コンパスをつかんで-4

緩やかなふたり

 朝はいつも、七時前に目が覚める。僕が先に起きたら僕が、千羽ちゃんが先に起きたら千羽ちゃんが、電話をかけて、『おはよう』と僕たちは言い交わす。会う日も、会えない日も、別にそれから何か話すわけじゃなくて、ただ一緒に目をこすって起き上がり、『じゃあまたね』と電話を切る。そうして、今日も頑張ろうとベッドを出る。
 僕と千羽ちゃんは、つきあって一年になる。二十歳と十八歳。きっと、一年どころか、一ヶ月で肉体関係を持ってもおかしくない。でも、僕たちはまだ軆を結わえたことはない。僕がセックスにひどい嫌悪と恐怖があるのだ。
 昔、そうやって男に虐げられたのに、どうして「それ」を今度は僕が好きな女の子にしなくてはならないのか。恋愛は性愛につながるという通説が苦しくて、受け入れられない。
 セックスしなくても、僕はこんなに千羽ちゃんが好きだ。でも、この想いの表現はやはりセックスなのだ。その常識が苦痛で、気持ち悪くて、僕を焦らせる。こんなこともできない僕は、愛情表現に欠けた僕は、いつ千羽ちゃんに見捨てられてもおかしくない。
 だから僕はたまに、まるでいらいらしているみたいに、千羽ちゃんの手を握ったり抱きしめたりしてしまう。ああ、こうしたら次は──そう考えて、吐き気を覚える自分に吐き気がする。
 でも、千羽ちゃんは優しい。僕の手を包み、あるいは軆に隙間を作り、間近で微笑んで「ありがとう」と言ってくれる。何もしてないのに。何もできてないのに。それでも千羽ちゃんは、僕が“精一杯”だと理解して、それ以上を期待しない。
 セックスしなくていい。あんなのはしなくていい。強迫観念が綻びて、僕は急に安堵して泣いてしまうときもある。
 千羽ちゃんは背伸びして僕の頭を撫でて、そっと唇を僕の口元に当てる。キスとも言えないほど淡く。僕はやっと、そうしたいと思って、千羽ちゃんをぎゅっと抱きしめる。「好きだよ」とせめて言葉は紡いで伝えると、「私も好き」と千羽ちゃんは僕の軆に抱きついてくれる。
 女の子の軆。柔らかで、緩やかで、しっくりなじむ。僕がいつか求める軆はこんなに甘い匂いがする。今はまだ、その体温に触れられないけど、いつか、この子のことなら。あの記憶からかけはなれて、結ばれることができるような気がしている。
 夏休みに入って最初の週末、僕は千羽ちゃんとデートの約束をしていた。聖樹さんと朝ごはんを食べると、「いってらっしゃい」と見送られて、千羽ちゃんの住む町の駅まで迎えにいく。その駅のカフェでお茶するときもあれば、千羽ちゃんの家に行くときもあるし、電車を乗り継いて街に出ることもある。
 その日も蝉の声が狂う暑い日で、あまりうろうろしたくなかったので、涼しいカフェで過ごすことにした。僕はアイスココア、千羽ちゃんはアイスロイヤルミルクティー。禁煙席のテーブルが取れて、僕たちは椅子に腰かけると、とりあえず失われた水分を冷たいドリンクで癒やす。チョコレートブラウンが基調の落ち着いた店内で、騒がしいおしゃべりも聞こえてこないし、僕と千羽ちゃんのお気に入りのカフェだ。
 ロイヤルミルクティーを飲んで息をついた千羽ちゃんは、なだらかなウェーヴのロングヘアを両脇でまとめている。留めているシュシュは、たまに僕がプレゼントしたものだったりする。おっとりした顔立ちをちょっと引き締める化粧もピンク系で、白と桜色のボーダーシャツに、ワインレッドのロングスカートと合わせている。聖樹さんの恋人の聖乃さんは、千羽ちゃんを「ゆるふわ系」だと言う。
「萌梨くんは、レポートもう始めた?」
 ひんやりと甘い味を届けるストローから口を離し、僕は首を横に振る。
「千羽ちゃんは?」
「私は夏休みに入って一週間のあいだは好きなことするの」
 言い張るように宣言する千羽ちゃんに咲いながら、「僕も来週からかな」とストローをまわしてからんと氷を響かせる。
「できるレポートは早く済ませたいけど、少しのんびりしたい」
「ほんと。やっと期末が片づいたんだもん。でも、萌梨くんは追試なかったよね」
「いい点取ってるわけでもないけど。合格点ぐらいなら」
「それでもすごいよ。萌梨くんは教科書と授業で理解しちゃうからなあ」
「分からないところを、先生に質問しにいくのが苦手なだけだけどね」
「そんな怖い先生っている?」
「怖いというか、逆に人気がある先生ってみんなに囲まれてるから。割りこめない」
「それは分かる気がする。でも、やっぱりうらやましいな。私は今回、英語と数学落としたでしょ。限界感じて、自信なくなったなー」
「追試は一回だけだったよね」
「あれは暗記で乗り切ったんだよ」
 苦笑して千羽ちゃんはストローに口をつける。
