僕の中では-13

『僕』

 ずうっと一緒にいたいと本気で思った人とは、結局一年も続かず、また夏が巡ってきた。
 焦げつくような日射しに、飲み物を持ち歩かないと熱中症でふらふらになる。朝起きると蝉の声が先に起きていて、寝起きの鼓膜を引っかきまくる。アスファルトが焼ける匂い、ねっとりしただるい風、毎日空の青は狂ったように青くて、気が遠くなりそうだ。
 仕事かったるいなあ、と思いつつも私はふとんを抜け出して、朝の支度を始める。
 あと数日で八月になる。八月一日はあの子の誕生日だったな、と顔を洗って化粧水を肌になじませながら思い出す。
 あれから連絡はないし、私も連絡していない。でも、少なくとも私は連絡先を削除できていないから、「おめでとう」くらい言おうと思えばできるけど。でも向こうが削除してたら届かないのか、と思って、やっぱりやめとこうなんて消極的に考える。
 牛乳とたまごでフレンチトーストを作って、テレビを観ながらカフェオレと食べる。今日のニュースを会社での適度な話題として吸収しつつ、朝食が終わると今日着ていく服を決める。
 黒のチュニックにブルーのレギンス。それを着ると、次は化粧に取り掛かり、表情を引き締める。
 外出中に陽光が部屋を満たせるようにカーテンを開けておき、つけっぱなしだったクーラーは止めた。スマホやら何やら、持ち物をバッグにまとめると、八時になる前に部屋を出る。
 窓から風が入る廊下を抜けて、三階から一階まで階段を降りる。今日もよく晴れている。公園が裏手にあるからか、蝉の声がけっこうすごい。今夜は晴天で、月が綺麗だとテレビが言っていた。
 夜はビアンバーでも行こうかなあ、とそろそろ出逢いを切実に考えていると、アパートを出たところでぬるい風が吹き、緩いウェーヴの髪とワインレッドのロングスカートがひるがえるのが目に入った。
 足を止めた。その子も、止まった足音で私を見た。私は目を開き、視線を動かせなくなる。
 その子はベビーピンクのキャミソールに白のカーディガンを羽織っていて、相変わらずかわいらしくて──私の目の前に駆け寄ってくると、「おはよう」と柔らかい笑顔を見せた。
「な……に、してんの、深夏」
 私が引き攣ったような声で言うと、深夏は笑顔を迷わせて、「会いたくなかった?」と訊いてきた。私は唇をきゅっと噛む。
 会いたかった。会いたかったよ。だけど。
「何か、用事?」
 できるだけ感情を抑えて、そっけなく言うと、深夏は長い睫毛を伏せてうつむいた。
「はとちゃんに会いたくて」
「……会いたいからって、会う仲でもないでしょ」
「もう、僕のこと嫌いになっちゃった?」
 私は深夏を見て言葉を発そうとしたけれど、何を言えばいいのかが分からず、視線を下げる。
「僕は、はとちゃんのこと待ってたよ」
「………、あいつに、聞いたでしょ」
「……ん」
「別れるって」
「聞いた」
「深夏には、あいつがいればいいと思うよ」
「はとちゃんには、僕がいなくていいの?」
 私はもう一度、深夏を見た。深夏は綺麗に化粧して、やっぱり女の子よりかわいい女の子に見える。
「私、深夏にひどいことしたもん」
「ひどいこと」
「里珠に拓寿に告れよってけしかけて、拓寿を揺さぶって、深夏を捨てさせて。全部私がやったんだよ」
「知ってる」
「………」
「里珠さんに聞いたから」
「里珠に……?」
「里珠さんは、自分が悪くてはとちゃんは悪くないから、はとちゃんを嫌いにならないでって言ってたけど」
「……深夏といると、私、嫌な女になるもん」
「はとちゃんはかわいいよ」
「深夏のこと縛りたくて仕方なくなるの」
「縛っていいよ」
 さらっと言われて、つい「嘘つき」とかちんと言ってしまう。
「どうせ男ともつきあうんでしょ」
 深夏はわずかに目を下げたものの、すぐに私を見つめなおす。
「はとちゃんに振られて、しばらく、もう一度拓とつきあった。でも、ぜんぜん楽しくなかった。だって、いつも話題にしてたはとちゃんが、もういないんだもん。それで気づいたんだ。僕の話すことは、いつのまにかはとちゃんのことばっかりになってたんだって」
 けだるい風が吹いて、深夏のロングヘアを揺らす。
「はとちゃんの作ってくれたごはんがおいしかったとか、はとちゃんと買い物行ってかわいい洋服買ったとか、僕が話したいことは全部はとちゃんのこと。それで、みんな言ってくれてたんだ。みなちゃんは、今度の彼女さんがほんとに好きなんだねって。拓も最後に『あいつのことがどうしても好きなんだな』って言ってた」
「最後……?」
「うん。また別れちゃった。でも、拓は『友達になってのろけ聞いてやるから』って言ってくれた。だから、僕、またいろんな人にはとちゃんのこと話したい。自慢の恋人なんですって、みんなにたくさん話せるように、はとちゃんと楽しいこといっぱいしたい」
