彼と彼女のあいだで【1】
俺が結婚する相手は、夢生だと思っていた。幼い頃から、何の疑いもなくそう思っていた。
だから、小学三年か四年か、まだ年齢が二桁にもならない頃、「つきあってみたい女子は?」みたいな話題になり、夢生がいたって普通に、俺でなくクラスメイトの女子の名前を挙げたときには、愕然とした記憶がある。
俺は、妙にその女子をイジメるようになった。先生にはしょっちゅうしかられた。その女子は、俺にイジメられるとよく泣いた。先生が俺をしかっているあいだも、真っ赤に腫れた目から雫を落としていた。
俺はむくれてそっぽを向いて、何も言わなかった。ちらりと夢生を見ると、頬杖をついてなぜか含み笑っていた。
「音って川原が好きなの?」
帰り道の河原沿いで、突然、夢生にそんなことを訊かれた。ランドセルの肩ベルトを握っていた俺は、「はあ!?」と本気で声を上げた。
周りがちょっと振り向いた。
「何でだよっ」
「よくちょっかい出してるじゃん」
「ふざけんな、あんな泣き虫、好きじゃねえよ」
「ほんとにー?」
「いや、だって、川原が、す……好き、なのは、夢生のほうだろ」
「え、何で」
「前に、つきあいたい女子だって言ってたし」
夢生はぱっちりしている瞳で俺を眺めたあと、「あのとき」と笑いながら首をかしげた。
「音は、『いない』って言い張ってたのになあ。川原かあ」
「いや、夢生が川原だって」
「みんな、音は川原が好きだと思ってるよ」
顰め面で夢生を見つめた。夢生はくすくす咲っている。
何だ。みんな何を勘違いしてくれているのだ。川原なんか嫌いだ。俺から夢生を奪う奴なんか──
ふと、夢生が俺に顔を近づけてきた。
「ほんとにつきあいたかったら、みんなに言ったりしないよ」
「へっ」
「川原、まあまあかわいいしさ。適当に言っただけだよ」
「適当、って……信じてるぞ、あのときの奴ら」
「クラス変わったら忘れるだろ」
「でも」
「俺は女子なんかどうでもいいよ」
そう言ってまた笑った夢生を、並行しながらぽかんと見つめた。
川原じゃない。女子じゃない。じゃあ──
「夢、生」
「んー?」
「俺……俺は、」
「うん」
「俺は、ほんとに川原とかどうでもいいし。明日から何にもしないし」
「何だよ、それ。いいじゃん、あんがい向こうも──」
「俺も女子とかいらないっ。これからも、夢生と学校とか行くし。帰るし。一緒だし」
夢生は俺を見つめた。俺はなぜか頬が熱かった。その赤みが見取れたのがどうか分からないけど、夢生は小さく苦笑すると、「うん」とうなずいた。
「俺も、音がいればいいよ」
俺たちは目を合わせた。やっと笑みが通じて、ほっとする。
そうだ。夢生の一番は俺だ。俺の一番も夢生だ。ずっと、今までもこれからも、だから俺は夢生と──
スマホの目覚ましに設定しているロックバンドの爆音が、今日も俺をたたき起こした。小さくうめいて、スマホをたぐりよせ、タップで音を止める。霞む目に、“6:30”という画面の文字がぼんやり映る。
あくびをしながら目をこすり、ゆっくりベッドの匂いから身を起こした。眠い。暑い。頭をかきむしって、朝か、とカーテンが必死に光を抑える窓を見やる。
五月に入って、いきなり気候は真夏日になった。熱中症、水分補給、テレビからは早くもそんな言葉が聞こえてくる。クーラーは切って寝たから、うっすら汗をかいた。シャワー浴びよ、と着替えをつかんだ俺は部屋を出る。
家の中では、とうさんもかあさんも、会社員の光にいちゃんも大学生の色にいちゃんも、起きて活動していた。いつも俺が寝坊野郎呼ばわりだ。シャワーを浴びて汗やひげを落とした俺は、「高校には間に合ってるからいいんです」とか言いながら食卓につく。
今朝の朝食は、目玉焼きとベーコン、ハムやチーズを挟んだマフィンとサラダだった。プチトマトを任されたり、逆にベーコンをさらわれたり、にいちゃんふたりにいじられていると、たいていとうさんかかあさんが口を出してかばってくれる。
