君の欲しいものは
深夏のアパートに到着してため息をつくと、ゆっくり深呼吸をして、階段のほうに向かった。203号室。さすがに合鍵でいきなり入る勇気はない。
耳を澄ましても、わりと物音が響かないアパートなので、中の様子は窺えない。私はドアの前でぐずぐずしていたけど、神様、とすがるように思ってから、思い切ってチャイムを押した。
中から足音が近づいてきて、「はい?」と懐かしい深夏の声がした。インターホンあるのに、と思いつつ、「私だけど」と言うと、反射的にがちゃっとドアノブが動いて、慌てた様子で鍵が開いて、改めてノブが動いてドアが開いた。
ドアの隙間から顔を出したのは、巻いていない髪をめずらしくそのままぼさっとさせて、メイクも薄くて、緩いルームウェアを着た深夏だった。
「はとちゃん──」
私は深夏を見つめて、やっぱかわいいなあ、とか思って、それから情けなく泣き笑いをしてしまった。深夏は目を開いて、私の手に触れてくる。ああ、拓寿に触れていた手かもしれないのに。私はその手を握り返してしまう。
「……ごめん、ね」
「えっ」
「いるん、でしょ」
「だ、誰が」
「拓寿……だっけ」
「拓? 何で? いないよ」
「え」
「そんな、しょっちゅう会えてるわけじゃ」
「………、そうか、営業か」
「う、うん。残業とか飲み会も多いみたいだよ」
うなだれていた私は、もう一度深夏を見て、深夏はおろおろと見つめ返してくる。
いなか、った。深夏は拓寿といなかった。
私は大きく吐息をついて、破裂しそうになった胸に、「何だよお」と吐き出してしゃがみこんでしまった。「はとちゃん」と深夏もしゃがんで私を覗きこんでくる。私はなぜか視界が潤み、またたく間にぽたぽたと涙を落としてしまう。
「はとちゃ──」
「深夏が好きだよお」
「えっ」
「何で、深夏を他の奴と半分にしなきゃいけないの? 深夏が全部欲しいよ。私がこの部屋にいないとき、深夏はあいつといるんだろうなとか考えたくないよお」
「………、」
「こんなの疲れるよお。深夏の部屋に来るたび、こんな想いするの嫌だよお」
「はとちゃん……」
「どうして、私、深夏の彼女なのに、深夏をひとり占めできないの……?」
深夏は口をつぐんでいたけども、優しく私を抱き寄せて頭を撫でてくれた。私の涙は深夏のふわふわした生地のルームウェアをひたひたと濡らしていく。
「中入ろ」と深夏は丁寧に私を立ち上がらせると、部屋の中に入れてドアの鍵を締めた。そして私の靴を脱がせて廊下では手を引き、部屋の中に踏みこむ。
ベッドは片づいて、座卓にはコンビニのスナック菓子とお酒、テレビがついていた。深夏はぐずる私をベッドサイドに座らせると、隣に腰を下ろして再び手をつなぐ。
「はとちゃん」
そう呼ばれて、私がよそよそしい目を向けると、深夏は哀しそうに咲った。
「僕はね、性別は男なんだ。それは間違いないと思ってる」
「……ん」
「それで、女の子も好きになるし、男の人も好きになる。バイだと思う」
「うん」
「ただね、バランスがいるんだ。女の子を好きになって、女の子にかたむくことができない。そっちにのめりこむと、どうしても男ともバランスを取りたくなる」
「………、」
「はとちゃんが大好きだよ。でも、女の子のはとちゃんには埋められないものがある。それを拓が埋める。でも、同時に男の拓には満たせないものがあって、それははとちゃんが満たしてくれる。だから、それぞれ……分担してもらうんだ。それで、僕にはどうしても恋人がふたりになる」
私はうつむいた。なるほど。分からん。
そう思うけど、分かったふりをしないと私と深夏は離れてしまうかもしれない。深夏があいつと過ごしていなかっただけで、こんなに安堵する私。このあいだ怖いくらいの目で、「絶対別れない」と釘を刺した深夏。別れる要素なんてないはずなのに、やはり私が深夏の奇妙な恋愛体質を理解しないと、私たちは不信感で引き裂かれるのだろうか。
それは嫌だ。深夏と別れたくない。深夏を失いたくない。やっと、続く未来を現実的に感じられた人なのだ。ずっと一緒にいたい。深夏を失ったら、とうぶん恋なんてできそうにない。それほど深夏の存在は私の心を占め、満たし、あふれている。
「深夏」
「うん?」
「私じゃ足りなくて、あいつとつきあうんじゃないよね」
「はとちゃんの気持ちは、いっぱいもらってると思ってるよ」
「深夏を埋められないのは、あいつも同じなんだよね?」
「……うん。同じ」
「じゃあ、私、深夏と別れたくない……」
