ずっと、いつも、【4】
十一月に入って、一番初めの土曜日、思いの外早く俺と梨実のオフが重なった。梨実の家には、百乃ちゃんの家庭教師をしていた頃ほぼ毎日通っていたので、駅に着いてから家までの道まで頭に入っている。
青い秋晴れの日だった。日射しはあっても、空気が冷たくて、気候が澄んでいる。閑静な住宅街で到着した一軒家のチャイムを鳴らし、インターホンに「色です」と言うと、梨実がドアに顔を出して手招きをした。
「お邪魔ー」
言いながら玄関に踏みこむと、リビングのドアからひょいと百乃ちゃんが顔を出す。セミロングがボブカットになっている。
「色さん。こんにちは」
「こんちは。髪切ったんだ」
「夏に一度ショートにしたんです」
「マジか。見ておけばよかった」
「短いの似合ってなかったから見なくてよかったです」
「はは。大学順調?」
「そこはちゃんと、色さんにお世話になったので」
食事のいい匂いがしてきている家に上がった俺は、「よしよし」と百乃ちゃんの頭を撫でる。玄関に鍵をかけてきた梨実は、「おかあさんが塩麻婆豆腐作ってる待ってるよ」とくすくす笑う。
「あ、あの白い奴な。梨実んちで初めて見たんだよな」
「色、気に入ってたよね」
「塩味だから飯に合うのがたまらん」
そう言いながらリビングに入り、「おっ、色くんが来たか」とおじさんがソファから立ち上がって笑顔をくれる。娘の男友達なんて複雑かもしれないのに、わりと気さくな親父さんで好きだ。
「去年は百乃の勉強を見てくれて助かったよ。浪人はいろいろつらいからねえ」
「教えたというか、勉強してきたこと伝えただけですけどね。力になれたならよかったです」
「今は梨実と同じ職場だそうだね」
「情けないながら梨実に紹介してもらいました。このままだとニートの恐れがあるって」
「梨実もねえ、気になる男にはしっかりしてほしい性分だからね」
「え」
「おとうさん、適当なこと言わないで。色はない。ほんとにない」
俺が変な顔になると、「おとうさんとおかあさんは、おねえちゃんに色さん推しなんだよね」と耳打ちしてきた。そうなのか、と思っても、俺のほうが「梨実はないです」というのは失礼だろう。何とも言えずに笑ってしまっていると、「まずはみんなでお昼を食べましょう!」とおばさんが塩麻婆豆腐だけでなく、餃子やスープをテーブルに並べてくれていた。
俺の家ではあまり食材にこだわらないというか、ざっくりした料理が多いけど、梨実のおばさんの料理は丁寧でおいしい。今日は中華風で、餃子の中身はハムとチーズだったり、スープにはたまご豆腐が沈んでいたり。家庭教師時代はしょっちゅう夕食までいただいて帰っていたので、そういう料理が懐かしくて「やっぱうまいですねー」と遠慮なくがっつり食べてしまう。
「色くん」
「ん、はい?」
ハムの中で蕩けるチーズに白飯まで口に入れ、もぐもぐしながら顔を上げると、おばさんが意味深ににやりとした。
「私が作れる料理は、ちゃんと梨実にも伝授しておくからね」
「え」
「っもう、おかあさんまで!」
「梨実はろくに彼氏も作らないんだから。色くんならおかあさんもおとうさんも安心だし」
「いや、こいつ──こいつ、けっこう、あれだよ? おとうさんとおかあさんが知らないだけで、何というか……」
「おばさん、ごはんお替わりいいっすか」
「もちろん。女の子が授かれたらそれでいいと思ってたけど、たくさん食べる男の子もなかなかよかったのねえ」
「色さん、うちに婿に来たらいいんじゃない」
「百乃まで言うの!?」
梨実にぎっと睨まれて、百乃ちゃんは楽しそうに咲う。俺はそれを見つめて、ずいぶん、そんなふうに咲うようになったんだなと思った。
俺が家庭教師をしていた頃は、ちょっと堅い子なのかなとも感じていた。咲うけど、どこか重くて、視線をあまり合わせない。勉強も噛み砕いているというより、機械的に飲みこんでいるように見えた。
でも、感じの悪い子とは思わなかったから、俺は家庭教師を続けていた。そうしたらある日、「もしかして音っていう弟がいますか?」と訊かれた。思いがけない質問に驚いたけど、そういえば、百乃ちゃんの高校と音の高校は同じだった気がする。「音のこと知ってんの?」と訊くと、百乃ちゃんはシャーペンを置いてため息をついて、「つきあってました」とぽつりと言った。
「つき……えっ、つきあってた? 音と?」
「はい。二年の一学期。同じクラスで、話してみてすぐ好きになって。あたしから告って」
「マジか。え、今は」
「振られました」
「はっ? 何だあいつ──」
「音には、もっとほかに好きな人がいたんです」
「えっ、二股されてたの?」
百乃ちゃんは首を横に振り、「やっぱりその人とつきあいたいから、もうあたしとは別れたんだと思います」と睫毛を伏せた。
