Scene 7
「ただいまー」
マンションの一室のドアを開けて真央くんが声を上げると、「おかえりー」と奥から女の人の声がした。夕食らしい、いい匂いがしている。僕が真央くんを見ると、「ねえちゃん」と説明された。うなずいていると、廊下のドアのひとつが開いて、眼鏡をかけた長身の男の人が顔を出した。
真央くんがぱっと笑顔になる。
「和ちゃん。ただいま」
「おかえり。友達か?」
「うん。話してたでしょ、クラスメイトの望海くん」
「ああ──」
叔父さんらしきその人は僕を見て、「どうも」と軽く頭を下げた。僕も慌てて頭を下げて、「お邪魔します」と消え入りそうに言う。そこに足音が近づいてきて、長い髪をポニーテールに縛った女の人が現れる。
「おかえり、真央──と、どちら様?」
「望海くんだよ。俺の友達ー」
「わ、例の子か。ありがとうございます。真央と仲良くしてもらってるみたいで」
「い、いえ」
「ねえちゃん、夕飯何?」
「ピーマンの肉詰め」
「肉だけでよかったと思うんだけど」
「野菜も食え。もうできあがるから、和兄も原稿にキリつけてねっ」
「はいはい」
そう言った叔父さんは、スニーカーを脱いでかたわらに来た真央くんを見下ろし、微笑んで頭をくしゃくしゃとする。そうされて、真央くんも嬉しそうに叔父さんを見上げる。
僕も──佑悟さんといるとき、あんな幸せそうな表情をしていたのだろうか。
「玄関は寒いでしょ」とおねえさんが僕と真央くんを暖房のついたリビングに通してくれて、叔父さんはまた部屋に戻っていった。
「和ちゃんはジャーナリストなんだ。取材で帰ってこないとか、何日も缶詰とか、けっこう普通なんだよね」
制服のままカウチに並んで座って、真央くんはネクタイをほどきながら言う。ちなみに、僕の服についた泥はなるべくはらいおとしてきた。
「寂しい? そういうとき」
「んー、前は盆と正月に会えるくらいだったしなあ」
「そっか。いいな、好きな人と暮らせてるとか」
言いながら、佑悟さんがプレハブで求人誌を見ていたのがよぎった。高校に進むより、まずは家を出ると言っていたっけ。
佑悟さんも家庭に何かあるのだろうか。何にも知らないや、とちょっと視線をうつむけてしまう。佑悟さんはいつも僕を守ってくれていたのに、僕は何も佑悟さんを支えられていなかった。
真央くんの家は温かくて、居心地がよかった。僕は家で夕食があるから食事は遠慮したけど、代わりに熱いミルクティーを一杯もらった。
三人の夕食を眺めながら、僕の家とは違うなあと思った。僕は家ではゲイだなんて知られるわけにはいかないし、仮に知られたらきっと食卓は凍りつく。
帰り際、「またおいでね」と叔父さんである和磨さんも、おねえさんである弓乃さんも言ってくれて、僕はやっと笑顔を取り返しながらうなずいた。
それからは、真央くんがなるべくそばにいて、僕に近づく怪しい人を追いはらってくれた。「先輩と話さなきゃいけないから」と真央くんは佑悟さんのクラスを訪ねて、佑悟さんがずいぶん学校に来ていないらしいということを残念そうに教えてくれた。
僕はつくえに伏せって、どのぐらい佑悟さんと話していないか数えて、苦しくなった。三学期の初めにちょっと話したくらいだ。冬休みに会えなかったことをお互い悔やんだ。今、もうすぐ一月が終わってしまう。
佑悟さんの声を思い出せないのがつらい。僕の名前を呼んでほしい。この想いが気持ち悪いなら、「好き」なんて死んでも言わないから、ただそばにいさせてほしい。卒業式が過ぎれば、いよいよ佑悟さんとの接点はなくなる。それまでに会って話したいけど──無理なのかなあ、と佑悟さんが微笑みかけてくれる夢を見て起きた朝、「いってきます」と僕はコートを着込んで家を出た。
冷えると思ったら、ちらちらと雪が降っていた。視線を手元に落とすまま、僕は玄関に鍵をかけて傘をさした。音もなく傘が湿っていく。ため息が真っ白くて、僕は道路までの少ない階段を降りた。
そのときだった。
「望海」
地面を見ていた僕は、え、と道路に踏み出そうとした足を止めた。
何?
