Color Of Love【1】
引きこもっていた頃は生活リズムなんてなかった。朝寝たり、夜起きたり、眠りつづけたり、何日も起きていたり。
今はだいぶ、朝に起きて、夜には眠るのが習慣になった。今朝もきっちり六時に起きて、まずは我が家の愛犬のカシスの散歩に行く。
靴を履いてアスファルトを踏む感じも、しばらく慣れなかった。肌に触れる空気を警戒しながら歩く僕を、カシスはおっとり見上げて歩調を合わせてくれる。
ひとりで歩くのはまだ不安だけど、カシスと一緒に同じ道を歩くのは怖くなくなってきた。朝、同じように犬の散歩をする人とすれちがって、挨拶できるようにもなった。
カシスは見慣れない人はけっこう警戒するけど、慣れた人には嬉しそうに懐いている。僕が散歩に連れていくようになる前は、同じ時間帯にかあさんが散歩に連れていっていたらしく、ラブラドールレトリバーに似たカシスがふさふさの尻尾を振る人はだいたいすでに決まっていて、飼い主の人も僕を憶えてくれるようになった。
昨夜の雨は上がった様子で、青空の空気はひんやり澄んでいた。四月の下旬、雨の日がちらほらあっても、寒いと感じる日も少なくなってきた。陽射しが柔らかく肌を温め、すずめが騒がしく鳴いて羽ばたいていく。通り過ぎる家並の花壇からは、春の花の匂いが揺らめいていた。
三十分くらい近所をぐるりと歩いて、僕とカシスは家に戻る。そこでは、とうさんや妹の亜里紗が会社や学校をひかえてばたばたしている。僕は庭のサンデッキにまわってカシスをつなぐと、「ごはん持ってくるよ」とその毛並みのいい頭を撫でて、いそがしそうな家にいったん入った。
「あっ、おにいちゃんおはよう!」
この春、高校二年生になってしばらく経つ亜里紗が、まだルームウェアで、伸びた髪に櫛を通しながら玄関を通りかかり、笑顔でそう声をかけてくる。明るく元気という言葉がぴったりな、僕のかわいくて自慢の妹だ。
「おはよう」
僕は靴を脱ぎながら、やっと自然に作れるようになってきた笑みを浮かべて答える。
「今日は天気よさそうだよ」
「ほんと? 昨日の雨あがったんだね」
「夕べはすごい降ってたね。朝ごはんは?」
「今、おかあさんが作ってるよ。カシスにごはんあげる時間はあると思う」
「そっか。じゃあ、そうするよ」
亜里紗の頭をぽんぽんとして、「おはよう」とダイニングに踏みこむと、「おはよう、芽」ととうさんとかあさんが同じ言葉を返してくれる。ふたりの僕への表情も、顔色を窺う感じからほっとしているものになった。
「カシスのお散歩ありがとう」
フライパンをあつかっているかあさんが言って、僕は首を横に振って「僕がカシスに助けられるから」と咲う。
「カシスがいてほんとによかったなあ」
すでに背広すがたで新聞を読むとうさんはそう笑って、「うん」と僕がうなずいていると、「カシスはおにいちゃんのセラピー犬だからねっ」と髪を艶やかにした亜里紗がやってきて言う。「もう、早く制服に着替えなさい」とかあさんが苦笑いすると、「はいはーい」と亜里紗はぱたぱたと二階に上がっていった。
僕はキッチンの床にあるカシスのごはん皿にドッグフードを盛って、少し牛乳をかけてあげてから、サンデッキに出た。カシスが勢いよくサンデッキの階段に身を乗り出す。
「待て」と言いながら僕は階段を降り、芝生にごはん皿を置く。カシスはお座りをして、黒い瞳でドッグフードを見つめる。おて、おかわり、ふせ、おまわりをさせると、十秒間待たせてから、「よし」と言った。カシスはけっこうがつがつ食べるから、詰まらないように牛乳で喉越しを助けてあげている。
カシスが食事を終えて、僕が家の中に戻る頃には、かあさんが四人ぶんのオムレツや温野菜、コーンスープをテーブルに並べていた。
「芽、高校のほうはどうだ?」
ブロッコリーを口に運びかけたとうさんに問われて、「まだよく分からない」と僕は曖昧に苦笑した。
「レポート出せばいいのかなって思ってたけど、一応、出席日数とかもあるみたいだし」
