日常風景-13

In Summer Vacation【1】

 蝉の声が激しくなってきて、ベッドの中で目を覚ました。少しうめいて目をこすって、時計を見ると七時をまわっている。
 ひとつあくびをしてゆっくり身を起こすと、朝か、とカーテンを引いた窓を向いてまばたきをした。
 クーラーは切って寝たから、部屋はちょっと暑い。毛布は無意識に跳ねやっていても、汗をかいているから、ちゃんとシャワーを浴びよう。今日も会うから、汗臭いとかは思われたくない。
 ベッドを降りると、カーテンを開けて朝陽を室内に招き、部屋を出てリビングに向かった。
 弟の冬海ふゆみがソファに引っくり返って、牛乳のかかったコーンフレークを食べている。「おはよう」と声をかけると、「はよ」と短くそっけなく返され、息をついてしまう。
 冬海は気が強くて、昔から家族と慣れ合うようなタイプじゃなかった。特に僕のことは女々しいと言って、いらついて接する。両親は冬海の態度を注意するけど、もう僕はわざわざたしなめたりしない。
 キッチンに行くと、おとうさんのすがたもおかあさんのすがたもなかった。おとうさんはいたって普通にサラリーマンで、おかあさんも冬海が高学年になってパートを再開した。僕もコーンフレークを皿に流しこんで牛乳をかけると、日射しが暑いダイニングのテーブルでそれを食べはじめる。
 夏休みが始まって一週間が過ぎた。今日も柊さんに会える。一応、親とかへの説明では、受験生の僕が勉強を教えてもらうということになっていて、実際、勉強もするのだけど。
 柊さんの部屋でふたりきりになるのは、どきどきする。最近、触れられるときの空気が親密になってきた。夏休みにそうなるのかな、とか考えてしまって、勝手に頬が熱くなる。
 柊さんは現在高校二年生で、昔は同じ中学に通っていた僕の先輩だ。中学に入学して、柊さんに関するそのうわさはすぐ僕の耳にも届いた。
「三年にホモの先輩がいるらしいぜ」
「マジかよ。うわ、関わりたくないな」
「目えつけられたら最悪じゃん」
 小学校のとき、友達のおにいさんに惹かれて、僕も自分がそうだと知っていた。友達の家に遊びに行って、そのおにいさんとすれちがえると嬉しかった。「こんにちは」くらいしか言い交わしたことはない。だから、本当にほのかなものだったけど、確かにそれが僕の初恋だった。
 その「ホモ」と言われている先輩のうわさにさりげなく耳をそばだてた。名前やクラスを知っていくほど、話してみたいと思うようになった。
 僕は自分のことを誰にも言えずにいた。みんなに自分のことを知られている先輩はすごく強いと感じた。無視されるかもしれない。拒否されるかもしれない。それでも、僕は勉強より手紙の推敲に夢中になった。そして、やっとの想いでそれを先輩の靴箱に入れた。
 そうして出逢った塩沢柊先輩は、思ったより繊細で、たくさん傷ついていて、でもすごく優しい人だった。例のおにいさんのことなんか、あっという間に忘れた。どんどん先輩が好きになって、隣にいるだけで泣きそうなほど幸せで、胸がいっぱいになった。
 僕が一年生のとき、先輩は三年生で、すぐに卒業が来てしまった。卒業式、声をかけたくても、みんなに囲まれる先輩に近づけず、よく一緒に過ごした非常階段でぼんやりしていた。そしたら先輩が僕を見つけにきてくれた。第二ボタンをもらえた。この日を区切りに、先輩とは会えなくなるのだろうか。そう思って、うつむきかけた僕に先輩は言った。
「俺、二ノ宮のことが好きだ」
 言葉に魔法を感じたのは初めてだった。非現実な感覚に、一瞬信じられなかった。でも、魔法はゆっくり僕の心に溶けていった。僕も先輩が好きだと伝えて、それから、学校外での僕と柊さんの関係が始まった。
 柊さんは僕をすごく大事にあつかってくれる。抱き寄せるときも、頭を撫でるときも、情動で僕を激しくあつかったりしない。僕のほうがよっぽどぎゅっと抱きついたり、強く手を握ったりする。
 柊さんが本当に好きだった。好きで、好きすぎて、眠る前に不安になるほどだった。いつか別れる日が来るのだろうか。柊さんが僕の毎日からいなくなる日が来るのだろうか。柊さんが想い出になる日が来るのだろうか。
