俺のほうが好きなのに
理解不能の奴らについて完全に思考が疲れて、せっかくの晴れた日曜日なのに、カーテンも開けずに生温いベッドに伏せっていた。
深月の喘ぎ声の残像がうるさい。あの声は、もはやまったく俺の性欲を刺激しない。自分で抜くとき考えるのは、やっぱり広亜のことだ。
何だかずいぶん会っていない。女子大生だし、彼氏いるし、俺のことなんかもうどうだっていいのだろう。いろいろ消えたい、とかぼんやり思っていると、不意にスマホが鳴って、まくらに顔を伏せたまま億劫にたぐりよせる。
広亜はたまに、メッセくらいならよこす。こんなふうに。俺は適当に返して、レスを切り上げてしまう。のろけなんか始められたらたまらない。
『今日時間ある?
好きなのおごってあげるよ。』
くすむ目で画面を眺め、『何か用?』とだけ送る。メッセはすぐ返ってくる。
『香凪とお茶したい。
ずっとゆっくり話せてないから。』
眉を寄せ、しばらく考えてから、『パスタ』とひと言送信する。またすぐ着信があるかと思ったら、ない。何だよ、とまたまくらに沈んだ。
深月のこと。成績のこと。さらには広亜のこと。
まったく、何でこんなに神経に障ってくるんだ。勝手にいろんなことにいらいらしていると、突然背後でドアの開く音がした。
びくっと顔を上げ、そのまま固まってしまう。
「香凪、久しぶりっ」
広亜、だった。相変わらず黒髪が艶々として、ぱっちりした目に俺を映す。白いキャミソールに水色のロングスカートを合わせ、化粧もしていた。
「──って、何? 出かける用意してないの?」
「いや、返事……」
「しなくても、流れで準備するの分かるでしょ」
分かんねえよ。と思ったものの、口にはせずに、被っていたふとんの中からのっそり起き上がる。
「相変わらず髪質悪いなあ」と広亜が俺の隣に腰掛けてぼさっとした髪に触れる。広亜の指の感触にはやっぱりどきどきする。
俺は広亜のほのかな香りに横目をして、力かなうよなあ、と何気なく腕の細さを見る。ここで押し倒して、広亜のあんな声が聴けるなら──
「ほら、パスタでしょ。おごってあげるから」
「ここ来たなら、ここで話せばいいじゃん」
「久しぶりにこんな天気いいのに、引きこもるんじゃないの」
世話焼きなのは変わっていないらしい。
俺は着て眠ったよれた服を引っ張り、「着替えるのかよ」と訊く。「パジャマじゃないし、いいんじゃない」と広亜は立ち上がった。
俺は息をつき、つくえの上のスマホと財布を取ると、ウエストバッグを上半身に巻いた。
「あれ」
部屋を出る前に、俺を振り返った広亜が、ふと俺の頭に手を乗せた。そんな広亜を見て、俺も「あ」と声をこぼす。
「広亜縮んだ」
「何それ。あんたが成長期なんでしょ」
俺の目の高さまで、わずかに広亜は背伸びする。
「あーあ、越されたかあ」
俺は残念そうに嘆く広亜を見つめた。睫毛のマスカラ。頬の色み。濡れたような口紅。
彼女の背を追い越したら、告白するつもりだった。それは──もう、広亜に彼氏ができたから有効ではない。とは、決まっていない。
勝手に気持ちを伝えるくらい、自由じゃないのか。今、俺は願掛けを達成したのだ。ずっと好きだったよ。応えてもらえないのは分かっていても、それを口をしたら、ほんの一抹、変わるものもあるかもしれない。
「ずっと会えてなかったね」
俺の両親に彼氏とうまくいっているか揶揄われて、照れる広亜と家を出ると、広亜は俺に顔を向けてそう言った。
「そうだな」
「どうよ、中学二年生」
「別に……」
何にもないことはない。何だかみんなの感覚が分からない。でも、だからってハブられていることはないし。
「普通だよ」
「勉強、むずかしくない?」
「あー、それはやばい。俺、頭悪いつもりなかったのに」
「中一と中二はレベルの差がすごいからね」
「塾行ったほうがいいのかな」
「はは。香凪がそんなこと言い出すか」
「いや、でもほんとに──」
そうやって話しているうちに、自然と広亜との感覚がつかめてきた。話すのも久々だから、若干不安だったが。
そう、こんな感じだ。軽口が自然になってくる。広亜も咲って俺を小突く。
髪を撫でた風で見上げた空は、雲も少なく青さが透けている。家並みは、昨日までの雨を残して雫がきらきらとすがすがしい。
何だろう。彼氏ができてしまったとか。告白したかったのにとか。久々に、そんなネガティヴに囚われない。
今日はいい日かもしれない。そう、広亜と過ごせるのだ。たとえ、弟のような幼なじみとしてだとしても。
広亜が隣にいるのは、やっぱり落ち着く。ちくしょう、やっぱりこいつが好きだ。ここが俺の居場所だったらどんなにいいか。男さえ現れなければ、俺はもっとこの女に甘えられていたのに。
あとは告白するだけになっていた。そして、もしかしたらつきあえていた。そんな悔しさで少し切なさも覚えつつも、ひとまず、今日のところは広亜との時間を楽しもう。
──そう、思えたのに。
駅前のランチタイムに賑わうファミレスに着くと、案内しようとしたウェイトレスに「待ち合わせなんですけど」と広亜は店内を見まわした。
待ち合わせ。怪訝を表した俺の腕をつかんで、「行こ」と広亜は咲った。その幸せそうな笑顔に、はっとした。
「えっ、ちょ、俺──」
「あんたのことだから、話したら来ないだろうと思って」
「は? 何だよ、まさか──」
まさか──だった。
