君の隣にいられること-10

アセクシュアル

 それから、成瀬は俺と桃を眺めるだけでなく、話しかけてくるようになった。俺たちのほうから声をかけたりもした。特に、桃は熱心に成瀬の話を聞いていて、俺はたまにふてくされてしまうくらいだった。
 でも、もやもやした嫉妬はもうない。後輩想いの桃に惚れ直すだけだ。桃と話して、クールな表情を保っていた成瀬が無邪気に咲ったりするのを見て、まあいいか、とも思った。
 俺も約束通り、成瀬に自分の親のことや巴さんのことを話した。「司と南を見守ってるのが、巴さんの幸せなんだってさ」と俺が肩をすくめると、「何となく分かります」と成瀬はうなずいた。巴さんが恋愛しないのか、成瀬のようにできないのかは分からなくても、通じるものはあるみたいだ。
 放課後、たまにあの喫茶店に三人で立ち寄るのだけど、父親と父親が愛し合っている俺の家庭環境を聞いた成瀬は、「素敵な家庭だと思います」と微笑んだ。
「私の家は、父が母を家政婦みたいにあつかう家庭なので」
「家政婦」と俺はまばたき、「亭主関白?」と桃は首をかしげる。
「どうなんでしょうか。愛し合ってる、とはあまり感じません。恋愛できないのは、そういう家庭を見て育ってせいなのかなあ、と思ったこともありました」
「家庭かー。確かに、俺も司と南みたいになりたいと思うから、桃のこと大事にしようと思うもんなー」
「でも、私、授くんはいい旦那様になると思うけど、家にはおとうさんいないよ」
「え、そうなんですか」
「うん。家族より、仕事のほうが大事な人でね。結局、最後には仕事を選んで離婚したの」
「おかあさんとはうまくいってるんですか?」
「ママは、私にも妹にも最高のおかあさんだよ。仕事も頑張ってるけど」
「俺のことも認めてくれてるもんな」
「ママは授くんお気に入りだもん」
「じゃあ、やっぱり家庭っていうのは関係ないんでしょうか。すごく、考えるんですけど。私が恋愛できない原因って、これまでの人生のどこにあったんだろうって」
「原因かあ」と俺と桃も考えこんでしまったが、はっきり答えてやれない。誰かに手ひどく振られた、とかでそうなるなら一理あっても、成瀬はそもそも人に恋愛感情を持たないようだから、振られたというのはないだろう。
「誰かにしつこく迫られてうんざりしたこととか」と美人なのでありそうなことを言ってみたが、成瀬は首を横に振って、「私は何がおかしいんでしょうね」とやや寂しそうにつぶやいた。俺と桃は顔を見合わせ、おかしいというわけじゃない、と思うものの、うまく成瀬を励ましてやれなかった。
 その日も桃を家まで送って、暗くなった道を歩いて帰宅した。「ただいまーっ」とリビングを覗くと、クーラーのかかるそこには何やらノートを広げる響と奏がいて、それぞれ「おかえり」と言ってくれる。
 キッチンからは魚の焼ける香ばしい匂いがしている。喉が渇いていたので冷蔵庫に向かうと、「おかえり」と夕食の支度をしていた南も微笑んだ。
「何魚?」
「さんまだよ。塩焼き」
「秋ですなあ」
「あと、鶏肉としめじの炊きこみごはんと、玉ねぎのお味噌汁。もうすぐできるからね」
「了解。司はまだ?」
「うん、遅くなるって。だから、今日は僕は司を待つよ」
 俺は牛乳をグラスにそそいでごくごく飲んだあと、「南と司って」と菜箸で味噌を丁寧に溶かす南を見る。
「もし出逢ってなかったら、誰とも恋愛してなかったのかな」
「えっ。何、いきなり」
「いや、お互い以外好きになったことないって言ってたから」
「………、どうなんだろうね。司は適当に結婚してた気がするけど」
「司はなー。南は?」
「………、巴と、続いてたのかな」
「あ、そうか。ふーむ。むずかしいなあ」
「何で?」
「恋愛感情が湧かないって、どんな感じなのかなあと」
 きょとんとした南に、「あとで話しますよ」と俺は牛乳を飲み干したグラスをシンクに置いた。それから風呂に入って服を着替え、涼しいリビングに戻る。
 すっかり腹が減っていた。南が料理をテーブルに並べていて、どうやら響は奏に勉強を教えている。今日は俺が手伝いますか、と南のサポートに入ると、「ありがとう」と南は笑顔で言った。
 俺と響と奏の夕食が始まり、南はお茶だけ持ってきて、奏の隣に座る。