 涙があふれてきて、柊さんに頭を撫でてほしくなる。こんな僕は、重いからダメなのに。どうしようもなく柊さんで心がはちきれそうで、だから会えたときは甘えてしまう。柊さんは咲って僕を受け入れて、「夏樹」と僕の名前を耳元で呼ぶ。
「早く、もっと一緒にいられるようになるといいな」
 僕はうなずく。もっと一緒に。ずっと一緒に。柊さんから離れずに済むようになればいい。
 朝食を終えると、シャワーを浴びたりした僕は、一秒でも早く柊さんに会いたいから荷物をまとめて家を出る。おかあさんがパートを再開してから、僕も冬海もケータイを持つようになった。だから柊さんとの連絡もスムーズになった。今家を出た旨のメールを送ると、迎えにいくとすぐ返ってくる。
 一応、学校に友達はいる。柊さんと親しいことで、二ノ宮夏樹はホモじゃないかといううわさは流れている。でも、先輩である柊さんがついているのは確かだから、イジメとかは発生していない。友達は確認する近さより確認しない軽さを取って、うわべで僕と咲っている。
 みんな塾での勉強がいそがしいから、さいわい僕の夏休みを冒してくることもない。僕は親の勧めも断って塾には行っていなくて、勉強は柊さんに教えてもらっている。志望校はもちろん柊さんと同じ高校だから、それで足りていると思う。それでも親は、塾にも行ったほうがいいと言ってくる。
 でも、塾のせいで柊さんといられる時間が減るのは嫌だ。両親にも冬海にも、柊さんとの本当の関係はまだ話せていない。いつか話したいけど、受け止めてもらえるかは自信がない。自活で家を出るとかなったとき──別れ際のようなときに、ようやく話せるのではないかと思う。
「夏樹!」
 吸いこまれそうな青空の下、あっという間に熱中症になりそうな猛暑だった。汗がもぎとられ、喉がからからになる。夏風は重たくよぎり、肌に熱気がねっとり絡みついてくる。
 ちょっと息を切らしながら道を急いでいたとき、前方にそんな声が聞こえて、現金にもぱっと顔を上げた。
「柊さん」
 僕は立ち止まり、柊さんは笑顔で駆け寄ってくる。僕も自然と笑顔になってしまう。
「おはよ」
「おはよう」
 ──ございます、と続けないようには、なれた。以前は柊さんのことは「先輩」と呼んでいたし、言葉遣いも敬語だった。
「今日も暑いね」
「三十度超えるって」
「わ、そうなんだ」
 柊さんは首をかたむけてから、「ほんとに今日も俺の部屋でいいのか?」と案じる。
「クーラーいまだにないぞ。室内でも熱中症になるんだろ」
「ん、僕の家は弟が大きな顔してるから」
「じゃあ、ファミレスとかは──」
 僕は柊さんの遠慮を断るように手をつかんだ。
「柊さんとふたりがいい」
 柊さんは、じっと見つめてきた僕に、ちょっと照れて咲うと、「そっか」と手を握り返してくれた。僕は本当は腕にしがみつきたいくらいなのをこらえ、柊さんと並行しはじめる。
「そういえば、夏樹って夏休みにちょっと遠出できる日あるか?」
「夏休みはずっとヒマだよ。両親は仕事だし」
「盆も?」
「あ、お盆は帰省するかも。それ以外は何もない」
「じゃあ、前に話した芽さんとメル友のこと憶えてるか?」
「うん。会うのに立ち会うって話だよね」
「八月の頭くらいに会う約束したらしいんだ。向こうも俺たちがいることは了解してくれたらしい」
「そうなんだ。あ、じゃあ、行くんだ。僕たちも」
「ああ。市内で会うことにしたって。交通費、そんなにめちゃくちゃかかることはなさそう」
「よかった。ちょっとそれ心配してた」
 僕の正直な言葉に、柊さんは咲う。芽さんというのは柊さんの友達で、たぶん、現在は僕のことも友達だと思ってくれているゲイの男の人だ。
 柊さんの中学時代のクラスメイトのおにいさんで、ずっと部屋に引きこもっていた人だった。そんな芽さんを根気良く訪ねて、閉ざされたドアを開ける切っかけになったのが柊さんで、しばらく僕は、わずかに嫉妬のような不安のようなものもあった。
 実際話してみると、芽さんは僕と柊さんのことを「うらやましい」と応援してくれて、やっと心を許すことができた。そんな芽さんが今気になっているのが、ネットで知り合った年上の男の人らしい。

第十四章へ

error: