Scene 9
学校では卒業式が近づいて、三年生はあんまり登校していないけど、佑悟さんは例の空き部屋で求人誌を読んでいる。卒業予定だから受けられる面接もあるそうで、それに行っているときもあったけど、僕が毎日空き部屋を訪ねるので佑悟さんも面接を終えたら来てくれた。
家を出たいと言っていたことを訊いてみると、佑悟さんはうなずいて「俺は兄貴みたいに出来が良くないから」と昔からおにいさんと較べられて育ったことを教えてくれた。「おまけにゲイとか知られたら、どのみち勘当だろうから、今から生活できるようになっておきたいんだ」と佑悟さんは求人誌を床に置いて僕の頭を抱き寄せた。家にいると進学しないことはとやかく言われるらしいから、学校に来てここで過ごしているというのもあるのだそうだ。
「佑悟さんがひとり暮らし始めたら、遊びにいってもいい?」
髪を撫でられながら訊いてみると、佑悟さんは咲ってうなずき、「そうなれたら鍵も渡すよ」と言った。
「いつでも来ていいから」
こくんとして、腕の中から佑悟さんを見つめた。春のきざしを帯びていく陽光が射している。佑悟さんは僕を見つめかえしてきて、そっと唇を重ねてくれる。僕は佑悟さんの制服をつかんで、その胸にしがみついた。佑悟さんの匂いがする。
「望海──」
「少し、だけ」
「ん」
「できない、かもしれないけど」
「え」
「佑悟さんになら、触られても……」
佑悟さんはちょっと驚いて、「でも」と躊躇う。「嫌?」と小さく上目遣いをすると、佑悟さんは「望海に無理してほしくない」と軆に隙間を作る。それに抵抗するように、僕は佑悟さんに抱きついた。
「僕は、佑悟さんに触ってもらって、……忘れたい」
佑悟さんは僕を見下ろす。佑悟さんの心臓が聴こえる。僕の鼓動もほてって速い。
名前を呼ばれて潤む瞳を上げると、もう一度唇が触れてきた。いったん離れて、今度は深く口づけてくる。目を閉じて、熱い舌が触れあう感触に集中する。キスは、同級生にはそんなにされなかったけれど──生徒会長だったあの人には、たくさんされた。
そう思うと、意識が宙に浮きかけたけど、違う、と言い聞かせる。佑悟さんだ。僕が今、キスしているのは佑悟さんだ。
ゆっくり体重をかけられて、ホコリだらけの床に押し倒される。顔を離した佑悟さんを見つめようとしたけど、逆光でよく見えない。黒い影が覆いかぶさっている感じで、かすかに怖くなった。ジャケットとシャツをはだけさせられ、肌に手と口が這う。でも軆は蕩けるどころか硬くなってきて、フィルムが散乱するみたいに記憶が脳裏に飛び散る。確かめなきゃ、と思った。これは違う。あの人じゃないんだ。同級生でもないんだ。これは──
脚のあいだに触れられた。その刺激に、強烈な吐き気がこみあげた。快感が嫌悪に直結して、過呼吸のような強い息切れがあふれて、涙が流れてくる。
嫌だ。気持ち悪い。怖い。
そのとき震える肩をぐっとつかまれて、僕は短く悲鳴を上げた。
「望海」
荒っぽい呼吸で喉が渇いて、息遣いが舌の上を動く。
「望海、……ごめん、」
え……
「ごめん、望海」
謝る、なんて、今まで誰も──
「もうしないから。やっぱり触らない」
僕は震えながら、黒い影を見つめた。その影は僕を抱き起こし、ぱたぱたと涙が降る中ではずれたボタンをかけなおした。その長い指を見て、僕ははっと顔を上げた。
「佑悟……さん」
佑悟さんは顔を上げずに、僕にきちんと服を着せると、「ごめん」ともう一度言った。僕はぽかんとしかけたものの、状況を思い出してくると、慌てて佑悟さんの制服をつかんだ。
「ご、ごめんなさい、僕──」
「いや。俺が判断早すぎただけだから」
「そんな、僕が……ごめんなさい、あの、まだできるから」
「しないよ。まだ震えてるのに」
「え、あ……」
言われて初めて、肩や指や喉が震えているのに気づいた。何で。こんなの違う。佑悟さんだったのに。僕を痛めつける人ではなかったのに、どうしてこんな──
恥ずかしくなってくる。僕からお願いして、混乱して、こんな反応を見せてしまうなんて。佑悟さんを傷つけた。あんな人たちと佑悟さんを同じに見てしまったのだ。何てひどいことをしたのだろう。嫌われてしまっても仕方がない。なのに、佑悟さんは僕の頭を優しく撫でて、「大丈夫だよ」と言う。
「できなくても、俺はちゃんと望海のそばにいるから」
「佑悟さん……」
「そばにいても、……いいか?」
「い、いなくなったら、嫌です。そばに……いてください」
