拒否反応だけ
とはいえ、深月はそんなビッチなところを除けば、意外と成績や態度は優秀だった。
二年生になって勉強の壁が高く厚くなっていくのを感じるが、深月は数学で黒板に答えをすらすら書いて、英語で当てられても綺麗な発音で朗読する。体育でも柔らかい軆で記録を出したり戦力になったり、制服もいつも整っていて、顔も化粧で飾っている様子はない。
何で。なぜあいつが、みんなに嫌われることがないんだ。何かほんといろんな意味でムカつくんだけど、と直接深月と話したこともないくせに、感情をすりつぶして歯軋りをするほどやっかんでしまう。
ところで深月は生徒会に入って書記まで務めている。本当に上っ面はいい子だな、と斜めに見ていたが、今年度前期の生徒会のメンバーが朝礼で挨拶したとき、俺は三度見くらいしてしまった。
生徒会長が、あの眼鏡先輩だったのだ。神楽利斗。別れたのにいちいち顔合わせてんのか、と信じがたく思ったのも束の間、うわさでは深月は神楽先輩と別れてなどいないらしい。実際、昼休みに神楽先輩が俺たちの教室を訪ねてくることもあった。
隣のクラスに浮気相手いるんだぞ、と周りがひやひやする間もなく、いたってナチュラルに神楽先輩と御門は鉢合わせていた。さすがの深月も顔色を変えるかと思ったが、まったく意に介さずにこにことふたりに接している。一応、男ふたりは相手にガンは飛ばしているのだが、なぜか事実には触れず、喧嘩もしていない。
分からなかった。あの三人は何なのだ。それだけではない。深月とやりたいと言う奴らも、俺には分からない。言葉は悪いが、公衆便所みたいな女なのに。
生徒は何か委員を受け持たなくてはならず、前期、じゃんけんに早めに勝てなかった俺は、風紀委員になった。まあそんなに大変な委員でもないかと思っていたら、連休前の昼休みのとある委員会で、今年から風紀委員は当番制で朝一に登校し、服装チェックで校門に立てと教師が議題に持ち出してきた。
生徒たちはもちろん反発し、予鈴まで話し合いが続いた。結局生徒会長の客観を仰ごうということになって、「生徒会に知り合いいる人いる?」と挙手を求められた。誰も手を挙げなかった。
すると、何の因果か「天智くん、書記の深月さんと同じクラスじゃなかった?」とかどこからともなく言われて、俺は風紀委員長に生徒会長に提出する用紙を押しつけられた。
「ごめんねっ。私、受験に備えて塾行ってて、放課後は時間なくて」
委員長の先輩はそう言い、受験を引き合いに出されては、俺も先公の手前断れなかった。「はあ」と仕方なく用紙を受け取ると、「よし、じゃあ授業に間に合うように急いで!」と慌ただしく解散になった。
俺も教室に戻りながら、何かいろいろうぜえ、と小さく舌打ちした。
教室で、この用紙を深月にさくっと渡せばいいのは分かっている。それで終わることだし、そうしたら手間もない。
が、深月に話しかけるのが猛烈に嫌だった。これという理由はないが、単にあのビッチに関わりたくない。変に話しかけられようになったらどうするんだ、と自意識過剰が突っ走る。
二時間悩んだ結果、神楽先輩はわりと感じよかったしな、とも思って、生徒会長室におもむいて、この用紙は直接神楽先輩に渡すことにした。
放課後は、静かな小雨が降りはじめていた。満開だった桜は、すでに四月半ばに続いた乱暴な雷雨にもぎとられていて、濡れた葉桜は目が痛むほど緑だ。
渡り廊下で中庭を通りかかると、土の匂いがした。少し寒い。
職員室と校長室の前を横切って、雨音以外静かな廊下に面した生徒会長室のドアをノックした。しかし、返事はなかった。考えれば、先輩も三年生だから塾とかあるのかなと気づいた。
でも今から深月を捕まえるのは無理だし、渡すのが明日でいいか分からないし、というか明日祝日で休みだし──
何かまずくないかこれ、と焦りが生じてくる。せめてこの用紙を生徒会長室に置いていければ、とドアを開けようとしても、もちろん鍵がかかっていて動かない。
やべえ、と任されたことを私情ですっぽかしたことになる事態に、突っ立っていたときだった。
「どうかしたのか?」
不意に背中に声がかかって、はっと振り返った。
柔らかそうな猫毛の髪、わりとしっかりした肩幅、眼鏡の奥は意外と童顔──のその声の主は、紛れもなく生徒会長の神楽先輩だった。助かった、と思わずため息が出る。
「生徒会に何かあるのか?」
「あ、はい、あの──」
「あれ、天智くんだ」
のんきなその声に、条件反射で眉がゆがんだ。
神楽先輩の後ろから、女子生徒がひょこっと顔を出す。俺を見て睫毛をしばたかせているのは、深月毬実だった。
なぜお前がいる。いや、生徒会書記で、神楽先輩の彼女だが。
神楽先輩は隣に並んだ深月を一瞥する。
