これからのために
僕たちがそちらに向かおうとしたとき、「花おばちゃん」と呼び止める男の人の声がした。振り返ると、髪や肌の色素は薄いけど、肩幅がしっかりした大柄な男の人がいる。「恵麻くん」と花丘さんはその人にすまなそうにしてから、「少しだけ子供たちと遊んでいてくれる?」と言った。その人は聖樹さんと僕を見ると気さくに会釈して、「分かった、庭にいる」と右手の廊下を帰っていった。
「しっかりした感じの男の子ですね」
聖樹さんが物柔らかに言うと、「昔はうつむいてばかりの子だったんですよ」と花丘さんは男の人の成長を喜ぶ笑顔で言った。
「ここに来たときには、怒ることも泣くことも、いっさいできなくて。ずいぶん堅く心を閉ざしていたんだけど、今では私みたいな働きをしたいって団体まで立ち上げようとしているの」
「そうなんですか。まだ二十歳ぐらいに見えました」
「今年で二十三歳よ。十八でここを出て、大学での勉強を終えたところなの」
「団体って、どういうことをする団体ですか?」
僕が問うと、「まだ漠然としているようだけど」と花丘さんは僕たちを改めて応接間へと案内しながら、話してくれる。
「コミュニケーションがむずかしくなっている人が、人と触れ合うことを学べるようなところにしたいんですって。集まった人がつながっていけるような。なかなかそれはむずかしいわよって言うんですけど、やってみたいって。この施設で自分はそれを教えてもらったからって」
「人と触れ合うこと……」
「すごいですね。僕なんか、惰性でサラリーマンなんかやってるのに」
「鈴城さんはその前に素晴らしいおとうさんでいらっしゃるわ。ねえ、萌梨くん」
「はい。聖樹さんは自慢のおとうさんです」
僕の言葉に聖樹さんはおもはゆそうに咲う。それから、応接間で冷たい麦茶をもらって、あれから今までのことをざっくり話した。高校のこと。悠紗のこと。僕や聖樹さんに現在は恋人がいることを、花丘さんはすごく喜んでくれた。積もる話は尽きず、あっという間に一時間ぐらい過ぎた。キリがついたところで、「恵麻くんが待ちくたびれるわね」と花丘さんが苦笑して立ち上がった。
花丘さんも一緒に玄関を抜け、さっきの女の子の隣に恵麻さんがいることに僕たちは気づいた。女の子は僕たちの気配にびくんとして、また顔を伏せてしまう。恵麻さんは女の子の頭をぽんとして立ち上がり、「暑いから涼んでた」と乾いた青空を見やった。
ここは自然があるので、蝉の声が壁で反響しなくてうるさくないことに気づく。僕に目を向けた恵麻さんは、「あのときの子かあ」とつぶやいた。分からなくて思わずまばたきをすると、「そうね」と花丘さんがうなずく。
「確か、恵麻くんが十七歳のとき」
「え、僕のこと」
「知ってる」と恵麻さんは僕に笑みを向けた。
「君はこの施設で、伝説だし」
「で、伝説、ですか」
「そう。ここにいる親に恵まれなかった子供たちの希望だよ」
「そう、なんですか?」
大袈裟なのではと困ったように咲ってしまうと、恵麻さんはにっこりして言葉をつなぐ。
「ひどい親から逃げていいんだ、つらい家に帰らなくていいんだって、君は証明してくれた。君の話を聞いて勇気が出たって子も、俺は何人か知ってるよ」
ぱたぱたと睫毛を動かす。そう、なのか。知らなかった。急に力説されて狼狽えたけど、素直にそれは嬉しいと思った。こんな僕でも、誰かの役に立てたことがここにあったのか。「俺はね」と恵麻さんは声を落ち着けて続ける。
「君は今のおとうさんと幸せに暮らして、生きていくだけで、それだけで人の心を動かせるすごい人だと思ってる」
恵麻さんを見つめた。それから聖樹さんを見上げた。「僕もそう思う」と聖樹さんは優しく言って、僕はまた恵麻さんを見た。「あ、」とそれからやっと恵麻さんは気づいたみたいに、僕と聖樹さんにお辞儀をした。
「初めまして。俺もここの出身で、光森恵麻って言います」
「あ、鈴城萌梨です。この人が、今のおとうさんの鈴城聖樹さん」
「会えて嬉しいです。花おばちゃんに会いにきたんですか?」
「はい。当時お世話になって、そのままだったので」
「そうですか。俺も花おばちゃんには、報告も相談もしょっちゅうやってます」
「団体を立ち上げる相談ですか?」と聖樹さんが尋ねると、恵麻さんは笑って首肯しながら、「話したのかよー」と花丘さんを見る。
「だって、いろんな人に知ってほしいもの」
「はは。まだ考えてるだけの段階でメンバーもいないんですけどね。最終的には、心を閉ざす人が社会復帰できるようなところにしたいんです」
「作業所みたいな感じですか?」
聖樹さんの問いに、「そういう展開もできたらいいなと思ってます」と恵麻さんは快活に答える。
「でも、まずは孤独になりがちな人たちが、コミュニケーションを勉強できるような集まりからです」