深夏は私の瞳を見つめて、その色合いをやわらげるとキスしてくれた。私は深夏の背中に腕をまわし、相変わらず華奢な軆にぎゅっとしがみついた。「最近、怖くて眠れてなくて」と深夏は照れ咲って私を覗きこんでくる。
「今日、泊まって」
「うん」
「一緒に寝て」
「うん」
「明日の朝は、僕のこと起こしてから出かけてね?」
「分かってる」
「置いていかないでね」
私は深夏の髪に指を通した。手櫛でするするとほどけていく。しっとりした柔らかい髪は、いつも通り、いい匂いがする。「そばにいる」と言って私が深夏を抱きしめると、こくんとした深夏も私のことを抱きしめた。
そんなわけで、私と深夏はひとまず仲直りすることになった。里珠にそれを報告すると『GJ!!』のスタンプが来た。鵺にも会って伝えたけど、こっちには単純に祝福されずに「浮気黙認するのか?」と睥睨された。
「そういうわけじゃないけど」と私はいつもの賑わう居酒屋のカウンターで、二杯目のチューハイに口をつける。「そこの話できてねえじゃん」と鋭く突っこんでくる鵺に、「仲直りはクリアしたから褒めろよっ」となぜか私は切れる。
「根本的な問題をごまかしただけだろ」
「とりあえず、私は深夏と別れない」
「別れるだろうななんて誰も思ってねえよ」
「う……。少しは、考えたよっ。彼氏が男とやってたんだよ? BLの当て馬モブ女かよ。泣くわ」
「っそ。でも、別れたほうが楽だとは思うけどな」
「はっ?」
「みなちゃんの性癖はなかなか特殊だろ」
「………、性癖なの?」
「女とつきあうと男が足りなくなるとか、ぜんぜん分かんねえわ」
「まあ、同意……」
「男と別れる、っていうのはかたくなに言わないんだろ」
「……言わない」
「じゃあ、はとが俺といる今頃は、男と──」
「やめてやめてやめて。それだけは考えないようにしてるんだよっ。察してよっ」
「それ、問題から逃げてるだけじゃん。何にも解決してないぞ」
私は鵺を睨んだけれど、鵺は鵺でそっけなく見下ろしてくる。私は息をつくと、頭を抱えて肘をつく。
「深夏とは別れたくないよ」
「そうだろうけど」
「ほんとに好きなんだもん。見つけちゃったんだもん。あんなにかわいくて、そんな子が私のことも好きで、そんなのこのあとの人生でまた起こると思う?」
「じゃあさ、もっと必死に男を退場させることを考えろよ」
私は鵺を横目で見てから、退場、とぐるぐる考えて、注文したまま手をつけていないエビポテトサラダを見つめる。
「殺す、とか?」
「何でそんなに極端だよ」
「殺しても、別の男連れてくるかあ」
「その前にはとが捕まって、男どころか女枠を別の奴に埋められるな」
「最悪じゃん! くそっ……誰かあの男を誘惑してくれないかな?」
「あー、みなちゃんから心移りさせる線か」
「鵺はあいつどう? 顔はよかったよ」
「何で俺が男に言い寄るんだよ。気持ち悪い」
「だってあいつ、ストレートとか言ってたし、なのに深夏とつきあってるし、わけ分かんない感じがいいかなって」
「それ、俺がわけ分かんない奴って言ってるぞ。いや、言い寄るなら例の後輩のゲイの奴なんじゃね」
「あっ、そうだ。里珠ね。そうだよなあ、里珠が拓寿を落としてくれたら話は──わっ、話がすごく簡単! そうか、里珠と拓寿を手籠めにすれば」
「ちょっと日本語間違ってるけど、まあそれが誰も傷つかないよな」
鵺はうなずいてカシスウーロンを飲み、「ただ、そのあとだよ」とフライドポテトをつまむ。
「あと?」
「そうだよ、ここからがむずかしいんだろ。男が後輩とくっついたら、みなちゃんの中の男枠がまた空席になるんだよ」
「はっ、新しい男?」
「そう」
「エターナルじゃん!」
「エンドレスって言いたいんだよな」
「どうすればいいの?」
「知らねえよ」
「あいつを消すだけじゃダメなのか。やっぱ、深夏の体質の問題なんだよなー。そういうのって人が言って変わるもん?」
「変わるなら、俺は『自分は男だ』なんて思ってねえよ」
「でも、そこに切りこまないとどうにもならないよね。倫理的にどうなのとか言うの? それ自体倫理的にどうなの? 倫理的って何なの?」
鵺は頬杖をついて、フライドポテトでケチャップをすくって口に運ぶ。それから、「生々しい話するけど」とうんうん唸る私に言ってくる。
「みなちゃんの『男が足りない』って、性的な話なのか?」
「え……どう、なのかな。そうなんじゃない?」
私が首をかしげながら言うと、鵺は何か言おうとした。が、やっぱりやめてしまい、何やら耐えられない様子で顔を伏せる。
