Scene 5
三学期が始まり、授業も通常通り六時間になった。卒業式の練習があると、僕はプレハブに向かった。佑悟さんは決まって卒業式の練習をサボっていたからだ。
卒業しちゃうんだよな、と僕はもちろん不安を覚えていた。佑悟さんがいなくなったら、同級生はもしかしたらまた──。せめて、佑悟さんと同い年だったらよかったのに。僕もこんな中学を卒業してしまえるならいいのに。
その日も卒業式の練習が五、六時間目に入っていた。四時間目が終わり、プレハブにお弁当も持っていこうかなとも考えていた昼休み、突然「こんにちは」と声がかかって僕はびくりと顔を上げた。
「弁当、ひとり?」
転校生の──寺松くん、だった。大きな瞳に屈託なく僕を映してにっこりしてくる。僕はつい当惑して、とりあえず視線をそらした。でもそうすると、寺松くんは柔らかく軆を曲げて、また僕の目を覗きこんでくる。
「今日は誰かと食べるの?」
「……何か、ある?」
「ん、一緒に食べようかなって」
「僕より仲良くなった人──」
「うん、そいつらに聞いたんだけど。君、ゲイなんだってね」
僕は寺松くんを見上げて、何、と不安でみぞおちが黒くなっていくのを感じた。転校生にまで、そのことでバカにされるのか。そして、わざわざ関わってこられるのか。
ちらっと寺松くんの席を見ると、僕のことを寺松くんに伝えたらしいクラスメイトがくすくす嗤っている。僕は唇を噛んで立ち上がった。
「うおっ。な、何?」
「……一緒に食べる人、いるから」
「そうなの? じゃ、俺も混ぜてよ」
「何で、」
「同年代のゲイは初めてなんだ」
僕は眉を寄せて、寺松くんを見た。寺松くんは肩をすくめて、「仲間とかってあんまり好きな言葉じゃないけど」とちょっとだけ空中を見て、また僕を見る。
「まあ、俺もそういう奴です」
「え……」
「そんなわけで、君と友達になりたい」
「……げ、ゲイなの?」
「うん」
あっけらかんと肯定されて、ふっと力が抜けて、僕はまた椅子に座ってしまった。「とりあえず弁当食うね」と寺松くんは僕の前の席が空いていたので椅子を勝手に借りて座り、僕のつくえに弁当を広げる。箱の中で色鮮やかな寺松くんの弁当を見つめていて、僕もひとまず弁当を取り出した。
「あ、あの……」
「ん?」
「あの人たちには、そのこと話したの?」
「頭弱そうだから話してない」
「………、話さないほうが、いいよ」
「うん」と寺松くんはエビフライを口に押しこむ。僕はそろそろとお弁当を開き、「いただきます」とつぶやいて、箸でたまご焼きを口に運ぶ。
「同世代は初めて、って」
「ん? ああ、歳離れたのなら知ってる」
「いくつの人?」
「えー、と。和ちゃんいくつだっけ。ん?」
「かずちゃん……」
「三十五かな。たぶん、それくらい」
「え、三十五の人とどうやって知りあったの。あ……ネット?」
「そこは、まあいろいろ。てか、えーと……あ、君の名前」
「……倉元望海」
「望海くんもうわさになってる人いるんでしょ」
「えっ」
「三年の──名前憶えてないけど、不良とか言ってた」
うわさ。うわさになんかなっているのか。佑悟さんには迷惑はかけないでほしいのに。それで佑悟さんに疎まれたくない。
「ちなみに、そのうわさってほんとなの?」
「ち、違うよ。仲良くしてもらってるけど」
「ふうん。ま、ゲイにも男友達はできるよって、なかなか理解してもらえないよね。分かるー」
男友達。そうだよな、と佑悟さんを思うと、胸が苦しくなった。友達なのに。友達じゃないといけないのに。それ以上なんて、望んではいけないのに──友達だと言い切られてしまうと、なぜか哀しくなって泣きたくなってしまう。
寺松くんは、自分のことを僕に「真央くん」と呼ばせて、何だかしょっちゅう声をかけてくるようになった。僕が好きだとかないよね、と思っても、ゲイだと宣言されているだけによく分からない。
そんなことより、休み時間は必ず捕まるから教室を抜け出せず、プレハブのあの部屋に行って佑悟さんに会うことができなくなってしまった。あの落ち着いた場所をほかの人には話したくないし、ついてこられても困るし、僕はぎこちなく咲いながら真央くんと過ごしていた。
佑悟さんに会いたい。声が聴きたい。甘えてくっついたら、頭を撫でてほしい。真央くんがわずらわしいというわけではなかったけど、たまにはほっといてほしかった。