広亜が俺に引っ張っていったそこには、広亜の彼氏になった男がいた。「初めまして」と快活な笑顔で言われても、返事どころか、突っ立ってしまい、椅子に座ることもできない。
帰る、と憮然ときびすを返せばまだ腹癒せにもなる。けれど、広亜にうながされて、俺は甲斐性なしにも、のろのろと椅子に腰をおろしてしまった。
広亜はもちろん、俺の隣でなく、男の隣に座った。
「彼がね、郁哉っていうあたしの彼氏」
「はあ……」
幽霊みたいに声が生きていない。
そんなに温度も風圧も強くないはずなのに、クーラーで脊髄が凍っていく。だが俺の茫然とした目など構わず、広亜は彼氏に俺を紹介する。
「でね、この子が例の香凪。生まれたときから知ってる」
彼氏──郁哉さんは笑ってから、「ごめんね、いきなり」と俺に目を向けた。この人が俺のショックに気づいているのかいないのかは、よく分からない。
「ひろがよく君のこと話してくれるから、会ってみたかったんだ」
「……そう、ですか」
「もう、あんた、そんな人見知りじゃないでしょ。ちゃんとさっきまでみたいに話してよ」
「いや、初対面で無理させなくてもいいよ。まだ中学生なんだし」
「でも」
「まあ、俺にも香凪くんは弟みたいなものだから。安心してくれて大丈夫だよ」
俺は郁哉さんを見た。その目はにこやかだったけど、見定めるような針を一瞬感じた。それで分かった。この人、どうやら広亜がよく俺のことを話すから、牽制しにきた。
「香凪、とりあえず好きなの注文して。ふみくんはドリンクバーだけ?」
「いや、来たら一緒に頼もうと思って」
「じゃあ、どれにする?」
広亜と郁哉さんは、親しげに一緒にメニューを覗きはじめる。
何だよ。何なんだよ、これ。最悪すぎるんだけど。
広亜の鈍感も彼氏の狡猾も、さすがに耐えがたい。せめてふたりでやってくれないか。俺に見せつけるって何なんだ。
どうせ何もしねえよ。確かに俺は広亜が好きだけど、邪魔なんてしないのに。
何かないのか、この状況から逃げる方法。せめて誰か俺のスマホを鳴らしてくれないか。言い訳になる用事が思いつかない。
もちろん、正直に「ふざけんな」と言ってやりたくても、その勇気が出ない。そんな自分が、一番忌ま忌ましい。ぐちゃぐちゃ考えていると、「何でも頼んでいいよ」と郁哉さんがメニューをさしだしてにっこりとしてくる。
こいつにおごられるのかよ、といよいよ気分が悪くなってくる。財布を持ってきておいてよかった。できるなら何も注文したくなかったが、広亜がパスタのページを広げてくるので、適当にボロネーゼにしておいた。
帰りたい、と深刻に暗い顔になっているのに、ふたりはいつもそんなふうに俺の話をしているかと思うと、いらっとしてくることを話しはじめる。
「今この子、勉強で悩んでるみたい」
「中二だっけ?」
「うん。あの時期っていきなりむずかしくなるよね」
「そうだな。もう学校より塾で勉強してたなー」
「やっぱ塾なのかなあ。この子も言ってた」
「俺たちで教えられないかな?」
「あ、それいいかも。ねえ、塾ってお金もかかるでしょ。あたしとふみくんで手伝おうか?」
俺は広亜を見て、たぶん広亜だけなら、「そんなにバカじゃねえし」とか憎まれ口をたたきつつ、下心でお願いするのだろうと思った。
でも、この男はいらない。ふたりで俺に勉強を教えるなんて、定期的に会える口実ではないか。ふたりが並んでいるところを、もう一秒だって見ていたくないのに。
「何とかする」とだけ言うと、「無理しないでよね」とか言われた気がするけど、何だかよく聞こえなかった。
いよいよ、息が苦しかった。泣きたい。胸に穴が空いて、感覚が麻痺して、頭の中が白く虚脱する。
何でこんなむごいことをされるんだ。俺はべつだん、何も邪魔していないのに。
やっぱり広亜は、俺のものにはならない。この男のものになってしまった。そんなことを思い知らされるなんていちいちいらない。
身長は追い越した。こいつさえ現れていなければ、俺は広亜に告っていた。でも、邪魔なのは郁哉さんじゃない。そう、何も仲を妨げていなくても、いくら心を殺していても、邪魔なのは俺のこの恋心なのだ。
何でろう。喉がずきずきして、こみあげる不安で息が震えそうになる。
ずっと好きだった。こんな男より、ずっとずっと俺のほうが広亜を見てきた。でも、俺は選ばれない。広亜と両想いにはなれない。俺は、たったひとりとも、相思相愛になれない。
なのに、あの女。深月毬実は何人もの男と結ばれている。この落差は何なのだ。何か深月が正しいのか? 俺は何を間違っているのだ?
結局ボロネーゼのあとにチーズケーキまで食わされて、はらうと言っているのにはらわせてもらえず、さらには広亜はもう少し郁哉さんといるということで、俺はひとりで帰宅した。
駅前の喧騒を抜けて、落ち着いた住宅街に戻る頃には、ほんのり空が暮れかかっていた。「ただいま」も言わずに玄関を抜けて階段をのぼり、部屋にこもると、さすがに喉が震えて涙がこぼれてきた。
くそ。最低だ。リア充見せつけやがって。何で俺の前で仲良く談笑するんだよ。何でよりによって、俺の前で仲睦まじくするんだよ。うまく笑えていなかった俺の気持ちを考えてくれよ。バカみたいだろうけど、俺はやっぱりその女が好きなんだよ!
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