僕の中では-8

溶けはじめる愛

 月曜日、通常通り出社して仕事をして、お昼は食堂まで行ったついでにテラスで食べることにした。相変わらず空は曇っていても、雨は大丈夫そうだ。
 クラブサンドイッチの封を開け、パンと野菜のいい香りにかぶりつく。土曜日、うとうとしたあと少し目の覚めた深夏がマッサージしてくれたから、心なしか軆は軽い。
 今週はいつ夕ごはん一緒に食べるかなあ、とか思っていると、がたん、と隣の椅子に誰か腰かけてきた。「あ、すみません」と私はホットカフェラテを自分のほうに引き寄せる。すると、「ほんとにここに勤めてるんだな」と忘れられない声がして、がばっと隣の相手を見た。
 そこにいたのは、スーツすがたのあの男──拓寿だった。私が思いっきり嫌そうな顔をしたのに反し、拓寿は無表情なままハンバーガーの包みを開く。「何で隣よ」と私が軆を引くと、「一度、あんたとは話したほうがいいと思ってたし」と拓寿はハンバーガーを食べる。
「話って」
「みなのことだろ」
 私は眉を寄せて胡乱を表わし、「話してどうなるの」とそっぽを向く。
「私は深夏とは別れないし」
「邪魔して楽しい?」
「邪魔なのあんたでしょ」
「お前だろうが」
「私のが先に深夏とつきあってたんだよ」
「だからお前は賞味期限切れてんだよ」
「うるさいなあ。私と深夏のこと、何にも知らないくせに」
「俺は深夏にお前の話聞いてるぜ」
「何で私の話してんの」
「みなが話したいことは全部聞いてやりたい。お前もみなが俺の話しはじめたら聞いてやるんだろ」
「あんたの話なんか出ないよ」
「じゃあ、我慢させてんだな」
 こめかみにいらいらが溜まっていく。うるさい。本当にふたりの時間で、お前の話題は入りこむ隙間がないだけだ。
 しかし、どう言っても皮肉を返されそうなので耐える。
「あんた、ストレートなんでしょ」
「ああ」
「深夏は男だよ?」
「分かってるよ」
「女の子と勘違いして好きになってるなら、それは深夏に惹かれてるとは言わないから」
「初めは、女と変わんない感じで接してたけど、今は男ってことも受け入れてるよ」
「ゲイなの?」
「ストレートだけど、みなは特別」
「男がいいならそれでいいけどさ、ほかの男いるでしょ」
「みながいいっつってんだろ」
 拓寿はコーヒーを飲み、「お前だってさ」とこちらに尻目をする。
「見た目完全女のみなとつきあってるって、何なんだよ。レズじゃなきゃつきあわないだろ」
「私は男とか女とか気にしない人」
「節操なしかよ」
「パンセクな」
「誰でもいいなら、みなじゃなくてもいいだろ」
「そういう『誰でもいい』ではない」
「とにかく、みなのこと自由にしてくれよ。俺が幸せにしたいんだ」
 私はカフェラテをすすり、「あんたがどこまで深夏に説明されてるか知らないけど」とクラブサンドイッチを持ち直す。
「仮に私が深夏と別れても、たぶん深夏は別の女とつきあうよ?」
「そうならないように努力する」
「努力でどうにかなりそうなら、私だってあんたのほうが別れてほしいわ」
「………、男も女も欲しい、って奴だよな」
「そう。私だって考えたよ、あんたされいなければって。でも、きっとあんたが消えたとこでほかの男がまた出てくるの」
「じゃあ、このままみなを共有するのかよ」
「それはやだ」
「じゃあ、」
「別れるとしたらあんたなの。それは決まってるの」
「決めつけんじゃねえよ」
「何か考えるから、解決策が分かったらあんたには下がってもらう」
「ほんと自分のことしか考えてねえな」
「あんたに言われたくないわ」
 拓寿はハンバーガーを噛みちぎって飲みこむと、「みなは」とやや声をトーンを落ち着かせる。
「ほんとに、俺の安らぎになってくれてるんだ。一緒にいて、こんなに穏やかになれる奴は初めてだ」
「深夏はマイナスイオンだからね」
「男とつきあうなんて、考えたことなかったけど。女にはけっこう疲れてたから、みなとつきあえてほんとに幸せなんだ。みなが必要なんだよ」
「………、」
「みながお前のことも好きなの知ってるけど、どうしても渡せない。渡したくない。好きになったなら男でもいいって、みなが教えてくれたんだ」
 私はクラブサンドイッチを食べて、そんなの、と視線を下げた。そんなの、知らない。知らないよ。あんたがどんなに深夏のこと好きでも、深夏は私の彼氏だ。私だって絶対に渡したくない。
 深夏とつきあえて、有頂天になる幸せは私だって知っている。なのに、あんたもそうだからって何で私が引き下がらなきゃいけないみたいに言うの。私だって深夏を失いたくない。あの子の笑顔がいつまでも必要だ。あの子との未来があることが、今の私の毎日を息づかせているのだ。