 僕たちの通信制高校の追試は、何度受けても本試験と内容がまったく同じだ。だから、勉強を練り直すより解答を暗記したほうが早い。千羽ちゃんが言った通り、僕は追試になったことはないけれど。
「そういえば」と千羽ちゃんはふと表情を輝かせる。
「来月って、十三日の金曜日あるよね?」
「うん。悠紗帰ってくる」
「私も悠紗くん会いたいな。お邪魔していい?」
「もちろん。悠紗も喜ぶと思う」
「すごいよね、悠紗くん。自分のバンドとか組まないのかな」
「組みたいようなことは昔から言ってたけど、まだ下積みみたい。あ、悠紗といえば、こないだメール来て」
 ココアで喉を潤しながら、僕は悠紗が芽留さんに会ったこと、千羽ちゃんならいいかなと『ハンドメイド』にモデルがいたことも話した。
 僕も『ハンドメイド』のモデルの人に会ってみたい、ということは悠紗に伝えた。そのメールのあと、すぐ悠紗から電話がかかってきた。ひとまず悠紗は、モデルの人に会えることになったそうだ。この週末に会うということだから、きっと今頃対面している。会えたとき、僕のことも聖樹さんのことも伝えて、僕に会ってくれるかどうかも、直接訊いてみると言ってくれた。
 そんなことを話すと、「あの映画がリアルにあったのかあ」ともちろん『ハンドメイド』を観ている千羽ちゃんは息をつく。
「その人に会えることになったら、萌梨くんひとりで会うの?」
「そうなるのかな」
「どこで会うの?」
「どこ──だろ。僕が出向くんだとは思うけど」
「会えるなら、私も会いたいな。でも、私に会ってもらう義理はないよね」
「悠紗に訊いてみる?」
「その人に無理してほしくないし。だけど、いつか。よかったら」
「分かった」と僕がこくんとすると、千羽ちゃんはわずかにくすりとして「萌梨くんから、そんなふうに積極的ってめずらしいよね」と言う。僕は照れ咲いをして、「ただの好奇心ってわけじゃないんだ」と自分と千羽ちゃんの左薬指を目でたどる。
 デザインは同じ指輪だけど、僕は五月生まれのエメラルド、千羽ちゃんは四月生まれのダイヤモンド──もちろんまだフェイクだけど。
「ああいうことがあって、今はどうやって生きてる人なのかなって思うんだ。僕、今は自分の将来のイメージがないから」
「将来」
「聖樹さんみたいに会社で働けてる気はしなくて。だとしたら、何を仕事にするのかな。進路も決めていかなきゃいけないのに」
「そう、だよね。私も進学か就職か分かんない」
「絵の大学には進まないの?」
「少し考えるけど。どっちみち絵は趣味かな。仕事にはしないよ」
「そうなんだ」と意外に感じながらココアを飲む。千羽ちゃんはとても綺麗な絵を描く。僕たちが親しくなったのも美術の授業が切っかけだった。悠紗が弾くギターを聴くことみたいに、千羽ちゃんが描く絵を見ることも僕は好きだ。
「僕は、仕事をしたいとは思うんだ」
「急に無理することはないと思うよ。とりあえず卒業しなきゃ」
「そうなんだけど。やっぱり、何かしたい。そしたら、……その、千羽ちゃんともちゃんとできるし」
「ちゃんと」
「け、結婚……とか」
 千羽ちゃんはまばたきをして、それからほのかに頬を染めて、「そっか」とうなずく。
「萌梨くんが私でよければ」
「千羽ちゃんは、僕で……いいかな」
「萌梨くんしかいないよ」
「僕も千羽ちゃん以外は考えてないから」
 何だかはにかんだ笑みを絡め、僕たちは冷たいものを飲んで落ち着く。
 何気なく、プロポーズみたいになってしまった。こういうのはもっとロマンチックなほうがよかったかな、と心配になったものの、目が合うと千羽ちゃんは嬉しそうに咲ってくれる。それを見ると、この子を幸せにできる何かがやっぱり欲しいと思った。
 ランチの時間になってカフェを出た僕たちは、すぐそばの洋食屋でオムライスとグラタンを食べた。ランチタイムのあいだは分煙されていたけど、十五時をまわると煙草がただよいはじめたので、僕たちはショッピングモールに移って、夏休みで騒がしい中を、手をつないで歩く。服を見たり、本を見たり、文房具を見たり。
 千羽ちゃんといると、時間があっという間だ。ふとケータイで時刻を確かめると、十七時半をまわっていて、「そろそろ帰ろっか」と僕は千羽ちゃんを家まで送った。
 この時間になっても、空はまだ青さを残していて明るい。風はほとんどなく、焼けた匂いのアスファルトから熱が立ちのぼっている。日射しがゆっくりかたむいて、連れる影が伸びた。僕は千羽ちゃんのご両親とは顔見知りになっているけど、顔を合わせるときはまだ緊張してしまう。それでもきちんと挨拶して、ひとりで駅に戻ると帰路の電車に乗った。

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