良くないうわさ
智也と深井、もうひとり、香野にも真実を知られていることは、二ノ宮には折を見て断っておいた。
「先生に」と彼はさすがに赤くなるより青くなっていたが、受け持たれて以降の香野の理解を語ると警戒はほどいていた。それでも、なぜばらしたのかと言いたげだ。階段に腰かけていた俺は、右隣の二ノ宮のその瞳に出会うと弱く微笑んだ。
「君に手紙もらったとき、そういう手を使われたことがあるって言っただろ」
「……はい」
「一年のとき、俺はそうやって裏庭に呼びだされて、リンチされたんだ」
二ノ宮の開かれた目に、すでに覚悟してきたあの日の回想をした。話さなければ納得してもらえない気がしていた。
殴られて、蹴られて、青い蕁麻疹のような痣で全身が痛みに膨脹した。あのときの冷たい土の味や匂いを思い出すと、今でも怒りや苦痛が綯い混ざったやりきれないものが、涙として流れ出しそうになる。二度とあんな目には遭いたくなかった。
読ませるために架空の差出人を書いたのかもしれない。背後の人の気配のように、そんな猜疑がつきまとい、“二ノ宮夏樹”が実在するか確かめなくては怖かった。
そういうわけで香野の手を借りたのを説明すると、「そうだったんですか」とさいわい二ノ宮は納得してくれた。
「でも、そんなことがあったんですね」
上履きに目を落として、二ノ宮は複雑そうに伏目になった。彼は一年生だから、去年、ましておととし、俺がどれだけ悪魔にストーキングされていたかは知らない。俺もまだ多くはしゃべっていない。語るには相手の名前を口にしたくもない。まだ生々しい膿がべとつく記憶がほとんどだ。
「いろいろ、あったよ。三年になって減ったけど、二年までは毎日そんなふうだった。まともな暴力を受けたのはあのときぐらいだけど。派手なことも陰湿なことも、味方面しててもぜんぜん理解してないことも、たくさんされた」
大半はこんなふうに漠然としか語れない。そして、それでいいみたいだ。深く語るとき、二ノ宮の瞳は確かに俺の生傷を体感している。
二年半も残っている彼の中学時代を、今度は自分がそれを受ける番かと憂鬱にするのはよくない。それに、俺ひとりが感じておけばいい、彼には避けてほしい痛みまで通電したくないと思う。
「黒板に大きく悪口書かれて、みんな笑ってるだけで、担任も冗談で済ますとかあった。教師ってそういうものだと思ってたんで、俺も香野の態度には驚いたよ。二ノ宮も香野には会えば、この人には知られておいたほうがいいって思うよ」
「そう、でしょうか」
「うん。何かさ、ほんとに先生って感じなんだ。こいつは頼れるって思える。俺はあと半年で卒業だけど、君は二年半ある。学校に来続けるなら、香野とは知り合ってたほうが心強いよ」
二ノ宮は髪を風に揺らして俺を見つめ、何も言わずに爪先に目を落とした。俺は首をかたむけ、ふと気がつく。
「あ、学校辞めたいかな」
「……いえ。僕もそんな、外れる勇気はないし。それに外れたら──」
二ノ宮は俺をちらりとし、俺がきょとんとまばたきかえすと、また顔を伏せた。
「僕は、先輩みたいになりたいから。学校には来ます。ばれても、ばれなくても」
前髪に目を隠す二ノ宮の頬を見つめ、「そう」と脚を伸ばして天を見やった。今日は青空には白い雲がたなびいている。ひと雨来たら、ようやくこの残暑は秋へと移り変わるのだろう。
「あ、あの」
「ん」
「卒業したら、話せなくなるんですか」
「え」
「僕、先輩と」
二ノ宮のおとなしい黒い瞳が切実にこちらに向かってきて、思わずどぎまぎする。卒業したら──
「い、いや、外で会っていいよ。卒業しないうちでも、休日とか会えるよ」
「迷惑じゃないですか」
「まさか。大丈夫。卒業しても話そう。せっかく知り合えたんだし」
ほっと笑みを溶かした二ノ宮に、決まり悪くその場を座り直す。そんなところを心配されたのか。
俺と、つきあっていきたいと思ってくれている。妙に軆の奥が熱くなっても、その反応は隠して、二ノ宮の瞳に軽く照れ咲った。二ノ宮は俺の笑みにはにかんで咲い返すと、緩く睫毛を伏せて静かに言った。
「僕は、先輩が相手してくれたらいいです」
「えっ」
「いい先生なんだろうけど。正直、先生とはこんなのどうやって話したらいいのか分からないし。先輩がひとりぼっちじゃないって思わせてくれて、僕はじゅうぶんほっとしてます」
涼んだ風が優しい指先のように二ノ宮の髪を梳いていく。特に俺の肩幅が邪魔で至近距離だから、そのたび彼の匂いが嗅覚にただよう。
同じように、俺の匂いも彼に届いているのだろうか。そう思うと、生まれて初めてシャワーは夕べ浴びたっきりの軆が気になってきたりした。変な緊張を気取られないうち、視線を手すりにやると、「嬉しいけど」と努めて冷静な口調で述べた。
「香野とか智也とかとも、一度話はしてみなよ。悪いもんじゃないよ。学校に来つづけるなら、ストレートとか女の子とのつきあいも覚えなきゃいけない。もちろん俺も君と友達になりたいと思ってるけど、俺ひとりに閉じこもるのはよくないよ」
