつのおかげで、ここに来る必要もなくなったのだけど。
明るい晴天は残暑が厳しくも、相変わらずここは日陰で涼風も抜けている。静けさにならって丁重にドアを閉めると、非常階段の手すりから下を窺っていた二ノ宮は、俺を振り返った。
「いいんですか、ここって。来ても」
「いけないから誰も来ないよ」
二ノ宮は面食らったあと、ほのかに咲い、前髪をそよがせながら視線を下げた。
「ごめんなさい、いきなり。いまどき、手紙なんかで」
俺はドアにもたれ、二ノ宮の心持ち桜が溶けこんだ頬を見つめると、「別に」と柔らかく微笑んだ。
「悪戯じゃないなら、気にすることじゃないよ」
「あ、い、悪戯っぽかったですか」
「いや、ただ、そういうのされたことあるから。警戒はしたよ。昨日のうちに返事しなくてごめん」
「い、いえ。こんなに早く反応があるとも思ってませんでした」
「………、早いかな」
「あ、先輩は受験勉強とかいそがしいだろうし」
くすりと笑いを噛むと、二ノ宮の隣に並んだ。最近は快晴続きのせいか、錆は乾涸びて金属っぽい臭いは薄い。
「受験とかは、まだ大丈夫だよ。進学校に行く気はないし」
「そ、ですか。受験とかよく知らなくて」
「兄弟は?」
「います、けど、弟です。まだ四年生です」
「そっか」と冷たい手すりに手を乗せて地面を見下ろす。
ちょっと、意外だ。ということは、この子は兄貴なわけだ。自分の姉がああなので、年上の兄弟というと気が強そうに思える。だけど、そういえば芽さんも深井のおにいさんで優しいのか。
ここに来ようと言い出したのは俺だが、こうして来てみると、正直後悔も曇った。ここを教えなければよかった、とか思うわけではない。向こうの灰色のビルの壁、手のひらの熱がなじんでいく手すり、鉄と土が入り混じった匂い、そういうものが生々しく気管を圧迫する。
涼んだ風も、音が切り取られた静けさも、憶えている。ここは非常階段の中でも、二年生のとき、しょっしゅう来ていた非常階段だ。
何度も、ここを降りて学校を投げ出そうと思った。心のためには、来てはいけないぐらいまで思った。なぜいつもこうなのか。最悪がつきまとってくる。そう思って、冷え切った鉄の地べたに崩れ落ち、喉がえぐれるような深手の嗚咽をもらした。
無数の生傷を思い出すと、信じられない。智也。香野。深井に芽さん。そして、この二ノ宮。今のような状況が訪れるなんて、あのときには考えられなかった。
智也と深井とは、あの階段沿いで別れていた。あとはご勝手に、とふたりは並んで階段をのぼっていったが、踊り場に着く前にショートしてばらばらになっていた。
彼らは同席したがると思っていた俺の脳内は、あっさり二ノ宮とふたりきりになった拍子抜けに、むしろ参ってしまった。どう、すればいいのだろう。彼に気があるつもりはなくも、意識過剰で狼狽がどんどんふくれあがってくる。
二ノ宮は俺を見つめていて、階段ばかり向いているのも感じが悪いかと、ぎこちなくそちらを見た。
「え、えっと」
声が変な気がして咳払いすると、静かな校舎に響いて冷や汗に慌てた。逆光を受けながら、二ノ宮は俺の様子にきょとんとしている。俺は努めて、声の調子を整えた。
「話があるって、書いてあったけど」
「あ、……はい。先輩は、いいんですか。時間とか」
「俺は、うん。五時間目までヒマだよ。君は」
「僕も何もないです」
「そう。えと、じゃあ、どっか行こうか。ここじゃ、そろそろみんな出てくるし」
二ノ宮はうなずいても、どこという提案はしない。俺も新品の電球みたいに白い頭の中にろくに考えられない。
中庭。屋上。誰かに聞かれる心配はしたくない。特別教室に忍びこもうかとまで思ったが、そうだ。非常階段。
秘密の場所ゆえ、やや抵抗もあったものの、この子には校内でも落ち着ける場所を教えておいてもいいかもしれない。かくして、俺たちは人目を盗んでここに入りこんできた。