 どう答えたらいいのか、ただ突っ立っていると深夏は私に近づいて優しくハグしてきた。
「はとちゃんが好きなんだ。今までの人とは違うってことがよく分かった。頭悪くてごめんね。はとちゃんとは、男とか女じゃない。女の子だから好きになったわけじゃない。だから、別に男なんていらなかったんだね」
「………、」
「今までそうだったから、拓とつきあったけど。拓のこと、愛してなかったわけじゃないよ。でも、たぶん、男とつきあってなくて不安定になるのが怖かった。それで、はとちゃんに嫌われないようにしてた。全部、はとちゃんのためだった。その時点で、今までの恋とは違ったのに。僕は弱いから、はとちゃんを傷つけてでも、はとちゃんに嫌われないようにした」
「……深、夏」
「はとちゃんの隣が幸せなんだ。それを失いたくない。初めてなんだよ、そんな人。だから、すごく下手くそになったけど。はとちゃんがいなくなってからそれに気づくとか、ほんとバカだけど。僕は、はとちゃんがいればいい。はとちゃんがいい」
 震える胸に、息遣いが揺らぐ。私は一度目を伏せてから、ゆっくり、言葉を選ぶ。
「私、は……女だし」
「うん」
「深夏……と、寝ても、男役はできないよ?」
「いいよ、そんなの」
「でも、深夏は──」
「確かに僕はネコもするけど。エッチなことで満たされるのは、挿れるほうだよ」
「ほんとに……?」
「うん。ていうか──そういうのも、違うんだ。僕がエッチしたいのは、男でも女でもなくて、はとちゃん」
 深夏は私の頭を撫でて、「やっと分かったから」とささやく。
「僕が失くしたくない人は、はとちゃんなんだ。これからも一緒にいたいのは、はとちゃんだけ。だから、もう僕は男も女もいらないから、はとちゃんとつきあいたい」
 ……何、で。もう、もう、ほんと、分かんない。
 どうしてこの子は、こんなに私を愛してくれるのだろう。こんなの、私だって負けないように、この子をもっと好きになるしかないじゃない。
「僕ね、正直、指輪を好きな人にプレゼントしたのは初めてじゃないんだけど」
 そう言って深夏は軆を離し、バッグからあの日拓寿に渡した指輪を取り出した。「いい?」と訊かれて私がこくんとすると、深夏はほっと微笑んで、それを私の左薬指にはめた。それから、自分の何もない左薬指を見せる。
「誰かに、指輪をもらったことはないんだ。あんまり、それは好きじゃないような感じもあった。でも、はとちゃんからなら欲しいって思う」
「え……」
「僕の指輪の相手は、きっとはとちゃんだったんだね」
「深夏──」
「だから、今日は会社サボってよ。それで、僕に似合うかわいい指輪を探しにいこう」
 視界がゆらゆら揺らめく。深夏の顔がぼやけて、息づまるほど幸福感がこみあげてくる。
 無理。ああ、もう意地なんて張れない。だって、私は、この子のことが──
「深夏」
「ん」
「好き」
「うん」
「私も、深夏が好き。男でも女でもなくて、深夏が好き」
「僕もだよ。僕の中では、はとちゃんははとちゃんだから。性別じゃないんだ」
「うん……っ。ありがとう、深夏。私もね、そんな人をずっと探してたの」
 そう言って、私は勢いよく深夏に抱きついた。深夏はそれを受け止めて、ぎゅっとして、「はとちゃんの匂いだ」と嬉しそうに咲ってくれる。
 深夏もいつものいい匂いがしていて、それに汗の匂いが絡みあって混ざりかけている。それは、初めてこの子と抱きしめてあったときと同じ匂いだった。
「あ、でもね、深夏」
「ん?」
「指輪、買ってあげたいけど」
「うん」
「九時過ぎて、ATM手数料いらなくなってからでもいい?」
 私の言葉に深夏は噴き出して、「はとちゃんのそういうとこ好き!」ときつく私を抱きしめた。
 深夏が咲っている。私を抱いて、咲ってくれている。よかった。私でも、深夏を笑顔にすることができるんだ。女でしかない私にはできないんだ、って哀しくなったけど、そんなことはなかったんだ。
 男でも女でもなく、私のことが好き。そんな愛情をくれる人を、私も待っていた。そして、そう言ってくれた人を私も男とか女とか関係なく愛したかった。
 男だからじゃないの。
 女だからじゃないの。
 性別じゃない。
 私が深夏を好きになったのは、この子がとびきり「自分」を生きているから。僕は僕であればいいと、僕の中では男も女もなく「僕」なのだと、しなやかに咲っているから。そんなふうに、私も私の中の私を生きたいと思わせてくれるから。
 やっと見つけた。
 そしてつかまえた。
 今度こそお互いの心を結わえて、ずっと一緒にいよう。
 君の中で、きっと私が、最初で最後のかけがえのない恋人になってみせるから。

 FIN

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