君はいつも凛として【4】
露村も俺も酒だが、梅酒って絶対酔わないようにしてるよな。酔ったら本音。あまちゃんのあの言葉がよぎって、俺はメニューをもう一度開いた。
「露村、ほんとに俺がおごりますから、もっと飲んでください」
「え」
「何か、飲みたいから。つきあってくれるんですよね」
「え、と──あまり飲むのも、帰り……」
「ちゃんと送りますんで。大丈夫です」
露村は困ったように俺を見て、俺は「日本酒飲めますか?」と訊いてみる。「少し」と露村がうなずいたので、俺はそのページを開いて、とりあえず俺がうまいと思ったことがあるブランドを注文した。
そうこうしているうちに、料理もやってきた。「一緒に飲んでみてください」と勧めると、露村は手毬寿司をひとつ頬張ってから、コップで澄んでいる日本酒を口にして「おいしい」とつぶやいた。
よし、と内心手応えを感じた俺は、そのまま、不自然にならないように自分も飲みながら、露村に酒を飲ませた。そうして露村は、あの夜ほどには泥酔しなかったものの、頬に赤みを差して瞳をちょっとずつゆらゆらさせるくらいには酔ってきた。
「神野さん……は、」
夜が深まってけっこう俺も酔ってきて、何とか意識をつかんでいると、不意に露村が口を開いた。
「どうしても、天乃……ですか」
「え」
「もう、天乃には萌くんもいるのに……」
俺は頭を揺すって少し酔いを振り落とし、露村を見た。露村の眼鏡の奥は痛々しく滲んでいて、ぽろりと、ひと雫と一緒にその言葉は零れ落ちた。
「それでも、私はやっぱり、気持ちを殺したほうがいいですか?」
……あ。
さすがに俺もその言葉で察した。察した途端、軆が震えかけて、息遣いも指先もかすかに痙攣した。信じられなかった。そんなの、俺の身にあっていいのか分からなくて、怖いほどだった。でも、その言葉が含む意味は──
もう食事は終わっていた。酒はちょっとテーブルに残っていたものの、俺は掘りごたつを抜け出して、露村のことも廊下に引きずり出した。「大丈夫ですか?」と大学生くらいの男の店員が手伝おうとしてくれたけど、俺以外の野郎が露村に触れるのが嫌だったから、「大丈夫です」と何とかろれつをまわして断って、レジに追いはらうために伝票を渡した。何番テーブル様お愛想です、とか何とかその店員が言って、俺は腕に寄りかかって半分寝ているような露村を支えながら、支払いをした。
それから、居酒屋を出て駅前に行ったものの、そういえば露村の部屋の最寄り駅なんか分からなかった。訊いてみても、もうだいぶ酔いがまわって露村は答えてくれない。もちろん放っていけない。俺の家に連れていったら、弟共はともかく両親がさすがにビビる。
ということは──
俺もそうとう酔っていたから、判断力がにぶっていた。そんなわけで、結局俺は、繁華街のほうに出てラブホテルに行っていた。
適当な部屋をパネルから選んで、鍵をつかんでエレベーターに乗って、部屋に到着すると露村をベッドに下ろした。シーツに沈んだ感触が分かったのか、それに安心して露村はあっという間に眠りこんでしまった。
俺は脱げかけている露村のカーディガンだけ脱がせて、それはソファにかけておくと、ふらっと露村の隣に倒れこんだ。でも、それで次に何かするとか考えられなかった。猛烈に眠くて、エロい気分も何もなかった。そのまま、俺は露村と同じベッドで朝まで深く眠った。
翌朝、先に起きたのは俺だった。頬を預けているいつもと違うまくらの感触に、ん、と身を起こそうとした。嫌に軆が重い。何、と思って何とか顔を上げて、「は……?」と声が出てしまった。
何で、こんな、ラブホ──
そこで、感電みたいに昨日の記憶がよみがえってつながって、はっと隣を見た。露村はまだすやすやと、眼鏡をずらして眠っていた。起き上がって覗きこんで、寝顔かわいい、と思ったのも束の間、俺は自分がだいぶやらかしたので茫然とした。
何だ俺。ラブホって。酒どんどん飲ますって。何やってんだよ。女の子に対して、最悪の手段じゃねえか。でも、だって……
露村を向いた。もうその痕は残っていない。でも、俺は確かに見た。涙をひと粒落として、露村は言ったのだ。自分は気持ちを殺したほうがいいのかと。
とはいえ、それを言わせたかったからといって、手段がひどすぎる。まだ酒の匂いが名残る息を吐き、露村起きたら何て言おう、と背を向けて頭を抑えていると、情けない後悔ばかりで吐き気がしてきた。
第一、酔っているときにそういうことを言ってもらったって、この子、全部忘れるじゃねえか。あの桜の夜のこと、俺のことをあんなに綺麗さっぱり忘れた子だぞ。
やばい。このままでは嫌われるフラグしか立たない。ベッドサイドで「あー」と何度も低く嘆きながら、何とかなりそうな言い訳を必死で考えた。でも、もう冷ややかに軽蔑される眼しか思いつかない。
あまちゃん俺やっちまったよ、と四年以上応援してきてくれた友達にどう謝るかを考えるほうに無意識に逃げていたとき、ベッドの上から身動きが聞こえて、俺はびくりとそちらを見た。
「え……あれ、………」
やっぱそうですよね、とりあえずそのリアクションですよね、と思っているうちに、露村はずれていた眼鏡をかけなおして室内を見まわした。もちろん俺に目を止め、「えっ!?」とめずらしい大きな声を上げた。
「え、神野さん……どうして、私、神野さんとこんな、」