そう右に向き直ると、いつのまにか二ノ宮はこちらを黙って見つめていた。黒い瞳には、何か痛切なものがこもっていたが、はっきりしたかたちは映りそうで映らない。俺がとまどって臆面すると、彼は視線を下げていっとき自分に引きこもった。
「そう、ですね」
「……ごめん、俺、何か──」
「何でもないです」
二ノ宮は俺をさえぎってぱっと笑顔を向けると、いつも通り引っこみ思案に首をかしげた。
「でも、ただ、いきなりは」
「あ、うん。それは分かってるよ。俺と話してればあいつらにも興味湧くと思うんだ。そのときでいいよ」
「はい」
「俺にも、君は貴重だしね。自分のためにも、君を跳ねつけたりはしない。俺こそ暗い愚痴が多くてごめん。先輩なら、励ましてあげなきゃいけないのに」
「いえ、ぜんぜん。強いこと言われるより、そっちのほうが近く感じられます」
「はは、そっか。よかった。ありがと」
安心して笑うと二ノ宮も咲ってくれて、よかった、と心の中でくりかえした。何でもない。そうは言っても、俺は何かこの子の気に障ってしまったのだろう。同じゲイなら無条件で分かりあえるなんてことは、やはりない。
下手な台詞で傷つけないためにも、俺はこの子を知っていきたいと思う。晴れた風の中、雑談しているとチャイムが鳴り、俺たちは金属の足音を響かせて立ち上がった。「またな」と別れ際に俺が言い置くと、二ノ宮の瞳に滲む笑顔はいつも印象的だった。
「まさか年下にいっちまうとはなあ」
智也は最近は、芽さんより二ノ宮を俺のめぼしい相手として見始めて、そう言っている。
彼は年下はお断りなのだそうだ。「マザコン」とつぶやくと思いっきり蹴られた。「智也ってわりあい面倒見よさそうだけど」と言うと、「対等以下の女とつきあってもつまんないね」と彼はばっさり斬る。
確かに、俺たちの歳だと年下は単純にガキなことが多い。「二ノ宮はけっこう考えてるよ」とつい言うとにやにやされ、こっちが頬を染めるハメになってしまった。
ゲイの俺にもこういう乗りの智也とか、生徒に親身になれる香野とか、接したほうが二ノ宮の糧になると思うのだが、まだ彼は自分をゲイだと知る相手とどうつきあえばいいのか分からないのかもしれない。分かってくれるなら誰でもいい。そんな、俺みたいな切羽つまった状態にあるわけでもない。いいことでもあるのだろう。
「先生のほうは二ノ宮に興味ないんですか」と十月に入った薄暗い小雨の放課後、智也と教卓にたかって俺は香野にそう訊いてみた。
「どうでもいいということはないさ」
荷物をまとめながら、香野はポロシャツの肩をすくめた。クラスメイトたちは半分ぐらい残っていて、電燈で色調がいつもと違う教室では、まだ雨音よりざわめきが騒がしい。
「しかし、何しろ担任じゃないからな。勝手に踏みこむことはできない」
「そういや、俺に話しかけてきたのも担任になってですよね」
俺は香野と向き合って、教卓に両腕を預けている。今日の雨は蒸してくるより肌寒い。今月から冬服は解禁になったのだが、今日は俺は半袖だ。
「担任じゃないクラスの子に世話を焼こうとすると、やっぱり担任の先生に煙たがられるんだよ」
「くだらん意地」
そっけなく述べた隣の智也は、教卓に背を向け、ふちに肘をついている。彼も夏服だ。
「そう言うな。まあ、俺は塩沢をこれ以上のトラブルに巻きこみたくないと思ってな。無難に、『担任になりたい』って校長に申しこんだんだ」
「……そうなんですか。二ノ宮の担任は誰なんですか」
「山咲先生だ」
俺は智也と顔を合わせ、「誰?」と一緒に教壇の段差で普段より高く香野を見上げた。
「俺と変わらない年齢の女の先生だ。担当は英語だったと思うな」
「先生の年代なら明らかに理解しませんね」
「……まあ、恐らくな。言い切れないが」
「先生のほうから行ったら、二ノ宮も気い許していいって思うかと思ったんだけど」
香野は教科書や出席簿を教卓につけて下の小口を揃えながら、苦笑した。
「彼が乗り気じゃないなら、無理強いはしないほうがいいだろう。俺と話さなくても、お前と話せればじゅうぶんなのかもしれない」
「何かそんなこと言ってた」
「じゃあ、いいじゃないか。お前が面倒見てやれ。お前なら俺も安心だよ」
香野が教科書にペンケースを乗せていると、「さよならー」とさっきまで窓際でやかましかった女子の団体が、口々に声をかけていった。香野はそれに応えると、「ほら」と俺たちのことも彼女たちが流れ出していったドアにうながした。
「夕方には土砂降りになるそうだぞ」
「はあい」と手提げなりデイパックなり持ち直した俺たちは、湿気った匂いのにぎやかな廊下に出た。
俺はドアのところで軽く立ち止まり、香野を振り返って、最近彼について言われているうわさを思った。「柊」と怪訝そうに呼ばれて慌てて智也に追いつくと、同級生たちを縫いながら智也の横顔を盗み見て、つぶやいた。
「俺だけじゃなくて二ノ宮も守れば、ゲイを理解してるってだけになって、香野もひいき教師なんて言われなくなると思うんだけど」
【第百章へ】