「そうなんですか。頑張ってください」
「ありがとうございます。萌梨くんや聖樹さんにはもう必要ないかもしれないけど、ミーティングとか開いていくので、興味あったら遠慮なく参加してやってください」
にっこりした恵麻さんを見つめて、ミーティング、と僕は心でくりかえした。僕が希望になった。聖樹さんと暮らしていくだけで人の心を動かせる。そんなことを言ってくれる人が始める団体。どんな感じなんだろう、とつい好奇心が湧いてくる。
「あ、あの」
何秒か躊躇ったものの、我慢できなくて口から声が突いて出ていた。「うん?」と恵麻さんはこちらを見て、「迷惑じゃなかったら」と僕はひかえめに言って、それから恵麻さんをまっすぐ見つめる。
「僕でも、役に立てますか?」
「えっ」
「僕は、自分がそんな、人の勇気になれるとか、すごいこと思わないですけど。むしろ、自分は情けないなあって思ってて」
言いながらぎゅっと手を握って、いったん視線を下げる。
「夢とかなくて、みんなやりたいことやってるのに、僕はそれがなくて。高校卒業したら、次とか思いつかない。また空っぽの真っ暗になったらどうしようって、そればっかり怖くて」
「萌梨くん……」
聖樹さんの声に顔を上げ、僕はやっぱり自分がそんなにすごいとは思えなかったけど、このまま迷って虚しくなるよりは何か光をつかみたいと思って、思い切って言った。
「でも、もし僕ができることがあるって恵麻さんが思ってくれるなら、その団体をお手伝いさせてくれませんか」
恵麻さんはぽかんと僕を見た。ダメかな、とすくみそうになったものの、恵麻さんは「ええと」とすぐ我に返って頭をかく。
「俺の手伝い、なんかでいいの? まだ、団体の名前くらいしか決まってなくて、スタッフもほかにいないよ? 軌道に乗るかも分かんないよ? あと、給料があるわけでもないよ?」
「……足手まといですか?」
「いやっ、ぜんぜん! 萌梨くんが手伝ってくれるなんて、すっごい心強いよ。この施設とも所縁があるから信頼できるし」
「じゃあ」
「うんっ。じゃあ、お言葉に甘えてこれからよろしく!」
恵麻さんは困惑をはらってにこっとして、僕も笑顔になった。「あらあら」と花丘さんも嬉しそうにして、聖樹さんは「頑張ってね」とさっそく応援してくれる。「とりあえずこれ渡しとくよ」と恵麻さんは僕に名刺をさしだした。僕は受け取ったそれに目を落とし、ケータイ番号やメアドを見てから、“つみき代表”という文字に目を止める。
「団体の名前、『つみき』っていうんですか?」
「そう。昔、花おばちゃんが俺に言ってくれたんだよ。今は心がばらばらに壊れてるけど、ゆっくり建て直していこうって。そのときの言葉から」
「まあ、私の言葉からだったのね」
「そうだよ。気づいてなかった?」
恵麻さんは花丘さんに笑って、僕はその名刺を大切に財布にしまった。「あとで僕のケータイから連絡します」と約束すると、「時間とか気にしなくていいからね」と恵麻さんは言ってくれた。
改めて、聖樹さんと僕が帰ろうと立ち去りかけたときだった。「……頑張って」と小さなささやきが聞こえた。はっと振り返る。恵麻さんが、しゃがんでいる女の子の頭を撫でていた。僕はほのかに微笑み、「ありがとう」とちゃんと言うことができた。
花丘さんに見送られて施設を出て、駅までゆっくり歩き、聖樹さんといつもの町に帰る電車に乗った。
「びっくりしたけど、萌梨くんが前向きに何かしてくれると、僕も嬉しい」
帰省ラッシュの時期なので、座席には座れなかったけど、苦しいような混み合い方ではなかった。聖樹さんがそう言ってくれて、僕はこくんとすると、「みんなが僕を助けてくれたから」とリュックの肩紐をきゅっと握る。
「今度は僕がみんながしてくれたことをしたい、と思う。それをやってみたい。僕にできることを、できるだけやりたい」
──そう、たとえば聖樹さんは父親。悠紗はギター。紗月くんは小説。みんな、それぞれ自分が進むべき道をしめすコンパスを見つけていて、持っていて。僕にはそれがなかった。でも、やっと僕も自分だけのそれを手にすることができそうな気がする。
ようやく僕も進みはじめる。必ずしっかりした大人になる。そうなれたら夢も叶う気がする。千羽ちゃんを幸せにする。
千羽ちゃんは僕に何も強要しないけど、ただ、僕とのあいだに子供を持てたらきっと幸せだと言った。そこまでたどりつくのは、まだとても大変だし、遠い道のりかもしれない。でも、今はまず歩き出すのだ。
光に向かって。未来に向かって。それを指し示すコンパスを、確かにつかんで。
僕は歩き出す。生きていくことを人に伝えながら、僕もまた、生きていきたい。
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