分かりきった失恋
恋人がいるのは最初から分かっていたのに、何で俺は、彼を好きになってしまったのだろう。
恋人といるときのはにかんだ、でも嬉しそうなその笑顔まで好きになってしまった。「弓弦」と彼は恋人の名前を愛おしそうに呼んで、「紗月」と恋人の男も彼を優しく呼ぶ。俺はいたたまれなくて、「今日はこれで」と席を立った。
「桃李くん」と紗月さんに呼び止められて振り返ると、「ほんとにごめんね」と念を押された。俺は睫毛を伏せたものの、「分かってたんで」と無理やり咲うと、会計を済ましてその喫茶店を出た。
一月の風が、強く吹きつけてくる。家を出てもうすぐ一年で、春になったら俺は二十歳になる。空は低く曇っていて、雪でも降りそうに空気が冷え切っていた。たぶん時刻は十四時くらい、街並みに人通りはない。風の音だけが耳を裂いて、身震いして上着の中に縮む。
──分かっていた。紗月さんには弓弦さんがいて、俺なんか見るわけがないって。なのに紗月さんが好きで、抑えきれなくて、俺は今日、紗月さんに想いを告げてしまった。
紗月さんは驚いたのち、困って首をかたむけて、「僕には弓弦がいるし、桃李くんにはもっといい人がいるんじゃないかな」と言った。そういうことを言われるのは承知していた。それでも、いざ言われると、速かった心臓が杭を打たれて止まった。
弓弦さんがいながら、浮気なんてする人じゃない。それだって分かっていた。だから好きになったんだし。でも、だったら俺はどうしてほしかったんだ? 弓弦さんと別れてほしかった? 俺を好きになるなんてありえないのに。紗月さんが弓弦さん以外を選ぶ日なんて、きっと来ない。
全部よく分かっていながら、俺はどう応えてほしかったのか。分からないけど、紗月さんなら俺を傷つけないかも、なんてどこかで思っていた。傷つけないようにされることは残酷だけど、やっぱり、振られると息遣いが傷む。
紗月さんを知った切っかけは、〔こもりうた〕というこの街のペーパーだった。紗月さんはそのペーパーをひとりで作成して、発行している。天鈴町というこの街限定で募った、住人の体験談を小説化して載せているものだ。
心の傷を打ち明ける相手が見つからないけど、吐き出さないと苦しい人はここで吐き出してみないか──そんなコンセプトのペーパーで、内容は虐待、イジメ、レイプや薬物などでかなり重い。だから、まさか俺の体験が採用されるとは思わなかった。
俺は高校時代、幼馴染みの女がフィアンセ面でいくら振っても言い寄ってくるから、耐えきれずにゲイだと告白してしまった。そしたら、そいつが泣きながら親にも友達にもそれを言いふらし、偏見の目がいたたまれなくて、高校を卒業したら地元を飛び出した。そして今、仕事内容が合うというより住み込み可能だったので、ダイニングバーの厨房で料理人みたいなことをやっている。
そんなことを書き殴った紙切れを、紗月さんはしっかりと読んでくれた。会うことになったら、同い年とは思えないほど、話もすごく聞いてくれた。
嬉しかったのだ。俺の気持ちを分かってくれて、嬉しくて──俺の体験が小説化されて、〔こもりうた〕に載って、本当はお礼だけ言うつもりだった。
なのに、引きずるように「また会いに来てもいいですか」なんて聞いて。その時点で紗月さんは少し困った様子で、「小説にさせてもらってるときほど、相手はできないけど」と言った。「でも」と俺はつい続けてしまった。
「紗月さんのこと好きになったから、会うだけでも続けたいんです」
紗月さんはきょとんとまばたきをした。それから、「ええと」とぎこちなく目をそらした。
紗月さんは気の強そうな吊った目をしているのだけど、眉の描きが優しくて、普段から困ったような顔に見える。それでも、俺の言葉を受けて浮かべた表情が、顔の作りでなく本当に困っているものだとは分かった。
そして、言われた。
「僕……なんか好きになっても、桃李くんは幸せになれないよ」
「俺は紗月さんに会えたら幸せです」
「でも、僕には弓弦がいるし、桃李くんにはもっといい人がいるんじゃないかな……」
弓弦さんのことは聞いていた。初めて会ったときから、紗月さんもゲイで、恋人がいることは聞かされていた。心が不安定な人がたどりつくこの街で、弓弦さんはかなり信頼されている顔役の人であるという。「何で僕の恋人なのか分からないくらい、すごい人」と紗月さんははにかんで話していた。
実際、試しに職場で「弓弦さんって人、知ってる?」と問うてみるとチーフ以上の人は確実に知っていた。紗月さんとはいつも〈POOL〉という喫茶店で会っていたのだけど、そこで弓弦さんを見かけたこともあった。モデルのような長身の美形の男で、あ、勝てない、と思ったことで、そもそも紗月さんへの気持ちを自覚した。
「紗月」
弓弦さんの名前を出されて、どう返せばいいのか迷っていると、不意にテーブルにそんな低音の声がかかった。紗月さんははたと入口を見て、「弓弦」と安堵も混ぜて微笑んだ。俺はぎくりと固まり、そんな俺を一瞥してから弓弦さんは紗月さんの髪を撫でて、「紗月」ともう一度愛おしそうに名前を呼んだ。
針金が食いこむように喉が絞めつけられた。苦しい。無理だ。ふたりを見れない。見たくない。だから俺は席を立ち、紗月さんには「ごめんね」と言われ、店を出て──泣きそうになりながら寒空の下を歩いている。
勝てるかよ。別に、ルックスだけじゃなくて。お互いを見つめる紗月さんと弓弦さんの瞳で分かる。あんなに相手を愛おしむ恋人同士を、俺は見たことがない。邪魔なんかできないし、してはいけない。
なのに、何で俺の気持ちはさくっと死なないのだろう。弓弦さんの存在感が圧倒的過ぎて、悔しいとかは思わない。ただ、紗月さんにこんな気持ちを芽生えさせた自分がひたすらみじめだった。
【第二章へ】
