彼女がいなくても
「おい、深月っ」
俺はスマホの画面を落とすと、音を立てて席を立って、深月の席に歩み寄った。友達と咲っていた深月は、きょとんと俺に目を向けて「どうしたの」なんて言ってくる。
俺は教室ですべて怒鳴ってやってもよかったが、Fこいつへの周囲の感覚が測れないし、俺のほうが悪者にされたらたまらない。
「ちょっと来い」
「えっ」
深月の細腕をつかんでその場から引きずり出す。人気のないところなんて分からなかったから、階段を降りて踊り場で立ち止まった。
射しこんでくる太陽で、けっこう暑い。深月は、まだわけの分からない顔をしている。
「天智くん──」
「何だよ、これっ」
俺はスマホの画面を点燈させ、例の写真を確認すると深月に突き出した。深月はそれを見て、「あ、そっか」とまったく悪びれない笑顔を見せる。
「天智くんにも、言っておかなきゃいけなかったっけ。これで、みんなが幸せでしょ?」
「はあ?」
「郁哉さんは、もう私といるほうが幸せなの。広亜さんには興味ないって言ってたよ」
「てめえ、」
「これで天智くんが広亜さんと幸せになれるよねっ」
「お前、ふざけんなよっ」
行き交っている生徒が振り返ってきても、どろどろした炎のような怒りが抑えられない。深月は、まだあどけないまばたきをしている。
「広亜の気持ち考えろよっ。あいつはずっと、高校三年間、こいつが好きだったんだぞっ」
「天智くんのほうが、広亜さんを想ってるでしょ」
「それはっ──」
「きっと、天智くんがなぐさめれば、広亜さんは天智くんとつきあってくれるよ?」
薄いマーブルが見えるほど、めまいがした。
何……だ。何、言ってんだ、こいつ。頭がおかしいのか? ちょっと見直したのに。やっぱり、こいつは──
「だいたい……何だよ、お前にはこの男の前に、神楽先輩とつきあってんだろ。なのに、ただでさえ御門がいて。なのにまだ男かよ。いい加減にしろよっ。いろんな男ふらふらしやがって」
「え……と、何で怒るの? 分かんない……」
「神楽先輩も、御門も、お前とやった奴みんな! そいつらの気持ちは考えられないのかって言ってんだよっ」
「みんな……は、これで幸せだって言ってるよ」
息苦しいほどの嫌悪で、顔がゆがんだ。何なんだよ。こいつも、こいつの周りも、何なんだよ!?
「俺は……」
狂ってる。みんな狂っているのだ。
「俺はこんなの、幸せじゃねえよっ」
そう言った瞬間だった。初めて、深月の表情が蒼く揺らいだ。
周りが止まって視線が集まっている。だが、俺はたたみかけた。
「誰も幸せなんかじゃねえよ、お前のやってることで幸せになってる奴なんかひとりもいない! 幸せなふりしてんだよ、ほんとはみんな傷ついてんだよっ。お前が何考えてんのか分かんなくて、お前が何したいのか分かんなくて、みんな不安に決まってんだろっ。幸せなわけがない、お前は誰も幸せにしてないっ」
「……そんな、」
「少なくとも、俺は最悪の気分だよ、お前がわけ分かんなくて気味が悪いっ。ほんとに、お前なんか最低なんだよ!」
言い過ぎかともかすめた。けれど、我慢できなかった。
こいつは広亜を傷つけた。信じられないほど、深く。あんなことを言わせた。『死にたい』? 広亜は、絶対にそんなみじめなことは言わない女だったのに。
それほど、あの男が好きだったのだ。その切実な想いを、この女は──
まだ言おうとした。が、深月の異変に気づいてはっとする。
膝が震えて、目が白く泳いで、何か言おうとしているけど声がともなっていない。おののく指でリボンをつかんで、息を整えようとしているようだが、だんだん過呼吸みたいになって、絶え絶えに涙があふれてくる。