涼しい風が頬に当たると、肌がずいぶんほてっていたのが分かる。鼓動もぐらつきを残している。二ノ宮は、俺の肩の高さからこちらを見上げた。ときおり感じる彼の匂いに、どうにも心臓が凪がない。
俺は彼に曖昧な笑みを作った。
「ごめん」
「え」
「俺のほうが、毅然としてなきゃいけないのに。やっぱ緊張しちゃってるな」
二ノ宮の瞳には、夜のガラスのように俺がくっきり映っていて、彼はその俺のすがたをわずかに濡らすとうつむいて咲った。
「よかった」
「え」
「先輩ってすごく強くて、芯があって、僕なんかしかり飛ばしちゃうんじゃないかと思ってたから。けっこう、普通なんですね」
普通。単純かもしれないが、俺は自分をそう言ってくれる人には直感で警戒をほどく。ここまでの感触でも、悪い子だとは思わない。智也と深井も、彼が引っかかる素振りは見せていなかった。
智也と深井で思い出し、俺自身が教室に出向かなかったのを詫びると、二ノ宮はくせっぽい髪を独特に揺らしてかぶりを振った。
「あの先輩たちにも聞きました。確かに、僕は誰にも知られてないと思うから。気にしてもらって気づきました。ありがとうございます」
「いや、まあ──俺に近づく男は、ストレートでもホモだって決めつけられるしね」
空中に情けなく笑うと、二ノ宮は静かな衣擦れとこちらを見上げる。
「でも、あの、さっきの男のほうの先輩は」
「うん、あいつは人に何言われても平気だって言ってくれるんだ。あいつはストレートだよ、外に彼女もいる」
「彼女、ですか」
二ノ宮は正面にまたたくと、勧められて食べたものがあんまりおいしくなかったみたいに、うやむやな笑みをこぼして首をかしげた。
「何か、そういう話は、三年生って感じですね」
思わず噴き出し、気後れした顔でこちらに向き直った二ノ宮に、「そうでもないよ」と謝って笑いを収めた。
「俺もあいつの進んだ話にはついていけない。それとも、俺がガキなのかな」
「先輩は、その、いるんですか」
「いないよ。誰かとつきあったこともない」
「そう、なんですか」
下げ気味になった二ノ宮の睫毛を見つめ、俺はそっと流れた穏やかな風に任せて尋ねてみた。
「君は、好きな奴いるんだろ」
「えっ」
二ノ宮はみぞおちを突かれたみたいに肩をびくんと打って、顔を上げる。
「小学校のときから自覚してたって書いてたし。好きな奴ができたからなんじゃ」
「あ、ああ──まあ。どうなんだろ。分からないんです。好きっていうか、憧れって感じの気もするし。でもやっぱり、女の子には何にもないから。そんな気がするんです」
「そう。うん、そうやって何となく認めていけるほうがいいよ」
「はっきりしないと、よけい考えこんじゃいますよ」
「いきなり突きつけられてもショックだよ。俺はそうだった。ある奴にひと目惚れみたいな感じて惹かれて、自分はそんなんじゃないって何ヵ月も否定してた」
言いながら、縫合の糸が神経に障るように喉がきりきりする。二ノ宮の日陰の風になびいた瞳の色合いは、俺の痛みに感応している。
とうに昼休みに入っていると思うのだが、しばしの沈黙に流れたのは沈黙だけで、ざわめきは届かない。
「好きな人、いるんですね」
不意に二ノ宮がぽつりと問うてくると、俺はかすかにくすりとして首を振った。
「今は何とも想ってない。そいつは俺がゲイだって知った途端、親友だったのに態度を裏返したんだ。君は、今もその人のこと──」
「忘れようと思ってます。あの人はストレートだと思うし。友達のおにいさんなんです」
「あ、友達はいるんだ」
「ばれたら離れそうな友達しかいないです。一緒にごはんは食べてたから、先輩が来たのにはびっくりされました。僕も驚いて、ちょっと、手紙のことほかの人に話されたのかって恥ずかしかったけど」