「毬実の知り合いか?」
「同クラ」
「そうか。──何か用事か?」
神楽先輩は俺に目を向け直して、「あ」と俺は手の中の用紙を差し出した。先輩はそれを受け取って目を通す。
「朝の服装チェックに風紀委員も混ぜたいって先生が言い出して。生徒は反対で揉めたんで、会長の意見が欲しいらしいです」
「そうか」と神楽先輩はうなずいて、わりあい普通に笑みを作ってくれる。
「分かった、考えておこう」
「ありがとうございます。じゃあ、その……失礼します」
「気をつけて」
「ばいばい」
深月はスルーしても先輩には頭を下げて、俺は生徒会長室の前を歩き出した。ちらりと振り返ると、神楽先輩が鍵を開けて、ふたりは生徒会長室に入っていっている。ドアが閉まると、俺は何となく立ち止まった。
まさか。……まさか、な。あとから生徒会のメンバーが来るかもしれないし、そんな、それはないよな。
だが、静まり返った廊下で、かちゃっという鍵をかける音は、妙に際立って響いた。
……知ら、ない。そう、俺は知らない。知ったことではない。あの密室であのふたりが何をしようが、俺には関係ない。
なのに、なぜか脳内がばらばらと気が散るほど、心臓がざわめく。薄暗い雨が鼓膜を引っかく。浅い呼吸に口の中が乾く。
関わらなくていい。関わらないほうがいい。なのに、ゆっくり生徒会室の前へと吸い寄せられ、引き返してしまう。
話し声はしていた。でも、ぼんやりしていて内容を聞き取ることはできない。慎重に耳をかたむけたが、どうやら、普通に話しているだけっぽい。
ただ、俺の渡した用紙の相談でもしているのかもしれない。そう思うことができると、声には出さずに笑ってしまった。そうだよな、と妙にほっとする。生徒会長室だぞ。さすがにあのビッチも──
なぜか安心しながら、靴箱に向かおうとしたときだ。突然短い悲鳴がして、びくっと振り返った。
廊下には誰もいない。いや、分かっている。生徒会長室の中からだった。
頭の中が、めまいでひんやりしてくる。
「……だよ、」
何?
「だめ……」
え……え──
「利斗く……っ」
後退った。
あ、これ、無理だ。これ以上、ここにいたらまずい。
そう悟ると、足音が響いてしまうのも忘れて、その場を駆け出していた。
雨の匂いがする靴箱は、まだ生徒が行き交ってさざめいていた。傘立てのそばで立ち止まって荒い息を飲みこむ。胸の脈が跳ねている。
これは嫌悪か。気まずさか。もやもやと拒絶反応が立ちこめて、軆が熱い。
だめ、と言っていたけど、あんな甘く震える声のどこが「だめ」なのだ。今、あの生徒会長室で、深月と神楽先輩がきっとしていること。それが刻まれたフィルムのようにちぐはぐに脳裏に映って、吐き気がこみあげてくる。
何だよ。何なんだ、あの女。
「雨うぜえ」とか「髪濡れるよー」とか愚痴りながら、みんな傘をさして雨に霞む中に消えていく。この中の誰も、あれに鉢合わせたことがないのか? そんなわけはない。絶対みんな遭遇している。
どうして誰も「おかしい」と言わないのだ。黙認でいいのかよ。あんな女、最低じゃねえか。
俺には、理解できない。そう、ここで適当な先公にチクって、生徒会長室に雪崩れこませればすべて終わる。
そうして悪くないはずだ。あの女の行動が、俺は気持ち悪い。あいつがどうなったって、俺には関係もないはずだ。
それなのに、おそらくみんながそうしているみたいに、俺は見て見ぬふりをして、首を振って息をなだめると、自分の靴箱へと歩き出す。
「──やった、深月で童貞捨てたっ」
連休は、あんまり天気に恵まれなかった。両親は仕事だし、特に外出することもなく、俺のゴールデンウィークは地味に終わった。
広亜もぜんぜん遊びにこなかった。デートだよな、といまだ引きずりながら暗い顔で登校すると、友達のひとりが輝く瞳でそんなことを噛みしめた声で打ち明けてきた。
「マジかよっ」
「いつ? 連休中?」
「ああ。駅前の本屋で偶然逢ってさ、好きな漫画が似てて盛り上がってたら──」
息をついて、深月を一瞥した。友達の話にうなずいて楽しげに咲っている。
だらしないビッチにはぜんぜん見えない。でも、やはりみんな事に遭遇しているから、あいつが身持ちならないこともうわさになっているのだろう。では、深月自身は、そのうわさに何とも感じないのだろうか。
二股。すぐやらせる。淫乱。
ふと深月がこちらを向いた。大きな瞳が俺の視線に気づき、飾り気もなくにっこりとする。俺は露骨に顔を背け、頬杖をついて、興奮している友達を眺める。
分からない。俺には信じられない。
どこがいいんだよ、あんなビッチ。
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