コンパスをつかんで-1

夏の日に

 やりたいことなんてなかった。やりたくないことだらけで、それでも生きているのが精一杯で。でも、最近やっと自分が息をして、周りに人がいることに気づいた。冷たい底にこもって泣かなくてもいいことに気づいた。
 あの頃ひどく膿んでいた傷は、傷痕になって肌色に溶けはじめている。そんな息づいてきた心で、僕にみんなにできることはあるだろうか、僕が進みたいのはどんな道だろうか──そんなことをゆっくり考えはじめている。
 夏の期末考査が終わり、すぐに一気に蝉の声があふれかえるようになった。太陽はまばゆく白く、空気を焦がすみたいに熱してくる。ほんの五分、外を歩いただけで、肌と服は汗でべたべたになり、“熱中症”という言葉も、テレビやケータイでよく見かけるようになった。
 僕の通う通信制高校は、特に終業式もなく夏休みに入る。取っている授業の試験もすべて合格して、僕の高校生活二年目の夏休みは、去年と同じく課題以外は自由な状態で始まった。
 寝坊するわけでもない朝、父親の聖樹さんが出勤するのを見届けると、洗い物をしてから洗濯を始める。聖樹さんが家を出たら、この鈴城家には誰もいない。
 僕には悠紗という弟がいるけど、悠紗は幼い頃からギターに明け暮れ、今はアングラで人気の高いXENONというバンドのサポーターとして全国をまわっている。同行を始めた当初は雑用ばかりだったけど、今はステージに立つこともあるそうだ。
 ほんとあの子は昔からすごいよなあ、なんて思いながら、そんなに多くない洗濯物をベランダに干すと、ほどよく冷房をかけたリビングに引き返してふうっと息をつく。
 座卓に置いていた、僕のケータイのランプが明滅している。誰だろ、と手に取ってみると、サブウィンドウに『沙霧』という表示があった。
 沙霧は聖樹さんの弟で、僕にとっては叔父だ。けど、沙霧はまだ二十四歳だし、二十歳の僕には友達というほうが近い。ケータイを開くと、着信していたのはメールだった。
『期末お疲れ。
 萌梨はもう夏休み始まってるよな?
 会えそうな日に会えねーかな?
 相談があって、萌梨にしかできないから、よかったら聞いてほしい。
 いそがしかったらごめん。』
 一読してまばたきし、首をかしげた。何だろう。僕にしかできない。何となく──それなら、心当たりがあるけど。そのことについてわざわざ話すことは普段ないから、言い切れない。
 相談。上手に答えられるか自信がなくても、聞くだけなら僕にもできる。フローリングにクッションを敷いて座り、今週なら週末に恋人の千羽ちゃんと約束がある以外、予定はないことをメールで沙霧に伝えた。
 ベランダにいて汗をかいたので、冷蔵庫に作り置きしてある麦茶をマグカップにそそいで持ってくる。すると、ちょうどケータイが鳴った。大麦が香ばしいマグカップに口をつけながら、操作に慣れたケータイなので片手でメールを開封する。
『返事ありがと。
 じゃあ、もしかして今日会える?
 俺、今日ちょうどオフなんだ。』
 今日。時計を見た。お昼にもなっていない。少し考えてから、『一緒にお昼食べる?』という提案を僕は送ってみた。
『いいのか?』
『お昼代のお小遣いくらいあるから。』
 すると、沙霧は『おごるくらいさせろ。』と送ってきて、自分がこの町におもむくので一緒にお昼を食べようということを決めた。ちなみに沙霧は、ここから五駅のぼった街に住んでいる。
 沙霧との約束が決まると、僕は緩い服装を整えてマンションの一室を出て、猛暑の日射に目を細めながら駅に向かった。
 駅まではそんなに遠くない。少し住宅街の中を歩いたら、公園沿いに出て、横断歩道を渡るとすぐ駅だ。
 葉擦れの匂いがする公園の木陰から、蝉が空気をかきむしるように鳴いている。夏休みに入った子供たちは、家でゲームするばかりでもなく、友達と集まって公園ではしゃぐ。
 風はなく、熱気が気だるく皮膚にまとわりつき、あんまり体力がない僕は、狂おしい青空を見ているだけで頭がくらくらしてきた。早く日陰入ろ、と汗を手の甲でぬぐうと、駅一階の改札の前にたどりつき、行き交う人の中に沙霧のすがたがまだないのを確かめる。
 ケータイを取り出すと、十分くらい前に『今電車乗ったから、十五分くらいで着く。』と沙霧のメールが来ていた。ちょうどよかったみたいだ。
 ほてって汗ばむ軆に、お昼は冷たいもの食べたいなとか思っていると、中学生くらいの女の子たちが騒がしく改札を抜けて、ホームへとのぼっていった。それとすれちがいざまに人が降りてきて、来るかな、と首を伸ばしていると、「萌梨!」と背の高い綺麗な男──沙霧が手を掲げて改札を抜けてきた。
「悪い、待たなくていいように遅く来いって言うの忘れた」
「家で待ってても、どうせヒマだから。気にしないで」
「家事は?」
「洗い物と洗濯はやってきた」
「相変わらず主婦だなー」
「そのうち、聖乃さんに取られちゃうけどね」
「聖乃さんって家事のイメージがねえな」
「……うん、あんまり得意じゃないみたい」
 正直に言うと沙霧は笑い、「でも、いい人だよな」と嬉しそうにする。
 聖乃さんは、聖樹さんの恋人だ。聖樹さんが昔、思わしくない女の人とつきあったとき、一番心配したのが沙霧だった。だからそのぶん、現在は聖樹さんを大切に想う聖乃さんと親しくなって喜んでいる。
 沙霧だけじゃない、悠紗も、聖樹さんにとっては友人であるXENONの四人も、聖乃さんのことはすごく歓迎している。
「どこで昼飯食う? 冷麺とか食いてえな。暑い」
「僕も。商店街のラーメン屋さんが、冷やし中華やってると思うんだけど」
「お、いいじゃん。行こうぜ」
 そんなわけで、僕たちは駅前を抜け、奥に通じる商店街へと歩いた。アーケードになっているものの、やっぱり暑い。朝の予報では、今日の気温も三十度越えだった。さいわい、ラーメン屋さんは手前のほうにあり、冷やし中華も始まっていた。ふわりとおいしそうな匂いがただよう中に入ると、ありがたいことに禁煙で、テーブルも空いていたので入ることにする。
 僕も沙霧も、冷やし中華を注文して、僕があれこれ言う前に、沙霧が「会計一緒で」とまとめてしまった。「いいの?」と訊くと、「いきなり呼び出して、話聞いてもらうの俺だしな」と沙霧は氷が浮かぶお冷やを飲む。

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