「あ」と表情をまじめなものに切りかえる。“ミステリー小説”な被害妄想をする俺だ。本当にゲイだったら傷つけるかもしれないとは考えていた。彼は、俺以外の人間に自分をさらす気はまったくなかったのに、俺が勝手にばらすかたちとなってしまったのだ。
「ごめん。智也は話したっていうより、手紙見つけたとき、隣にいたんだ。でも、深井には話したことになる。ほんとにごめん。手紙を読ませたわけじゃないよ」
「そう、ですか。けど、あのふたりには知られてるんですね」
「あのふたりは言い触らしたりしないよ。絶対」
けれど、二ノ宮の瞳は日陰に同化していて、やはりまずかったかと背筋を冷やして焦りそうになる。ところが、手すりにもたれてぐったり息をついた二ノ宮は、意外な一言を発した。
「ばれたほうがいいんですよね」
「えっ」
「先輩は、ばらしてるし」
「……あ、いや、俺はばらしたってよりばれたというか」
「え」と二ノ宮に見上げられ、俺は種がばれた手品師みたいにばつが悪く視線をよそにやる。しかし、二ノ宮がとっさに感じたのは幻滅ではなかったようだ。
「ば、ばれちゃうものなんですか」
「いや、まあ、俺の場合は、いろいろあって」
「いろいろ……」
「あのときばれなきゃ、いまだに隠してただろうな。そういうものだと思うよ、大半は。この学校にも、俺たち以外にけっこういるのかも。男にも女にも」
ここは校内に較べれば涼しくも、暑くないとも言えないから、じっとしていてそろそろ汗が滲んできた。手すりに乗せていた手を離すと、湿り気を介して錆の臭いが移っている。
一応手をはらってみたりすると、二ノ宮がこちらに首を捻じった。俺は照れ咲いすると、気になるなら帰りにトイレで洗えばいいということにする。
「まあ、隠してるのがつらいならばらしてもいいし、ばらすとつらいと思うなら隠しててもいい。君次第のどっちでもいいんだと思うよ」
「僕……」
「俺は一年のときから何度もここに来て思った、ここを降りて裏門から学校を出ればあの教室に戻らなくていいって。でも、自分は外れなきゃいけない特殊な奴じゃないはずだって学校を辞めなかった。学校行かなくて、どうやって生きてくんだろって思ってたとこもあってもね。ばれたことはしょうがなかったんだけど、日常生活をやめるかやめないかは、自分で決めたと思ってる」
俺を見つめていた二ノ宮は、ふと瞳を小さく傷めると顔をうつむけ、草影に後退った傷を負った動物のように前髪に隠れた。
「特殊じゃ、ない」
「うん。俺はそう思いたい」
「じゃあ、何でみんな分かってくれないんでしょうか」
二ノ宮の暗がりに入った横顔にまじろぎ、自分でも思いがけないぐらい、正確な答えを言うことができた。
「俺たちを偏見してるからさ」
二ノ宮は目を開いて、こちらに顔を仰がせた。とそのときチャイムが割りこみ、「あ」と二ノ宮は手すりを離れる。「大丈夫だよ」と俺は校舎を振り返りながら言った。
「予鈴だよ。つっても、俺は向こうの三階だからもう行かないと」
「そ、ですね。あの、またお話できますか」
二ノ宮の瞳を見、もちろん笑みをなだらかにすると、うなずいた。
「俺でよければ。だいたいは智也と教室にいるよ」
「……三年生の教室は、行きにくいような」
「はは、そっか。じゃあ、話したいときまた靴箱にメモでも入れといて。場所はここでいい?」
「はい」
「じゃ、日時を書いておいてくれたら、来るよ」
とはいえ、都合が悪くてすっぽかしてしまった場合も先に謝っておくと、二ノ宮はこくんと承知してくれた。そして俺を見つめ、「先輩とこうやって話せたの信じられない」と春の陽射しをまばゆむようにはにかんで咲う。ドアを開けかけていた俺は、その笑顔にこちらこそおもはゆい笑みをすると、「俺も君と話したいことたくさんあるから仲良くしよう」と開いたドアの隙間のざわめきに、彼をうながした。
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