 秋のさんまは脂がたっぷり乗っていて、炊きこみごはんも鶏肉の香りが優しい。「炊きこみお代わりある?」と訊くと、「ちゃんと用意してます」と南が咲ったので、俺はさんまと炊きこみごはんを口に詰めこんだ。
「そういえばさ、さっき南にちょっと言ったけど」
 空腹が落ち着いてきたところで、俺は家族に話したかったことを思い出して切り出した。みんな俺に目を向ける。
「例の後輩と、こないだちゃんと話し合ったんだよ」
 味噌汁の玉ねぎをすくって食べる奏が、「観察してくる人?」と確認してきて、「そお」と俺はうなずく。
「何かな、そいつは恋愛できないんだって」
「恋愛できない」と言った奏も、南も響もまばたきをする。
「何というか、恋愛感情ってもんがないらしいぞ」
 三人は顔を見合わせ、「何かトラウマとか」と南が言う。「そういうのはないみたいで」と俺は炊きこみごはんを飲みこむ。
「本人も原因が分からないって言ってた」
 みんなまた目を交わし、「よく分かんない」と奏が言った。けれど、さんまをほぐしていた響がふとつぶやく。
「それって、原因とかの問題ではないかも」
「え」
 さんまの骨を綺麗にはがしていた響は、手を止めて俺を見た。
「セクシュアリティの中には、アセクシュアルってあるから」
「あせく……?」
「アセクシュアル。恋愛感情も性欲もないセクシュアリティだよ」
「えっ、そんなんあんの」
「あるよ。僕も、本で名前を見かけただけだけど。もしそれだったら、原因とかはなくて、その後輩さん自身の性的指向だと思う」
 成瀬自身の性的指向。つまり──たとえば、俺がもともと女が惹かれるから桃を好きになったみたいに、成瀬にはもともと「恋愛」がないから誰にも惹かれなかった、ということか。
 俺は隣にいる響に向き直った。
「その、あせく……何とかは、普通にたくさんいるのか」
「ちゃんと一定数いるよ。セクシュアルマイノリティのひとつとして認められてるし」
「さすがセクマイ弁護士志望」
 そう言った奏は、さんまの塩焼きに醤油をかける。
「なるほど。ちゃんと名前あるんだな。あせ……何とか」
「アセクシュアルだよ」
「アセクシュアル」
「もし、その子が原因とかで悩んでるなら、自分がそこにカテゴライズされるだけでもちょっと安心かもね」
「そうだなっ。サンキュ、今度言ってみる」
「えー、じゃあさ、俺と響くんのかあさんもそれなの? その人みたいにさ、いつも司くんと南くんが一緒にいるのが幸せだって言ってんじゃん」
 奏が南を見ると、南は少し咲って「どうかなあ」と首をかたむける。
「巴は、男の人とつきあってプロポーズされたこともあるから」
「は!? いつ!?」
「ずっと昔だけどね。僕が迷惑かけなきゃ、その人と結婚してたかもしれない」
「迷惑」
「その頃、僕は司に捨てられたってお酒ばっかり飲んでたから。巴がそんな状態から助けてくれて……でも、それにかかりきりになったせいで、プロポーズも自然消滅しちゃったんだ」
「マジでか。かあさんも恋愛してたんだ」
「南は、その男の人に会ったことあるの?」
「ううん。巴は、『大学の卒業式には、ほかの女連れてたわ』って笑ってたけど、つらかっただろうね」
「そうなんだあ……」
 しみじみと奏がつぶやき、「それでも、もし、巴があのとき助けてくれなかったら」と南は言葉を継ぐ。
「僕はどうなってたか分からない。生きてたかも分からないし、どのみちまともじゃなかった。司にも再会できてなかった。すごく感謝してるけど、巴にとっては代償が大きかっただろうね。悪いことしたなあって、今でも思う」
「でも、かあさんと南くんが結婚しなかったら、俺と響くんいなかったじゃん? それも寂しいよ」
 そう言った奏に南は微笑し、「そうだね」とうなずく。
「響と奏が生まれてくれたのは、本当に嬉しい。それは巴も同じだと思う。これで、今からでも巴が誰かと幸せになってくれたら、言うことなしなんだけどね」
「巴さんの幸せは、司と南が一緒にいることじゃん。今でじゅうぶんなんじゃね」
「うん──。でも巴は、その後輩さんみたいに、恋愛をしないっていう人ではないと思うんだ。巴はいつも頑張ってるから、甘えられる人を見つけてほしい」
 南があやふやに咲ったときだ。ケータイの着信音が響いた。

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