enfant paisible-5

君の笑顔

 台風が近づいているとかで、今日は透明色の夕暮れでなく、もやもやした灰色の曇り空が広がっている。まとわりつく空気はむしむしと湿気っていて、歩いているとちょっと体温の調子が狂う。
 それでも、街の人出は相変わらずだ。雨が降っても、それすら気にしない人もいる。台風が上陸したら、さすがにうろうろする人は減るのかもしれないけど、そんなときあたしは家を出ないので、街の様子は知らない。
 雨の匂いはまだしないから、たぶん明日の朝くらいまで天候は大丈夫だろう。
「歩きだけど、よかったかな」
 アパートを出て光樹くんに言われ、あたしはうなずく。「オープンまで二時間ぐらいあるから、まあ急がなくていいね」と歩き出した光樹くんの隣に並び、「あの男の子って」と少しあの子について情報を得ておくことにする。
「ユウサくんっていうの?」
「ん、そうだよ」
「XENONにどっかで拾われたの?」
「いや、XENONの地元の友達の息子さんらしいよ」
「友達……」
「けっこう有名だけどね、XENONの五人目のメンバーみたいな」
「じゃあ、もともとはその人がダブルギターしてたの?」
「友達さんは、裏方としてのメンバーだったみたい。宣伝とか物販を手伝ったり」
「そうなんだ。でも……XENONは、知り合いの子供だからって、贔屓して一緒に演奏はしないよね」
「だよね。だから、そこは確かに悠紗くんの腕が確かなんじゃないかな。XENONのサポートは修行で、いつか自分のバンド組みたいとは言ってたよ」
「ふうん。十一歳だっけ?」
「今月、十一歳じゃなかったかな」
「そうなの。じゃあ、何かプレゼントとか持ってきたらよかったかな」
「そうだね。一緒にお菓子買っていこうか」
「いいの?」
「僕からも何かあげたいし」
 そんなわけで、彩雪に入る手前の良さそうなお店に立ち寄った。主に、客が嬢に貢ぐためのお菓子が色とりどりに並んでいて、高すぎてもあたしがたくさん負担できるわけではないので、まずまずお手頃の八百円の粉砂糖のかかったサンドケーキにした。透明の箱にラッピングされて、ひと口サイズがふたつ入っている。
「これでいいの?」と光樹くんに確認され、「半分、四百円なら出せる」と言うと、光樹くんはそこはあたしの気持ちとして理解して、拒否せずに了解した。赤い包装紙に包んでもらい、「毬音ちゃんが渡してあげて」と光樹くんはギフトバッグを持たせてくれた。
 ライヴハウスに到着したのは、日暮れの代わりにネオンがちらつきはじめた十八時をまわった頃で、このあいだのスリーマンほど最初からお客さんが入っているということはなかった。XENONはトリだから、それに合わせて観客も増えるのだろう。入場料をはらって顔を出した光樹くんに、ホールにいた要さんと葉月さんが気がつき、「来たか」とにやりとする。
「ん、ほかの三人は」
「バイトとかいろいろあって。でも、連れはいますよ」
 そう言って、光樹くんはちょっとその背後に隠れるようにしていたあたしを隣に招く。要さんと葉月さんがぐっと視線を下げてあたしを認め、「あー」と何だか思い出すような声を出す。
「悠が何か言ってた子か」
「美少女ですな」
「お前、ロリもいけんかよ」
「無理だけど、将来有望かは見る」
「この子が合法になるとき、お前いくつだよ」
「えー、インポにはなってないと思うけど」
「先に目をつけたのは、悠だからな」
「悠は面食いかあ」
 あたしは無表情にその会話を眺め、これがうわさの要さんと葉月さんの漫才みたいな会話かと静かに納得した。
 それから、ふたりはホールを見渡し、「おい、悠!」とステージに向かって声をかけた。そこには機材を見学している悠紗くんがいて、名前を呼ばれて初めてこちらを振り返る。
 照明が落ちていない店内で、黒くて澄んだ目と確かに目が合った。あたしはつい、気恥ずかしのようなものでうつむきそうになったけれど、感じ悪く思われたくないので見つめ返す。
 悠紗くんはステージを降りて駆け寄ってくると、「光樹さん、こんばんは」とまずは光樹くんに挨拶した。
「こんばんは。今夜もステージ立つの?」
「うん! リハも完璧」
「そっか。本番、楽しみにしてるね」
「ありがとー。その子と一緒に来たの?」
「そうそう。毬音ちゃんっていうんだ」
 光樹くんがあたしの頭をぽんとして、悠紗くんがじっとあたしを見つめる。あたしは何を言ったらいいのか分からないあまり、とりあえず、提げていたギフトバッグをさしだした。
「え、何」
「……今月、誕生日って光樹くんが言ってた」
「えっ、くれんの?」
「うん」
「マジか。ありがとう! 中、見ていい?」
 あたしがうなずくと、悠紗くんはギフトバッグから赤い包みを取り出した。「何かいい奴っぽい」と言いながら包装紙も開き、白いサンドケーキが現れると「おおっ」と感嘆する。
「おいしそう。わー、俺、女の子に何かもらったの初めてだ」
「そう、なの? XENONとライヴ出てるなら、何か……」
「いやいや、俺にはないよー。XENONがもらうのはチョコか酒だしね」
「チョコ」
「梨羽くんがチョコ好きなんだよね。紫苑くんに何をさしいれたらいいのか分かんないって人がすっげー多い」
「ギターの人」
「そう。だから、無難にクッキーとかおつまみとか渡されてるけど」
 悠紗くんが会話を引っ張ってくれるので、あたしもさほどぎこちなくならず、話すことができた。
「若いおふたりは座って語らいなさい」と葉月さんにうながされ、このライヴハウスは壁際にはソファがあったので、あたしと悠紗くんはそこに並んで座る。「毬音ちゃんはいくつなの?」と問われ、「十歳」とあたしは答えた。
「やっぱ、あんま歳変わんないんだ。ライヴとか好きなの?」
「というか、光樹くんを応援してる。光樹くんの幼なじみが、あたしのパパなの」
「そうなんだ。俺もとうさんの友達がXENONだから、ちょっと似てるね」
「うん。えっと、悠紗くんは、XENONと全国まわってるんだよね」
「そおだよ」
「いつから、XENONとステージに立ってるの? 少し前はいなかった気がする」
「ステージは、今年の六月からかなあ。地元でライヴやったとき。この街では先月が初めてだった。ずっと雑用だったからね、一緒に行動してても」
「生まれたときから、一緒に?」
「まさか。去年の十月から。それまでは普通に家族と暮らしてた。ギターはやってたけどね」
「そっか……。すごいね」
 家族。自然とそういうふうに呼べる肉親がいるって、やっぱりあたしとは違うのかな。
 そんなふうに思っていると、「俺んち、ちょっとこじれてるから」と悠紗くんは軽く咲って、艶々の黒髪をさらりと揺らす。
「こじれてる」
「とうさんは、すごいかっこいいんだ。母親がね。ほとんど憶えてないけど、今どうしてるのかも知らないや。代わりに優しい兄貴はいるんだー。血はつながってないけど」
「つながってない……」
「あ、いろいろ事情あって、兄貴のほうは養子」
「養子。あたしは──パパもママも、血はつながってるけど、ろくなもんじゃないや」
「そうなの?」
「どっちも軆売ってる人だし。ママは旦那に身受けされて、ずっと前に部屋出ていったけどね。パパは今でも男の人に軆売ってる」
「何かすごいね」
「このへんじゃ普通だよ」
「そっか。へへ、お互い変わった生い立ちだね」
 悠紗くんがくすっとしたとき、ふとSEが大きくなって、室内が暗転した。いつのまにか、ステージには一番手のバンドが現れていた。
 悠紗くんは会話を切り上げてステージに目をやり、あたしもそうしながら、たまに悠紗くんの横顔を見た。綺麗な顔してる、と思った。黒い髪と黒い瞳、白い肌に無駄のない鼻梁、まだ幼さのある頬から顎の線。軆つきも、まだ少年になりかけたところで、危うい細さがある。もっと成長すれば、すぐファンの女の子もつきはじめるのだろう。
 そう思うと、あたしは無意識にきゅっとスカートの裾を握ってしまった。
 転換のあいだ、悠紗くんはあたしの相手をしてくれた。XENONのこと、ファントムリムのこと、そしてお互いのことを話す。
 やがて自分の出番が近づくと、悠紗くんは立ち上がって「これ、ほんとにありがとう」とケーキとたたんだ包装紙を入れたギフトバッグも手に取り、混み合いはじめた人を縫って楽屋に行ってしまった。
 あたしはまだドリンクをもらっていないことに気づいて、カウンターでパインアップルジュースをもらって、ソファに戻る。ジュースを飲みながら、悠紗くんとちゃんとしゃべれたことにひとまず安堵した。
 外の人は、あたしの家庭環境はヒイてしまうような気がしたけど、悠紗くんは咲ってくれた。それが一番ほっとした。
 トリのXENONのステージが始まると、いつしか増えた観客の熱も一気に高くなった。悠紗くんのギターは今日も爆音で、紫苑さんのギターに寄り添ったりぶつかったりと力強い。ギターのふたりだけでなく、要さんも葉月さんも、梨羽さんの叫ぶ歌詞が聞き取れないくらいの音を鳴らして、観客は歓声でそれに応える。
 そのステージにあんまり見入っていたので、隣に光樹くんが座ったことにも、しばらく気づかなかった。
 五曲演奏して、梨羽さんは相変わらず「ありがとう」も言わず、会釈もせず、ステージを去る。紫苑さんも同じように降りていったけど、悠紗くんはぺこっと頭を下げてステージを降りた。
 残った要さんと葉月さんが、梨羽さんが使っていたマイクで「告知だけしまーす」と近日のライヴを伝える。「まあ遠方で来れないだろうけどな」と要さんが言うと、「観にいく!」という声も上がったりして、「何か物好きがいるわ」と葉月さんがからから笑って、観客も噴き出していた。
「あのXENONの温度差いいよね」
 光樹くんが咲いながら言って、あたしはうなずいてパインアップルジュースも飲み干した。要さんと葉月さんがステージを去ると、照明が灯って店内が明るくなる。
 物販を覗く人、出演バンドにさしいれする人、なじみらしい観客同士で挨拶する人、いろんな人で一気に騒がしくなる。「毬音ちゃん、帰る前に悠紗くんに顔見せとく?」と光樹くんが気遣ってくれて、「迷惑じゃなかったら」と答えると、「よし」と光樹くんは立ち上がった。
 梨羽さんと紫苑さんは出てこなかったけど、要さんと葉月さん、そして悠紗くんは、物販のところに出てきていた。悠紗くんが一番てきぱき対応しているので、確かに当初は裏方として四人に同行していたのが分かった。
 なかなかXENONの前に並ぶ列は途切れなかったけど、要さんがあたしと光樹くんに気づいて、悠紗くんに何やら声をかけた。すると悠紗くんもこちらに目を留め、その場を抜けて駆け寄ってきてくれる。
「帰るの?」
「うん。今日もギターすごかった」
「ありがとっ。光樹さんも、また対バンしたいですね」
「したいね。悠紗くんからお願いしといて」
「おっけです! あ、毬音ちゃん、今ケーキ冷蔵庫に入れさせてもらってるから、このあと食べるね」
「おいしいといいけど」
「あれはうまい奴でしょ。ほんとにありがと」
 悠紗くんは屈託なくにこっとして、あたしもちょっとだけ微笑んだ。
「じゃあ、帰ろっか」と光樹くんが言って、あたしはこくりとする。「出口まで見送るね」と悠紗くんが先陣で人混みをかきわけ、出口まで案内してくれた。扉も開けてくれて、ここは地上一階のライヴハウスなので、すぐにネオンでにぎわう通りが広がる。
 空気は、夕方より湿気で蒸している感じがした。
「じゃあ、悠紗くん、今夜はありがとう」
 光樹くんが言って、「こちらこそです」と悠紗くんは笑顔を見せる。
 歩き出す前に、あたしは悠紗くんを振り返った。悠紗くんはそんなあたしにも咲ってみせると、「またこの街に来るね!」と大きく手を振った。
 また来る。また会える。
「うん」とあたしは噛みしめてうなずくと、「またね」と言ってみた。悠紗くんはにっこりして、その笑顔に不思議な安心感を覚えながら、あたしは光樹くんと並んで喧騒の中へと踏み出した。

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