何だ、音。そんな簡単にひとりの女の子の気持ちを斬ったのか。もっと好きな奴がいるなら、せめてつきあわないとかできなかったのか。百乃ちゃんがつきあえたことで期待して、それを経て振られたから落ちこんでいるのは、俺でも分かった。
「音にヤキ入れてもいいよ?」
百乃ちゃんは俺を見上げて、壊れそうに咲った。それが初めて見た百乃ちゃんの笑顔だった気がする。
「すみません、愚痴ったのはそういうためじゃなくて」
「でも」
「音、その人の隣であんまり幸せそうだから。あたしではダメだったんだなあって……分かってますから」
「音は今、その子とつきあってるの?」
「はい」
「あいつ、親友の野郎とばっかりつるんでるけどな。彼女いたのかよ」
「彼女ではないんですよね」
「え」
「どうやら、色さんも知ってる子ですし」
俺は百乃ちゃんを見た。百乃ちゃんはシャーペンを持ち直し、参考書のほうに身をかがめる。
彼女ではない。でもつきあっている。しかも俺が知っている奴──
「そういや、何かあいつ、えらく親友の野郎と絆深めてるっぽいけど……」
「はい」
「え?」
「はい」
「そうなの?」
「あたしはそう報告受けてます」
「……いや、確かに音は、ガキの頃にユメと結婚するとか言ってたが、もうそういうことには分別がつくだろ」
「男同士は分別がないですか?」
「そういう意味ではありませんが。えー、音が? ユメと? ガキの頃からのこじれではなく?」
「みたいですよ。兄としては応援できませんか」
「いや、正直ガキの頃からつきあってたと言われたほうが納得するんだ、ごめん」
「ふふ。やっぱ、おにいさんから見てもそうですよね。すみません、勝手に話しちゃいけないのかもしれないけど。でも、音たちのこと、打ち明けられたら受け入れてあげてほしいから」
俺は百乃ちゃんの頭を撫でて、「優しいね」と口調をやわらげた。百乃ちゃんは照れ咲って、「ここ、解説ください」と参考書を指さす。俺は覗きこんで敷衍して説明しながら、この子にもちゃんと相手が現れてほしいなあ、と思った。そのときから、百乃ちゃんに彼氏ができていないかは、たまに梨実を通して窺っている。
その日は夕方まで梨実の家でゆっくり過ごして、やはりおいしい夕食ももらってから、二十一時頃に梨実の家をあとにした。「駅まで道分かるよ」と言っても、「送る」と梨実はついてきて、俺たちは並んで月の下を歩いた。
冷えた風がきめこまやかに透き通って頬を撫でていく。周りの家からほがらかな物音がぼんやり聞こえているけど静かで、虫の声がまだ少し響いている。
「ごめんね」と梨実は不意にそう言って、「ん?」と俺は首をかしげた。
「何が?」
「うちの親、完全に色を彼氏にしたがっちゃってて」
「俺は別に気にならないけど、梨実は嫌だろ」
「うん」
「……はいはい、次来たら俺からも『ないですから』って言いますよ」
「だってさ」
「うん」
「浮気するじゃん、色って」
「本気の相手がいたことないからな」
「女とはいい加減にしかつきあわないってことでしょ」
「別に、音みたいに男に走るということはないと思うが」
「………、つらいからさ」
「つらい」
「つきあったら……もう、我慢できないじゃん。何というか、独占欲?」
俺は梨実を見下ろした。梨実はこちらを見上げることなく、そっぽを向いている。
「独占欲」
「……察しろ。ばかっ」
え。ええ……と。
これは。これは、もしや、そういう意味なのか?
梨実が? 俺を? 何で? いつから?
ずっと、いつも、一緒にいたけど、そんなもんぜんぜん感じたことないぞ!?
梨実は一歩踏み出して、俺に背中だけ見せて歩く。俺はぽかんと突っ立ちそうなのから目を覚まし、そのあとをついていく。「梨実」と声をかけても返事はない。
「お……俺も、『好き』かは分かんねえけど、でも、梨実なら予約だけはするぞ」
梨実が足を止める。高層マンションの向こう側に、駅前のざわめきが少しだけ聴こえる。
「梨実──」
梨実は振り返って、「キャンセルは受けつけませんが?」とくすりと咲う。その悪戯っぽい笑みに俺も咲ってしまって、「逃したら絶対後悔するから」と腕を伸ばしてその軆を抱き寄せる。
「梨実を好きになるよ」
梨実は俺の胸に額を当ててうなずいた。抱きしめてこんなにしっくりくる柔らかさは初めてで、自分の匂いにもぐりこんだときのようにすごくほっとした。
ずっと、いつも、そばにいた。だから気づかなかったけど、気兼ねなく話したり甘えたりできるこいつに、俺のほうもとっくに独占欲があったのかもしれない。そして俺はあのとき、紅葉に独占欲があると言った花に対して、自分で言った──
じゃあ、もう特別なんだろ?
うん、特別だ。梨実以外の女なんて、よく見渡すと考えられない。だから、俺の隣にいるのはこいつなんだ。ずっと、いつも、俺は梨実の隣にいたいんだ。
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