今──。
粉雪を包む白い息が震えた。とっさに信じられなかった。けれど顔を上げて、深くかぶっていた傘もずらすと、目の前には間違いなくその人がいた。
「佑悟、さん……?」
道路にいた佑悟さんは、傘をさしていなくて、髪にも肩にも雪が積もっていた。
どうして。何でこんなところに佑悟さんが。
吹いた冷たい風に合わせて、佑悟さんの息も白く流れた。こちらに踏み出してきた佑悟さんは、手を伸ばして僕の手をつかむ。その手は冷え切っていて、どのぐらいここにいたのか分からなかった。
「……あいつ、バカだろ」
「えっ」
「昨日、真央って奴が駅前で絡まれてた。俺が通りかかって助けたからよかったけど」
「ま、真央くん……が」
「俺と話したかったから探しにきたって。どっかから、俺が夜には駅前をふらついてるの聞いたみたいで」
真央くん。そんなことまでしてくれていたのか。
そう思いながら、佑悟さんの綺麗な顔を見つめた。まだ僕の手には温もりがあったから、少し、手を握り返す。佑悟さんはそれをちらりとしてから、僕の瞳をじっと見た。
「あいつと……つきあいはじめたんじゃないのか」
「えっ?」
「俺、助けたら『もう帰れ』っつってそんなに話さなかったけど。望海とちゃんと話をしてほしいってすげえ言われて」
「ま、真央くんは友達です。そんな、つきあってるとか……真央くん、恋人もいますし」
「恋人」
「その恋人は、男の人ではありますけど、僕と真央くんは、友達です」
佑悟さんは白いため息をついた。指に佑悟さんの長い指が絡まっていて、何だか無性に泣けてくる。
佑悟さんと手をつないでいる。触れ合っている。久しぶりだ。嬉しい。
「邪魔か、と思って」
「え」
「俺がいなくてもあいつがいるなら、俺が望海のそばにいるのは、邪魔かって思った」
「そ、そんなっ。ぜんぜん、……寂しかった、です」
僕は濡れた視界で佑悟さんを見る。頬だけが妙に熱い。「寂しかった」と佑悟さんは繰り返して、「はい」と僕がうなずくと、佑悟さんはみずからが情けないように笑った。
「俺、自信ないんだ」
「え」
「だから、こんな自分曲げてやろうって、そのうち不良とか言われて」
佑悟さんは、僕の手をぎゅっと握った。佑悟さんの表情を確かめたいのに、涙が滲んで視界がはっきりしない。
「男が好きとか、……そんなの、受け入れられなくて」
「佑悟さん──」
「あいつは、堂々と望海の隣にいたから。きっと俺なんかより望海を幸せにするのかなって。俺は、あんな空き部屋でこそこそ会うくらいしかできなくて」
もっと視界が水分で揺れてくる。
そんなの……そんなの関係ない。僕は佑悟さんの隣にいられるなら、周りなんてどうだっていい。人がいる中だろうが、誰もいないところだろうが、ただ佑悟さんが僕の肩を抱いて名前をささやいてくれるなら、それで幸せなのだ。
それを言いたいのに、なめらかに舌がまわらなくて言えない。
「俺じゃ、ダメか?」
ぽたり、と涙が落ちて同時にまばたきをして、一瞬視界が澄んだ。佑悟さんの黒い瞳に僕がいる。
「俺が、お前を守る」
心臓の音が響いてくる。体温が欠けていく軆が芯だけほてる。
「だから、そばにいさせてくれないか」
「佑悟さん──」
「俺、何か、すげえ頼りないけど。勘違いで寂しい想いもさせたし。今さら、嫌かもしれないけど」
「ゆ、佑悟さんは、僕なんかでいいんですか」
「え」
「だって、僕、佑悟さんを支えられないかもしれないし。僕ばっかり、佑悟さんに助けてもらうかもしれないし」
「……望海」
「は、はい」
「望海が、好きなんだ」
「えっ」
「そんなふうに、お前が好きだって思えるだけで、俺の誇りなんだ。やっと、自分を認められるんだ」
僕は傘を取り落として、そのまま佑悟さんの胸に飛びこんだ。「望海、」とちょっと驚いた声で呼ばれて、「好きです」と僕も伝えた。
「僕も佑悟さんが好きです」
「……ほんと、に」
「佑悟さんじゃないと嫌です。佑悟さんなら、僕を大事にしてくれるから」
「望海──」
「佑悟さんが、一番好きです」
佑悟さんは僕の背中に腕をまわして、ぎゅっと抱きしめてくれた。雪と涙で視界がはっきりしなくて、軆も冷たくなっていたけど、重なった軆はほのかに温かかった。
佑悟さんはそっと僕の頭を撫でて、あの優しい低い声で僕の名前を呼んでくれる。乾いていた感覚が潤っていくのが分かった。佑悟さんの腕の中にいる。やっとこの腕の中が居場所になった。僕も佑悟さんの制服を握りしめて、喉をつぶすようだった黒い塊が消えていくのを感じた。
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