「何? 意見あるなら言ってよ」
「……我ながらえぐいこと考えた」
「ほう」
「こんなの変態じゃないか……」
「何考えたの」
「いや、何か……」
「何か?」
「はとが……男役、できれば、何とかなるとか」
私は鵺を見つめて、その意味を緩やかに理解してくると、「はあっ!?」と叫んでその声に自分で咳きこんでしまった。
「なっ、それ、えっ?」
「俺にはみなちゃんにとっての『男』は分かんねえけど」
「鵺はおもちゃ使ってくれたら男なの?」
「俺、……俺は、それは、場合によっては使うしかないときもあるだろ」
「え……あ、そうか、鵺って男の子の手術してないもんね」
「ああ」
「じゃあ、その、鵺が挿れるものを……?」
「それで満足してくれる女もいるしな」
私はグラスをつかみ、しかしそれはいくら何でも新境地過ぎるだろ、と思った。
でも、そうすれば深夏を女としても男としても満足させられる? つまり二股されない? どうなのだろう。道具なんて、今までの恋愛遍歴ではローターくらいしか使ったことがない。しかも、ローターは深夏と使ったわけではない。
ああ、何だか考えるほど頭が沸騰してくる。
「い、一度、深夏と……相談しないと」
「……相談すんのかよ」
「努める。いや、それは私ひとりだったら考えつかなかったわ。ありがとう」
「言っといて何だけど、すげえ複雑だな」
「私も複雑だけど、頑張るよ」
「そうか……じゃあ、まあ、頑張れ」
「うん」
ぽん、と鵺は私の背中をたたいた。鵺とはいろいろ話すけれど、こういう話はあんまりしないので若干恥ずかしい。鵺だってきっとそうなのに、思いついたから言ってくれたのだ。だったら、私も一つの賭けとして深夏と話し合わないと。
『今夜会える?
話したいことがあるんだけど。』
翌日の昼休み、深夏にそんなメッセを飛ばしておいた。三分待っても既読がつかないので、たぶん仕事だ、と思った。そう、たぶん。拓寿といるわけじゃない。うん。ひとり落ち着きはらってうなずき、チャイムが鳴ったのでスマホを引き出しにしまって眼鏡をかけた。
そわそわしながらキーボードをたたいて定時を待ち、PCの右隅のデジタル時計が十七時になった瞬間、チャイムと共にがたっと引き出しを開けてスマホを取り出した。深夏のアイコンがポップアップに表示されている。タップでトークルームを開くと、表示された未読メッセージを読んだ。
『ごめん、今日の夜は約束があるんだ。
拓と会うんだけど、あんまり気にしないでね。
お話はちゃんとまた聞くよ。
はとちゃんのこと大好きだからね。』
───……。
私は今、スマホの画面を床にたたきつけても、悪くないと思う。
ガッデム! それは、私はもう拓寿の存在を認識している。けれど、こうさらっとオープンにされても受け流せるほど心は強くない。
何なのこれ。私が大好きなら、あんな野郎と会うのをやめるのが先決だとなぜ深夏は分からないの。嫌だって、つらいって、話だってしたじゃない。私の心より自分の欲望なの? そんなに男にも抱かれたい? どうやったら、私が深夏にしてもらっているみたいに、私も深夏を満たせるの?
「委員長? 大丈夫?」
無意識にうずくまっていたので、同僚がそんな声をかけてきた。私は何秒か目をつぶって、涙も出てこない、と思って立ち上がる。そして振り返り、同期の女の子だったので話を続ける。
「彼氏がさ」
「ん、例の女装男子?」
「そう」
「写真見たときは女と思ったわ」
「女装だよ。でも、やっぱ女なのかな?」
「は?」
「女だったら、私は男をやるしかないの?」
「分からん落ち着け」
「でも、私が男やれば済むなら、あいつが女役もしてやればいいってことじゃん!」
その同僚の女の子がぽかんと私を見て、それ以外の室内にいた社員も唖然とこちらを見た。
私は息巻くあまり息切れをしていたけど、ん? と自分の発言をかえりみた。そう、私がおもちゃで男役をやって、それで深夏が満たされるとするなら。あんまりネコとか考えられないけど、拓寿が深夏にケツを貸したらそれもそれでひとつの解決になってしまう。でも、それはやっぱり違う、そういう問題じゃないな、と感じる──
私は息を吐いた。そして、「やっぱ無理だわ」とつぶやいた。「よく分かんないけど無理してるのは分かる」と同僚もつぶやいた。
私はふうっとため息をついて眼鏡をはずす。レンズに映った自分を見つめ、私はどうしても女しかできないよ、とやっとほんの少しだけ泣きそうになった。
【第七章へ】