 男でもいいなら、それはいいと思う。でも深夏はやめてほしい。深夏を先に見つけたのは私だ。私はもう、深夏以外考えられない。結婚だって意識しているほどで。あんたには深夏じゃなくてもほかにいる。女が面倒で男がよくなったというなら、一番近くに里珠だっているじゃない。
 気候は次第に陽気が濃くなってきていた。そろそろ半袖と日焼け止めを用意しなきゃなあ、と感じる日射しだ。雨が降っても、雫は冷たくなくて蒸した生温さがある。その雨で桜はさらさらと散っていって、歩道を桃色に染めた。暖められた道草からは、緑の匂いがほのかに立ちのぼってくる。
 新入社員やら異動やらで会社の中もざわめいているうち、四月から五月にまたがる連休が訪れた。私は休みになるけど、深夏は仕事だ。拓寿がいなきゃ安心して深夏の部屋に泊まりにいけるのになあ、とか思いつつ、結局は自分の部屋を掃除するくらいしかやることがない。
 実家にでも帰ろうかな、とも思っていたけど、休憩中の深夏から『明日休みもらえたから泊まりにきてー』というメッセが来たので、私はもちろんOKして、軽い手荷物と深夏の部屋に向かった。
 深夏の部屋に着いたのは夕方で、まだ帰宅していないようだったので合鍵で上がらせてもらった。
 夕食の買い物はしてきたので、勝手にキッチンを使わせてもらう。鰈をメインの煮つけにして、春キャベツはあさりと和えて蒸し、あとは空豆ごはんとわかめと豆腐の味噌汁にする。ふたりなのでそれほど大量なメニューはいらない。
 料理って気が向かないとやらないんだよな、と若干心配だったけれど、スマホでレシピを見ながら食材を調理していった。何とか失敗せずに夕食が出来上がった頃、玄関の鍵を開ける音がしてドアが開いた。
「あれ、いい匂い!」
 深夏がぱっと顔を輝かせ、私は手をすすぎながら「ごはん作ってた」と笑顔を向ける。
「わー、ありがと。はとちゃんの料理久しぶりだー」
「何か、あんまり作ってあげなくてごめん」
「ううん。たまに作ってくれるから嬉しかったりするし。早く食べたい!」
「お皿に移してあっち持ってく。荷物下ろしてきなよ」
「うんっ」
 深夏は部屋に上がって、キッチンに面する廊下を抜けると、部屋の中にバッグをおろして背伸びする。今日の深夏は、黒のシャツに紅葉のような色合いの赤いスカートを合わせている。
 かわいい、と例によって思いつつ、私は料理をお皿に盛りつけて座卓に持っていった。深夏は冷蔵庫から缶チューハイを二本持ってくる。それで乾杯をしてから、私たちは一緒に夕ごはんを始める。
「ん、おいしい。はとちゃん、けっこう料理うまいよね」
「レシピガン見して作るけどね」
「鰈のとろとろ具合が幸せ。うまー」
 そう言って食べてくれると、ありがたい。私もあさりのスープが染みこんだ春キャベツを口に運び、我ながらなかなかおいしいと思った。
 夕食を食器まで片づけたあとは、並んでベッドサイドにもたれて、テレビを観ながらまったりお酒を飲んだ。深夏は私の肩にことんと頭を乗せ、「はとちゃんとこうしてるときが一番幸せ」と長い睫毛を伏せる。私は深夏を見て、柔らかな髪に頬を当てる。
「深夏」
「んー?」
「ちょっとだけ、嫌なこと訊いていい?」
「なあに」
「拓寿、といるときも含めて、私とこうしてるときが一番?」
 深夏は目を開けて、上目遣いで私を見上げた。それから深夏は、「えー……」と思いのほか咲いつつ、困ったように少し考える。
「拓寿に後ろからぎゅーってされるのも好きかなあ」
「じゃあ、私がぎゅってしてあげる」
「男にされるから気持ちいいんだよお、あれは」
「うー……やっぱ、あいつといちゃついたりするんだ」
「いちゃつくって。まあ、僕は好きな人とはべたべたしたいから」
「デートもするの?」
「したことはあるけど、んー、デートははとちゃんとのが楽しい」
「ほんと?」
「買い物とかが楽しいのが似てるもん。男はそういうのつまんなそうだよね」
 私はいちごのチューハイを飲み、それってむしろ私が趣味友にランク下がってるのでは、と思ったけど言わなかった。
「あいつはストレートってところ、気にならないの?」
「気になるよお」
「そうなんだ」
「忘年会で話しかけられて、雰囲気とかで、あー、僕のこと好きのかなーと思ってさ。告白されたから、男ですよーって言わなきゃってときは心臓ばくばくで死ぬかと思った」
「あいつ、引かなかったんだ」
「くだらない嘘つくんじゃねえって切れられた」
「………」
「仕方ないので股間握らせたわけですが」
「……まあ、深夏は仕方ないよ」
「うん。それでやっと拓も僕の言うこと信じて、何かショックでぐらぐらしてて。男でもいいなら僕も拓が好きって言ったら、わりとさくっと落ちた」
「好きだったの?」
「とりあえず顔は好きだった」
「今は心も好きだよね」
「うん。僕の前では甘えてくれて、優しいしね」
 そう言って深夏ははにかんで微笑み、さくらんぼのチューハイに口をつける。