涙を抑えられないまま言うと、佑悟さんは丁寧に僕の頬に触れてぬぐってくれる。僕は情けなくてずっと泣いていた。
気持ち悪い? 怖い? 佑悟さんのことまで、そんなふうに感じてしまうなんて。佑悟さんは絶対に僕にひどいことはしない。分かっているのに、あんなに生々しい吐き気まで覚えた。
僕は本当にみんなに穢されてしまったのだろうか。好きな人と触れ合うことを感じ取れないほど、汚れてしまっているのだろうか。もしかして、このまま、一生──
午後の授業には、僕は教室に戻った。もうすぐ終了式の教室に、もう僕におかしな手つきをしてくれる人はいない。佑悟さんがいるし、真央くんもいる。
昼休み、僕が席でうつむいていたときに真央くんが「どうかしたの?」と心配してくれた。僕は真央くんを見つめて、放課後に話ができるか訊いてみた。「もちろん」とうなずいた真央くんに、人がいないところがいいとも言うと、「俺んち来る?」と提案されて、少し考えて甘えさせてもらうことにした。
そんなわけで、その日の授業が終わると僕は真央くんの家への道を歩いた。「佑悟先輩は一緒じゃなくていいの?」と問われて、僕が何とも言えずに首をかたむけると、真央くんはそれ以上言わずに、「もうすぐ三月だなあ」と長くなってきた日を眺めやった。
真央くんの家に着くと、和磨さんも弓乃さんも留守だった。和磨さんは仕事、弓乃さんは高校だということだ。和磨さんと弓乃さんなら聞かれても構わなかったものの、一応ほっとして、僕は真央くんに今日の佑悟さんとのことを相談した。
佑悟さんとはちゃんとしたいこと。でもできなかったこと。あの錯覚は消えないのかということ。
真央くんは真剣な面持ちからむずかしい顔になって、「それが“穢れてる”ってことだとは思わないけど」と言葉を選ぶ。
「なかなか、簡単に乗り越えられないことだよね」
「……うん」
「でもさ、進もうってときに、障害ってあってもいいものだと思うんだ」
「そう、かな」
「そっちのほうが、何て言うのかなあ、乗り越えたときに実感になると思うし。望海くんと佑悟先輩の場合なら、つらかったぶん、絆になると思うよ」
「絆」
「うん。俺と和ちゃんも、それなりに大変だったからね。だけど、そのぶん今は幸せだよ」
「そういえば、一緒に暮らすようになって、すぐ告白できたの?」
「まさか。俺は好きな人が和ちゃんだって知られたら、ここも離されると思って言えなかったし。和ちゃんも俺が好きだなんてずっと殺すつもりだったらしいし。ねえちゃんが頑張ってくれたかなー」
「弓乃さん」
「うん。やっぱ、間に挟まれて生活してると気づくみたいで。告白していいか分かんないよって俺が言ったとき、ねえちゃんは『和兄なら真央を全部受け入れると思ったから、ここに来たんだよ』って言ってくれて。それで俺から告白したけど、まあ初めは相手にされなかったね」
「そうなの?」
「『ガキに興味はない』とか言うんだよ? ひどくない? 『ガキじゃなかったらいいの?』とか俺も揚げ足取ってたけどね」
「どうやって和磨さんも認めてくれたの?」
「俺が出会い系に手を出そうとしたからかな。何か、和ちゃんじゃないなら誰もいいしみたいになってきて、そしたらひっぱたかれてさー。お前が生まれたときから俺は我慢してるんだとか何とか切れられて、ねえちゃんは『本性来た』とか笑ってるし。あー、ぜんぜんロマンチックじゃない告白だった」
そう言っているけど、真央くんは咲っている。「俺たちもそうだったけど、うまくできなくてもいいんだよ」と真央くんは優しく僕を見つめた。
「すぐできても、時間かかっても、望海くんと先輩なりに結ばれたらいいんだよ。ほんとにそのときが来たら、できるもんだから。焦らなくても、先輩がそばにいてくれるのは信じられるでしょ?」
「うん」
「待たせて罪悪感あるかもしれないけど、別にそれを先輩を苦痛だと思ったりしないよ。言われた通りだよ。無理されたほうがきっと先輩はつらい」
「無理は、してないつもりだったけど。佑悟さんとしたいと思うんだ。その気持ちよりあのことが勝つのがつらい」
「大丈夫、乗り越えられるよ。そしたら、それはすごく望海くんと先輩を幸せにすると思う」
真央くんは力強く咲ってくれて、僕はそれを見つめてうなずくことができた。佑悟さんを幸せに。それは、僕が幸せになることより僕に勇気をくれる気がした。
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