それでも君に恋をする-10

君はいつも凛として【2】

 それから、露村という名前だけは手に入れた彼女をちょくちょく見守っていて、どこが情緒不安定なメンヘラだと思った。いつも背筋はまっすぐで、相手の目を見つめて発言し、凛々しく仕事をこなしていく。
 そして、かなりの堅物だった。彼女に関するうわさが立たないのはもちろん、女子社員が誰かの話題で集まっているのにも眉を顰める。同僚がミスをしてへこんでも、上司に怒られて泣いても、「仕事はしっかりやってください」とそっけなく言う。
 要するに、ぜんぜん、まったく、どこもかわいくない女なのだが──
「露村さんは、酔ったら本性出るんですけどね」
 部署は違っても、同期でゆいいつ露村と親しくなれたらしいあまちゃんは、初めて俺が探りを入れたとき、そう言った。
 そこは食堂で、俺はランチのトレイを持っていた。あまちゃんは持参の弁当で席をふたつ取り、露村はまだメニューを覗きこんでいる。
「酔ったら本性なんですか?」
「だと私は思ってますけど」
「そうなんですか……」
「まあ、滅多に人前で酔うことがないですけどね」
「じゃあ、……ええと、露村さんに『辞めないでくださいね』って」
「えっ?」
“酔ったときの”露村の口癖だと思ったから俺がそう言うと、案の定、あまちゃんはびっくりした顔で俺を見つめ直した。俺があやふやに咲って、「じゃあ」と立ち去ろうとすると、「待って」とあまちゃんは俺を呼び止めてきた。
「名前、あの子に伝えておかなきゃ。あなたの──」
 そのときから、あまちゃんは俺の気持ちを一番察してくれる理解者になって、露村のことを応援してくれるようになった。あまちゃんを通して、露村もさいわい俺を認識してくれるようになった。
 何か思い出さないかなー、と期待もしたけど、よく考えたらあのとき露村は視界もぼやけていたと思うし、いっさいつながる光は射してこなかった。
 俺の前で、露村はやっぱりそうとう堅い女の子で、つけこむ隙も見つからない。それでもこの娘が好きな俺は何なんだ、と思うけど、あの日の涙もろかった露村が忘れられなかった。
 そんなこんなの片想いが、この春で五年目なわけだ。相変わらず取っ掛かりは見つからない。それどころか、あまちゃんとの仲を誤解されている。その誤解は、せめてあまちゃんの結婚で解けてくれると思ったのだが。
 連休は何の予定もなく終わって仕事が再開し、昼休みのにぎやかな食堂で、俺はエビフライと唐揚げのAランチの前でため息をついていた。
「みっちゃん」と声をかけられて顔を上げると、あまちゃんと旦那の萌くんがいた。「よう」と俺が笑顔を作ると、あまちゃんはその笑顔の前に「はい」と突然クラブサンドを差し出してきた。
「え、何──」
「乃愛ちゃん、クレームに追われてお昼に来れないみたいなの」
「差し入れには喜んでくれると思いますよ、露村先輩も」
 現在は萌くんも俺のことを応援してくれているひとりで、そう言ってにっこりしてくれる。俺は少し考えてから、「ありがとうございます」と素直にあまちゃんからクラブサンドを受け取って、「五分で食ったら行ってみる」と心憎いこの夫婦に感謝した。
 ランチを一気に胃につめこむと、あんまり押しかけてたらヒカれるよな、とかえってあまり来なくなったコールセンタールームに向かってみた。ドアが閉まっていて、これは開けていいのかと思ったものの、差し入れという大義名分で思い切って開けてみた。
 するといきなり、「誠に申し訳ございません」という露村の声が聞こえてきた。
「その商品は現在生産停止しておりまして、──ええ、ショップにまだ商品画像を載せていたのは当社のミスでございます。本当に申し訳ありません」
 長引くかな、と思いながらそっとドアを後ろ手に閉める。いつ電話が来るか分からない部署だから、ほかに残っている人はいるけど、露村をわざわざ心配している人はいない様子だ。
 露村も対応に必死で周りが見えていなくて、そろそろと近づいている俺にも気づかない。露村の背後の誰かのデスクから、椅子だけ借りて腰かけると、やっと露村は俺の気配に気づいてこちらをちらりとした。
 俺がクラブサンドを見せると、その意味は分かったのか目礼してくれて、すぐ対応に戻ってぱたぱたとPCのキーボードをたたく。あの夜、できるわけがないと言っていた仕事なのに、気丈にてきぱきこなしている。
 でも実は辞めたいくらい無理してんなら俺には甘えてほしいなあ、と思ってうなだれて息をついていると、「神野さん」と落ち着いた声に呼ばれてはっと露村を見た。
 いつのまにか対応を終えて、露村はこちらを見ていた。
「それ、天乃からですか?」
「えっ。ああ──えっ、別に、誰というか」
「はっきりしてください。お金を返さないといけないので」