え、と思わずさすがに罵倒を引っこめ、声をかけようとした。その瞬間、すうっとその瞳が遠くなって──よろけた深月は、その場に崩れるように倒れてしまった。
周りも驚いた声を上げた。ちょうどそこに通りかかった教師が、「おいっ」と焦った声で駆け寄って、急いで深月を抱き起こした。深月の軆はわずかに痙攣している。なじみのない顔のその教師は、きっと俺を睨みつけた。
「お前、何かしたのか!?」
「え、あ──」
「何年何組だ! この子は──」
「あの」と野次馬の中から、女子がひとり声を上げた。教師はそちらを向く。
「……その男子は、普通のこと言ってただけですよ」
俺はその女子に目を開いた。彼女は俺を見たりしなかったけど、それでも、俺は初めて喉につっかえていたどす黒い心が救われた気がした。彼女がそう言ったことで、みんな顔を見合わせて、「そうですよ」とか「その男子は間違ってないです」と口々に言い出した。
そんな生徒たちに教師のほうが狼狽え、もう俺を怒鳴ることができなくなる。だが、「保健室についてこい」とは言ってきて、ぐったりと気絶している深月を抱き上げた。
俺は励ますようなみんなの視線にちょっと会釈すると、それについていった。
「毬実!」
深月が保健室のベッドに寝かされてしばらく、駆けつけたのは深月の父親だった。
母親じゃないのが意外だった。保健室に飛びこんできた父親は、俺にも誰にも目をくれず、白いカーテンをめくって深月のすがたを認め、悲痛な声で娘の名前を叫んだ。そして華奢な肩をつかみ、死んだのが信じられないような形相で乱暴に揺する。
「おとうさん、今は休ませないと」と保健の先生が止めようとしても聞かず、何度も深月の名前を呼ぶ。
「毬実。しっかりしろ、毬実」
父親は泣きそうなほどしつこく繰り返し、深月は小さくうめいて目を覚ました。
まぶたを押し上げ、自分を呼ぶ声をたどって父親の顔を認める。すると、ふっと泣き出しそうな顔になった。ついで、身を起こすと父親の首にきつくすがりつく。
「おとうさんっ……」
「毬実、大丈夫か? どこも痛くないか?」
「うん……大丈夫」
「倒れたって、どうしたんだ? 何かあったのか?」
深月はそろそろと保健室を見まわし、俺のすがたには気づいたようでも、「何かすごく怖くなって」と名指しはせずに答えた。
「そうか。毬実は繊細だからな。可哀想に……」
父親は深月の頭をさすり、深月は父親にぎゅっとしがみつく。
「おとうさん、私、みんなを幸せにしてる?」
どきん、と心拍が上がる。「当たり前じゃないか」と父親は当然のように返す。
「そのためなら、私、何だってできるって思ってるよ」
「うん、分かってる。お前は本当にいい子だ、毬実」
「ほんとに? でも──」
「みんな、お前がいるから咲っていられるんだ。毬実がいるだけで、みんな幸せなんだよ」
俺は顔を背けた。何だよ。やっぱり、俺が悪いと言いたいのか。
でも、みんな俺に賛同してくれた。おかしいのは深月だ。こいつの言動、どう考えてもおかしいだろ。
何となく、分かっている。深月は、俺のために広亜から郁哉さんを寝取ったのだ。そうしたら、俺が広亜と「幸せ」になれると思った。郁哉さんのことは自分がなぐさめれば、誰の「幸せ」も絶えないと思った。
でも、だからって……何で、そこまで。
深月は、一学期のあいだは学校を休むことになった。二学期からも、どうなるか分からないらしい。クラスからハブられるとか、神楽先輩に声をかけられるとか、俺はいろいろ心配したけど杞憂だった。
みんな、深月がいなくなっても変わりなかった。それは、もうすぐ始まる夏休みに気を取られているせいなのか。それとも、深月がいなくてもどうでもいいのか。
【第九章へ】