 深夏と拓寿のいきさつは初めて知った。踏みこんだのは拓寿からだったのか。まあ確かに深夏からだったら、いよいよ私はその二股根性に発狂していたけれど。
「拓寿と、私のこと話したりするんだよね」
「え、何で」
「こないだ会社であいつに鉢合わせて話した」
「そう、なんだ。はとちゃんの話は──そうだなあ、してるかなあ。はとちゃん省いて僕の生活語れないし」
「あいつは嫌がらないの?」
「初めは嫌そうだったけど、最近は慣れてきてる」
「ふうん。逆に拓寿のことを聞いたりはするの」
「どうかなあ。拓はおしゃべりではないしなー。あんまり聞いたことないかも」
 私は缶をかたむけ、ごくんとチューハイのいちごの柔らかな甘味を飲みこむ。
「私、拓寿は嫌いなんだけど、その親友は嫌いじゃないんだよね」
「親友? 会社の人?」
「一応会社つながりもあるけど、あいつとは中学時代から仲いいって。すごい美形と思ったら、仕事がモデルだったわ」
「え、すごい」
「でね、その子もあいつが好きなんだ」
「えっ」
「ずっと昔から好きなんだって。だから、ぶっちゃけ深夏に対してその子は切れてる」
「そお、なんだ……」
「すごくいい子なんだけどね。たまにメッセ交換して話してる」
「……僕の悪口?」
「というより、お互いを励ましてる感じ」
「励ます」
「私はその子と拓寿を応援するし。その子は私と深夏を応援してる」
「……でも」
 深夏はうつむいて、水滴の浮かぶ缶を握った。あまりイジメてはいけないと思いつつも、拓寿への嫉妬が後押しして、意地悪なことを言ってしまう。
「はとちゃんは、拓とは別れてほしいんだよね」
「そりゃ、まあね」
「ん……すごく、愛してるって思うのははとちゃんだよ。はとちゃんのおかげで、僕は幸せに生きることができてる」
「……ほんと?」
「うん。でも、拓も……そばにいてほしいんだよね。いないと不安になる人」
「………、」
「ごめんね。僕がこんなで、みんなを傷つけてるんだよね。はとちゃんも、拓も、その親友の人も。考えるんだ。このままじゃ、最後は逆にひとりになるぞって」
「……そう、だね。私もそう思う」
「はとちゃんも、やっぱり僕を離れていく?」
「離れたくないけど、好きだからそばにいられなくなるのはあるかもしれない。これでも私、にぶいと思うよ? 普通は男と二股してるなんてめちゃくちゃ責めるよ」
「そ、だよね……」
「深夏には、できればちゃんと選んでほしい。どっちも欲しい、っていうのは、やっぱり私は理解してあげられない」
 深夏はうつむき、哀しそうな伏し目でチューハイを飲んだ。私は缶を床に置いてから、深夏の長い髪を優しく撫でた。深夏は私に視線を向け、ぎゅっと目をつむって、「分かんない」と苦しそうな声で言った。
「深夏──」
「普通、僕のやってることが分かんないっていうのは、分かる。僕でも分かんないもん。一途になれたらいいけど、できない。それが僕も自分ですごく怖い。だけどずっとこうだったし、彼氏ができたら彼女、彼女ができたら彼氏を作ってた。もちろん初めはそんなつきあいかたしてなかったけど、いつからかな。女の子の前で男になるのも、男の前で女になるのも、僕には必要なんだ。どっちも僕だから」
 私は深夏の髪を梳き、それが深夏だというのなら、受け入れるのが結局彼を手に入れる要なのだろうと思った。
 嫉妬も不安も薙ぎはらって、闇雲に深夏を信じて、誰にも負けない勢いで愛すること。それができたら、私はこの黒い感情を解放され、また深夏と穏やかに過ごせるようになるのだろうか。
「深夏」
「ん……?」
「もし、いつか、別れようって言っちゃったらごめんだけど」
「はとちゃん──」
「今は深夏が好きな気持ちが強いから。私は深夏と別れない」
「……うん」
「ただ、つらくなったときは自由にさせてね」
 深夏は私を見つめて、わずかに涙を落として首を横に振った。「やだ」と深夏は私の服をつかむ。
「はとちゃんと別れるなんてやだ。それは絶対嫌だよ」
「深夏……」
「はとちゃんは、僕の大事な人なんだ」
 私は仕方なくて咲ってしまった。
 なぜだろう。なぜそこまで私を想ってくれているのに、彼には男も求めてしまう性質が備わっているのだろう。私も、拓寿も、里珠も、たくさんの人が傷ついていて、その中で深夏だって傷ついているのに。やがて孤独になるかもしれない深夏を、私はやはり放っておけないなんて甘やかしてしまう。
 今はまだ、深夏が好きだ。それでも、愛想を尽かす日が来るのだろうか。来てもおかしくないことを知ってしまった。
 私はこの子と永遠すら夢見たのに。その夢はもう溶けて、私はいつ自分が深夏にうんざりするかに怯えている。

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