「……あまちゃんです」
「そうですか。ありがとうございます」
 俺は露村の手にクラブサンドを渡し、気まずく手を下ろす。
「あの、俺が届けちゃってすみません。あまちゃん、たぶん萌くんとお昼一緒したかったのかと」
「分かってます」
 露村はクラブサンドをデスクに置くと、またPCに向き直る。「食べないの?」と訊くと、「先にウェブサイトのことで報告があるので」と露村は振り向きもせずに言う。
 冷たいなあ、と思ってしまうけど、それでめげるならいまだに好きだったりしない。でももう俺ここにいる意味ないよな、とちらちら視線が来ているのも感じつつ席を立とうとすると、こちらを見ないまま露村が言った。
「つらくないんですか?」
「はっ?」
「天乃と萌くんのこと」
 俺は露村の紺色の背中を見つめて、「うん……」と曖昧につぶやいてから、逆にその勘違いを利用してみようかな、ととっさに狡賢いことを考えた。
「もし、俺がつらかったら──何か、してくれますか?」
「私がですが? 意味が分かりません」
「……じゃあ、つらくないかとか心配しないでくださいよ」
 露村のタイピングの手が止まった。その台詞は、もう何の期待もこめない、むしろただの嫌味だった。俺すげー嫌な奴だ、と自己嫌悪に耐えられなくて立ち上がると、「神野さん」と露村がこちらを振り返ってきた。
「私でよければ、愚痴ぐらい聞けます」
「え……」
「私は天乃と萌くんが好きなので、神野さんを応援することはできませんけど。愚痴るためのお食事くらいならつきあえます」
 俺はぽかんと露村を見つめた。
 食事。食事って言ったか。俺を応援できないとか、愚痴とか、そのへんの相変わらずの勘違いはともかく、露村と食事──
「い、いいんですか?」
 露村は眉を寄せ、「神野さんなら、ほかにも聞いてくれる人がいるでしょうけど」とちょっと引きに入ったので、ここは俺が押しに入る。
「いや、そんなのいないですよ。プライベートな話する同僚もいないですし」
「そうなんですか。少し意外です」
「いや、だって俺、同期で気になったのなんて正直──」
 君だけだよ。
 そう言いそうになって慌てて口をつぐみ、だがそのタイミングのせいで、「天乃だけなんですね」と見事に露村の勘違いを加速させてしまう。
 ああ、何で。何でだよ、くそ。俺は本当に、こんなにも露村が好きなのに。露村しか見ていないのに。どうして伝わらないのだろう。俺が好きなのはもしかして、とも思ってもらえないのだろう。
 俺は露村を見つめた。露村は、眼鏡の奥の長い睫毛で一度まばたく。
「じゃあ、その……食事、行ってくれますか」
「分かりました。じゃあ、日時決めるために連絡先を──」
「はっ? 俺に教えていいんですか?」
 明らかに突拍子のない声を上げた俺に、「……別に私は構いませんが」と露村は怪訝そうにする。
 何だ。今日は何の日だ。露村と連絡先を交換できるって!
 露村はやや首をかしげつつもメモを渡してくれて、俺も携番やメアドが載っている名刺を渡した。「じゃあ、連絡するので」と俺がどうしてもほくほくと笑顔になっていると、そんなに愚痴相手がいなかったのかと不憫に思われた感じの表情をされたが、もうそれも気にせずに俺は「お邪魔しました!」とコールセンタールームを出ていった。
 ドアをそっと閉めると、とりあえず廊下で小さくガッツポーズをして、露村の手書きの字を見つめてにやにやした。やばい。四年間あの娘が好きで、この展開は初めてだ。長い冬だった。ついに来るか春、と先走って浮かれながら、俺はその日の午後は、ほぼお花畑の頭で過ごした。
 帰宅はたいてい、夜二十時頃になる。親父もそのくらいだし、上の弟の色は現在大学を出たまま無職だし、下の弟の音は大学生だが遊ばずにちゃんと帰ってくる。男所帯で、お袋はけっこう根性がある。
 ちなみに、そんな夕食に、音とそういう仲らしい親友であったはずの夢生が加わることもある。音と夢生は幼い頃からいつも一緒の幼なじみで、俺も顔なじみだ。何となく俺と色にとって、揶揄うのは音、かわいがるのは夢生、という暗黙ルールがある。
 だから俺たちは、音の皿から肉を盗って、「ユメは細いから肉食えよー」とその肉を夢生に食べさせる。そんな俺と色に、お袋と親父は「音にもちゃんと食べさせなさい」とか「自分の肉をユメくんに分けたらいいだろう」とか音を言ってかばう。うちの末っ子のこういう愛情のひとり占め感はすごい。
 そんな夕食が終わり、シャワーも浴びてすっきりすると、俺は部屋のベッドに転がって、露村の連絡先をスマホに登録した。それでも、このメモは大事にひかえておくけれど。

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