「そうか。登校は大丈夫か?」
「ちょっと怖いときもある。電車って人多いね」
「不安なときは、かあさんが付き添えるかな?」
「ええ。無理しなくていいのよ。三年できっちり卒業できなくてもいいんだし」
「ありがとう。でも、なるべくひとりで頑張るよ」
「ほんとに遠慮しなくていいのよ」
「別に、通信制って付き添いとかめずらしくないんでしょ? いいじゃん、初めはおかあさんとでも」
「まあ、やっぱり、ちょっと恥ずかしいよな?」
「うん、正直」
とうさんの言葉に僕が含み咲うと、「心配してるのに」とかあさんがちょっとむくれて、「頑張りすぎないでね」と亜里紗は僕を見つめる。
あまりにも食卓が優しくて、温かくて、それがかえって心をちくりとさせるときがある。こんなになごやかな食卓を、僕は何年も身勝手に拒絶していた。
そう思うと、もう迷惑はかけたくないと思ってしまう。なるべく家族に面倒はかけずに生きていきたい。僕にできることなら、できるだけひとりでやっていく。そうしたい、と思えている。
食事を終えると、とうさんは車で出勤して、亜里紗は駅まで徒歩で電車通学だ。ふたりを見送ると、食器を片づけるかあさんを手伝う。
かあさんはふと手を止めて僕を見つめる。僕が見つめ返して、「何?」と言うと、「一年ぐらいで一気に成長したね」とかあさんの笑顔が一瞬泣きそうになった。その笑みに僕も泣きそうに咲って、「かあさんたちが頑張ってくれたから」と言った。
「おかあさんたちは何もできなかったわ。頑張ったのは、亜里紗と塩沢くんね」
「柊くんも二年生だよね」
「そうだと思う。今度来てくれたら、何かお祝いしたほうがいいのかしら」
「普通でいいと思うよ。僕のことも──大丈夫だから。ちゃんと、学校行くよ」
「無理してない?」
「行くって決めたのは僕だからね」
「みんな応援してるから」
「ありがとう。ひとりじゃ分からないときとか、何かつらいときは、相談するよ」
かあさんは微笑してうなずき、僕の腕をとんとんと優しくたたいた。
そうだ。今は相談できる。あのときは、そうしたことをひどく後悔した。本当に、死にたくなるほど後悔した。でも、今なら信頼して家族に話せる。
僕がゲイで、同性に惹かれて、いずれ男と愛し合いたい男だということを。
初めて家族に僕がそうだと話したとき、みんな、冗談はやめろと否定した。精一杯の告白を理解されず、僕は家族が怖くなって、厭わしくなって、拒むようになった。
部屋を雨戸で締め切った。ふとんをかぶって動かなかった。光のない部屋でほとんどベッドに横たわって過ごした。暗闇に溶けて、自分が生きているのか死んでいるのか分からなくなった。
ただひたすら、記憶と思考がノイズのように耳障りに脳に流れこんでくる。自殺も何度も考えた。家族にさえ受け入れてもらえない自分など、死ねばいいと思った。死ぬべきなのだろうとも思った。僕が死んだら、家族も楽になる。恥がいなくなって楽になる。
僕は死ぬしか能がない。でも、それにともなう勇気が出ないまま、何年も過ぎた。そのドアのノックは、ある日突然、僕を揺り起こした。
ドア越しに何度も謝罪し、語りかけてくる亜里紗の話で聞いてはいた。塩沢柊くん。彼もまた、ゲイの少年だった。それを理由に学校でひどいイジメを受けていた。それでも、彼は学校をやめずに毎日闘っていた。
柊くんは、僕にドア越しに根気よく話しかけてくれた。僕は何も言わなかった。物音ひとつ返さなかった。
なのに、柊くんは僕を見捨てず、訪ねてきてくれた。そして、僕がひとりぼっちではないことを何度も説いてくれた。自分もいる。両親もいる。亜里紗もいる。みんな、こんなわがままな僕を嫌ったりせず、招き入れる覚悟はできていると。
初めは信じられなくて、今さらこわばった心を揺すぶられるのが怖くて、嫌でたまらなかった。毛布をかぶって耳をふさいでいた。でも、柊くんの声は僕を倦まずに励ました。
【第六章へ】