騒がしい朝食を終えて部屋に戻り、シャツとジーンズから制服に着替える。
そのあいだにとうさんもにいちゃんたちも出発し、それから少し遅れて、俺もかあさんに弁当をもらって家を出た。
連休前の四月の末は、鬱陶しい雨がしばらく続いていたが、それがあがったのと同時にまばゆい青の初夏が来た。日射しが肌を焼いているのが分かる。雑草が蒸される夏の匂いがする。
歩いていく住宅街は、まだ小中学生がいない時間帯だから静かだ。車道を横断歩道で渡ってロータリーに出る。駅前に着くと、準備中の店が並ぶ商店街を横切り、ざわめきができつつある改札に急ぐ。
「夢生」
俺が声をかけながら駆け寄ると、改札の脇でスマホの画面に指を滑らせていた夢生が顔を上げた。
栗色に染めたさらさらの髪、大きな瞳のせいで童顔、顎の線や肩の線はすっきりしていて、あんまりごつさがない。幼稚園から一緒に育ったが、美少年に育ったなあ、と思う。
「おはよ、音」
声も涼やかで、高さはなくても野太くない。スマホをしまう指は、すらりと長い。
「はよ。悪いな、いつも待たせて」
「慣れたよ」
そんなことを言って、悪戯に含み笑うところは変わらない。
「それに、遅刻に巻きこむほどじゃないし」
「だよな。遅刻してないからいいよな。にいちゃんたち、朝からうっせ」
「光兄と色兄は、ほんと音が好きだよな」
「愛情がゆがんでる」
「俺はうらやましいけど」
ひとりっこの夢生は笑って、かばんに下げるICカードケースを手に取り、俺もかばんのポケットからカードケースを取り出す。続けて改札を抜けると、一緒にホームに出る。
「今日、夢生のクラス、体育?」
夢生が提げるバッグにそう訊くと、「しかも男子は外」と夢生は肩をすくめる。
「何時間目?」
「三時間目」
「俺、窓際だから探すわ」
「走ってるだけだよ」
「授業聞いてると眠いしなー」
「んなこと言ってると、中間苦労するよ」
「あー、今月末中間か。一緒に勉強しようぜ」
「ん。理系頼んだ」
「文系頼んだ」
噴き出し合っていると、すでにラッシュが始まった満員電車がすべりこんでくる。背広のおっさんやOLのおねえさんと一緒に、駅員に強引に車内に押しこまれる。
毎朝うんざりする。するのだけど──がたんっ、と電車が揺れると、とっさに夢生が俺の腕につかむ。俺も夢生を引っ張り、その背中が流されてしまう前にかばう。たまに揉みくちゃに押されて、夢生と密着することにもなる。
夢生の体温が、薄い夏服越しに伝わってくる。俺のほうが背が高いけど、夢生もそんなにチビじゃない。抑えた息遣いがすぐそばで響く。鼓動を知られてしまわないか焦りながら、「大丈夫か」と訊くと夢生はうなずき、「ありがと」と咲う。
このまま、腕の中に抱きこんだらどんな感じがするのだろう。やったことはないけれど、そんなことをつい思っている自分がいる。
そんな俺を知ってか知らずか、夢生が手を離そうとしたとき、また電車が大きく揺れて人がうねる。「つかまってろ」と言うと、夢生は「何かごめん」と言いつつ、乗り換えで降りるまで俺の腕をつかんでいる。
この朝のラッシュは嫌いだ。けれども、夢生を一番近く感じる時間で、たぶん夢生にもそうで──何となく、お互い、時間や車両を変えようという話は出ない。
一度乗り換えて、高校の最寄り駅に着くと、俺たちは制服の群れの中を並んで歩く。「おはよー」とか「だるーい」という声が、騒々しく飛び交っている。
電車で汗ばんだ軆を、まださわやかな風がすうっとなだめる。風になびいた髪をはらって、「教室クーラー早く許可出ねえかな」とか夢生と話していたときだった。
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