もし佑悟さんとの時間が取れて、真央くんのことをきちんと説明できていたら、もしかしたらあの日──
「望海」
上の空で、佑悟さんのことを考えながら、そのときも真央くんと移動教室をしていた。不意に廊下の雑音の中にそんな声が聞こえた気がして、はっと立ち止まってあたりを見まわした。
すると、通り過ぎようとしていた階段をのぼったところに、佑悟さんがいた。「あ」と僕はそちらに駆け寄りそうになったけど、佑悟さんは僕より隣にいた真央くんを見た。それから僕を見ると、何だか表情をこわばらせて、身を返してのぼってきた階段をすぐ降りはじめた。
何で、と追いかけようとしたとき、チャイムが鳴ってしまった。それでも僕は階段を降りようとしたけど、「うるせえっ」と佑悟さんが何やら怒鳴った声がして、たぶん僕にではないと分かっていてもすくんでしまい、突っ立ったまま授業が始まってしまった。
「望海くん」
呼ばれて初めて、真央くんが静かになった廊下に残ってそばにいることに気づいた。僕は今にも泣きそうな顔で真央くんを見る。真央くんは慌てた様子で僕の腕をつかみ、「ごめん」と言った。
「え……」
「何だ、やっぱつきあってるんじゃん。そう言ってくれてよかったのに」
「……つき、あってないよ」
「でもあの人は──。いや、望海くんはあの人のこと、何でもないの?」
「……え、」
「好きじゃなかったら、勘違いされて、そんな、……ごめん。泣かないで」
そう言われたのと、唇の端に沁みた塩味で、自分が泣いていることに気づいた。僕はこらえられなくなって、うずくまって嗚咽を吐き出してしまう。
真央くんは僕のかたわらにしゃがんで、「俺のこと、いきなりそんなに信頼できるわけないけど」と言う。
「隠さなくていいんだよ。好きでいいじゃん。俺だって、いるんだ。ちょっとまずい相手だから、でかい声で言えないけど」
僕は鼻をすすって目をこすり、真央くんに顔を上げる。
「まずい、って」
「一緒に暮らしてるんだ」
「えっ」
「でも、好きだから。こうなれてよかったと思ってるし。望海くんがよければ、紹介もするよ。何か、俺だけ恋人がいるのも当てつけみたいかなって、そこまで言えなかったけど。望海くんも、あの人が好きなんだよね?」
「好き……なのかな」
「好きでいいんだよ」
「でも、佑悟さんは……分からないし」
「気持ち、伝えたの?」
「……ううん」
「じゃあ、俺が勝手に言うより、伝えてあの人に答えてもらったほうが信じられるよ」
伝える。気持ちを佑悟さんに伝える。
好き、と認めていいのだろうか。認めたら、みんなにされてきたことまで受け入れることにならないだろうか。
けれど、僕は確かに佑悟さんの瞳にどきどきする。肩を抱かれて軆が柔らかに痺れる。もっと、いつも、そばにいたい。卒業したら、終わってしまうかもしれないのが怖い。佑悟さんの隣を失いたくない──
翌日、僕は一日授業をサボって、プレハブの空き部屋で佑悟さんを待ってみた。でも、佑悟さんは現れなかった。すっかり凍えてしまった六時間目の途中、放課後になる前に、とぼとぼと部屋をあとにしてそのまま帰宅した。
それから、なるべく空き部屋に行ったり、廊下に佑悟さんのすがたがないか探したり、一度は三年生の教室の並びを覗いてみたりもした。でも、佑悟さんは僕の前にすがたを見せてくれなかった。やっぱり、僕がしばらくプレハブに行かなくて、それは真央くんと過ごしていたからだと知って、気に障ってしまったのだろうか。
どうしよう。ちゃんと話さないと。真央くんは友達だと、それだけははっきり伝えたい。
あの日からちょっとずつ真央くんには心を許せて、話していても居心地の悪さはなくなっていった。でも、真央くんは僕が同級生にもてあそばれて穢されていたこと、それを佑悟さんが助けてくれたことまでは知らない。僕の傷を知って、それでも触れて、微笑んでくれたのは佑悟さんだ。
会えないほど不安が降り積もって、無性に泣いてしまいそうになる瞬間が増えた。長い指で留めてくれたボタン。空き部屋に射すホコリの光。僕の名前を呼んでくれる落ち着いた低い声。卒業式の練習のときはせめて空き部屋にいるだろうと訪ねても、そのときさえ会えなかった。避けられてる、とさすがに理解してきて、僕はどんどん無気力に席で落ちこむようになっていった。
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