「いや、何もしてないんで。絶対何もしてません」
「そ、そういう問題じゃないですっ。こんな、ここって、その」
「ラブホですが、いや、昨日部屋に送ろうと思っても、駅とか何も聞いてなかっ──」
言い終わる前に強かに頬を引っぱたかれた。ぱんっと音が弾け、当然の痛みが脳天に突き抜けていく。俺を頬を抑え、露村を見た。ひと晩眠って、露村のほうはそれで酔いは醒めたらしく、歯を食い縛って怒りをこめて俺を見ている。
それを見ていると、何だか、すごくその反応が露村らしいと思った。そしてそう思うと、変な安堵感で俺はへらっと笑ってしまった。
「な、何で笑──」
俺は腕を伸ばして、露村の細い腕を引っ張った。露村は驚いた声を上げて、それでも俺の腕の中にたやすく収まった。俺は露村をぎゅっと抱きしめると、その髪を久しぶりに撫でた。
「いつもの露村だ」
そう言って、俺は露村の柔らかさとか体温とかをしっかり受け止めた。本当に、いつもの露村だ。でも、あの夜のまま細くて頼りない軆だ。
「神野、さん──」
「うん」
「……ま、まだ、天乃の代わりにしてるんですか?」
「そうされるとつらい?」
「……──、」
「俺が好きだからつらいですか?」
腕の中で露村がびくっと動いて、「離して、」と俺を突き放そうとしてきた。でも俺はそれを許さず、露村を抱きすくめて、言葉をつないだ。
「俺もつらいです」
「えっ?」
「好きだって気持ちに、まるで気づいてもらえないのは」
露村を覗きこんだ。びっくりした丸い瞳がある。俺は慎重に右腕を放して持ち上げ、露村の眼鏡をはずしてまくらもとに置いた。睫毛が震えている。そのまぶたに唇を当てて、伏せさせてから、今度は唇に優しくキスをした。
「神野……さん、」
「ずっと好きだった」
「……うそ、」
「入社したときからずっと。露村と一緒に頑張るって約束したから、俺は今の仕事が続いてるんだ」
「………、」
「その約束のときも露村は酔ってたな。だから、憶えてないんだよな。でも、あの夜からずっと露村が好きなんだ」
「お……憶え、て……」
「うん。憶えてないよな。いいんだ、でもそのとき、」
「憶えて、……ますよ」
「……えっ?」
「憶えてます、あんな恥ずかしいの。当たり前じゃないですか。そこまでずうずうしくありません」
「え……けど、」
「恥ずかしかったから、もう、他人のふりしておきたくて。次の日、忘れたふりしたのに。何で、あんな泣きわめいてただけの女を好きになんてなるんですか。ちゃんと、お礼を言いたいのに、でも怖くて、忘れたふりなんかしたせいで、もっと素直になれなくて。だけど私も、あの日神野さんが一緒に頑張ろうって言ってくれたから。あんな、ほんとにクレームのたび死にたくなってる私でも、今の仕事続けられてて……っ」
露村の瞳からどんどん涙がこぼれおちていって、俺のスーツやネクタイに染みこんでいく。軆の力がふわりと抜けてしまいそうだった。でも、そうしたら露村が逃げてしまいそうだったから、何とか彼女を抱き留める。
「神野さんが天乃のこと好きだって思って、私、それから自分の気持ちに気づいて。もう遅いって何度も思って。天乃が萌くんとつきあいはじめて、結婚して、ちょっと嬉しい自分が醜くて嫌で。もっと、神野さんは私なんか見てくれないだろうなって」
「露村……」
「もう、何ですか。何なんですか。私、バカじゃないですかっ……」
「露村」
「私、こんな……私で、ほんとに……」
「俺には、そんなふうに、気持ちを殺さないで」
「神野さん……」
「俺を想ってくれてる気持ちを大切にしてあげて。よければ、ずっと。それで、俺のそばにいて」
露村がやっと俺の胸にしがみついて、うなずいてから、「はい」と涙声で答えてくれた。俺は思わず息を吐いて、「俺も露村を大事にする」とその耳元でささやいて抱きしめた。華奢な腕も俺の背中にまわって、こくこくと露村は何度もうなずいた。
露村の涙が落ち着くと、「とりあえずここは出ようか」と俺は軆を離した。露村はうなずき、でもその前に、カーディガンを羽織って顔を洗いにいった。戻ってきた露村は化粧が落ちた素顔で、ちょっと決まり悪そうに顔を伏せる。俺は覗きこむ意地悪をしたいのを我慢して、その手を握って一緒に部屋を出た。
「今日、休みでよかった」
朝の繁華街は人気が薄く、足音が残るほど静かだった。俺がそう言うと、「そうですね」と露村は下を向くまま答える。何となく暑いのは、晴れた初夏の気温のせいだけではないだろう。
「このまま、どっかデートとかいいの?」
「……その前にたっぷり酔わされた服を着替えさせてください」
「はは」
「それで、……そのあと、どこか出かけましょう」
俺は露村を見た。露村も俺を上目で見上げる。
くそ、かわいい。あー、ほんと、すっげえかわいい。
長い片想いが終わったのだ。お互い。やっとこの子が俺の彼女になった。
あの夜、弱音を吐いて泣きじゃくる君を好きになった。でも、そんな顔なんて見せずに凛としている君も好きだ。どっちも好き。
けど、その素直な笑顔はもう俺だけのものにしてほしい。ほかの奴の前では、君はいつも凛として。そしてその素顔は、俺だけの秘密の宝物にさせてよ。必ず、一生かけて、大切にするから。
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