憧れた人のように-4

引きずる心

 仕事中心の毎日に戻った中、ときどきケータイに美束からメール着信がつくようになった。
 関係を誘ってくるわけではなく、ただ単に、弓弦さんへの気持ちを誰にも言えないのか俺に愚痴ってくる。俺はおとなしく返信したりして、まもなく電話番号も交換するといろいろ話した。「紗月さんにずっと会ってないや」とつぶやくと、『会いにいくだけならいいんじゃないの』と言われた。そうなのだろうか。でも、もう振られたのに。それを『別にいいじゃん、俺は相変わらず、弓弦に逢えたらあんなだし』と美束に楽観的に言われ、やってきたオフの日、俺は思い切ってあの喫茶店に行ってみることにした。
 風がなく、真冬にしては少し暖かい日だった。紗月さんは基本的に日中しか喫茶店にいないので、昼過ぎくらいにおもむいてみた。通りに面した明るいショウウィンドウが見えてくると、足元がぬかるんだみたいににぶくなる。
 俺なんか、やはり迷惑なのではないか──そんな不安が全身の血管に巡る。ガラス張りの店の前に出ると、中から俺のすがたに気づかれてしまうかもしれない。だから、ガラスの一歩手前から店の中を覗いてみた。
 紗月さんは誰かと相席して、談笑していた。〔こもりうた〕の相手──にしては、その表情はほぐれていて、友達かな、と思う。相席の相手はこちらには背中しか見えないのだが、弓弦さんではなさそうだ。紗月さんは俺なんかに気づくことなく、その相手と咲っている。俺にはあんなふうに親しく咲わないなあ、と何だか胸に切り傷が走り、俺は気づかれる前にその場を逃げ出してしまった。
 そんなのを何度かやっていると、『ストーカーかよ』と美束に電話口で言われて、「俺もそう思う」なんてうじうじと答えた。『別にやましいことないだろ』と言われ、「振られてるのがやましい」と俺は寒いのでふとんにもぐって返す。美束はあきれたため息をつき、『そんななら、もう行かないほうがいいかもね』と言われた。しかし俺が小さな声で「うん」とか肯定すると、『そこは「会いたい」って言えよっ』としかられた。
「美束は、弓弦さんとどうなんだよ」
『思いっきり振られてるけど』
「あきらめないんだな」
『あきらめたら失恋になるからね』
「もう失恋してる──」
『こっちがあきらめない限り、失恋ではない』
「……美束は強いよな」
『ずうずうしいですね、はいはい』
「弓弦さんに嫌われたらって考えない?」
『好かれてもないのに、嫌われる心配してもなー』
「……そう、だよな。どうせ好かれてないんだよな」
『そうだよ。嫌われたらどうしようなんて、すでに振られてんならうぬぼれなんだよ』
「けど、そしたら、俺が現れたら確実に紗月さんは不愉快じゃん」
『俺は、弓弦に不愉快に思われても食らいついてる』
「弓弦さんが、ほんとに浮気してくれると思ってる?」
『分かんない。ただ、弓弦って昔はすごかったからさ』
「すごかった」
『紗月ちゃんに出逢う前は、あいつは男も女もたらすような奴だったんだよ』
「……マジで」
『だから、弓弦の気持ちが紗月ちゃんから離れたら、少しは望みある』
「気持ち離れるかな」
『そこがむずかしいところですね。べた惚れしてるしね』
「紗月さんも弓弦さんにべた惚れだよなあ」
『っとに、忌ま忌ましいほど仲良しなんだよなあ、あのふたりは』
 俺は弓弦さんを見つめる紗月さんの瞳と、紗月さんを見つめる弓弦さんの瞳を思い返し、「うん」とまた小さな声でうなずいた。『まあ、ストーカーするより会ったほうがマシだと思う』と美束は言って、「そうなのかなあ」と俺はふとんの中で縮んだ。
『桃李は声かけてくる相手と、黙って陰から見てくる相手、どっちが怖いよ?』
 そう問われて、そう言われると確かに陰から見てくるだけの相手のほうが気味が悪いなと思う。「じゃあ次は店には入ってみる」と言うと、『頑張れ』と美束は応援してくれた。
 次の日、シフトが夜だったので、俺は美束の励ましが心から薄れない午前中に喫茶店に向かった。ガラスに面した店の前に出ることに、やはり躊躇ってしまう。
 紗月さんにうざいと思われるのが、どうしても怖い。でも、このまま他人になるのだって本当は怖い。同じ恐怖なら、自分の感情に素直になったっていいではないか。紗月さんを避けるのは、紗月さんに「鬱陶しい」とぐさっと言われてからでもいい──
 俺は深呼吸して、ショウウィンドウの前に踏み出した。店内をちらりと見ると、紗月さんはひとりで本を読んでいる。それを見つめて、かわいいなあ、と心が苦しくなる。美束もかわいいのだけど、やっぱりタイプが違う。紗月さんはもっと淑やかで、ひかえめで、柔らかい──
 そのとき、ふと紗月さんが本から顔を上げた。やばい、と思ったものの、駆け足で逃げていくのもおかしい。カップを持ち上げた紗月さんの視線が通りに投げかけられ、俺を見つけると、その目が開かれた。やっぱ無理、と俺はきびすを返して、駆けていこうとした。けれど、ダッシュをかける寸前に、「桃李くん!」と背中に声がかかって、どきんとして立ち止まってしまう。
 駆け足が追いついてきて、「桃李くん」ともう一度呼ばれて、バカみたいにどきどきしてきて、俺は振り返る。紗月さんがすぐ後ろにいて、俺を見上げてきている。
「紗月さん──」
「何か、久しぶりだね。ここに来たの?」
「え……と、まあ、……たぶん」
「入っていかないの」
「……紗月さんが、俺とかいたら迷惑かなって」
「そんなことないよ。気になってたし」
 俺は紗月さんを見て、紗月さんは弱く微笑んだ。……相変わらず、困っている表情だ。
「ごめんね」
「えっ」
「あのとき。僕も冷たいことしか言えなくて」
「い、いえ。ああ言われて、当たり前でしたし」
「僕、誰かに好きとか言われるのあんまりなくて。弓弦だけだったから」
「………、きっと、俺以外にもいますよ」
「そうなのかな。それは、分からないけど……」
 紗月さんはうつむいて、きゅっとこぶしを握る。寒いのかな、と思っても、俺はその手をつかめないし、上着を貸すのもおこがましい。紗月さんは息を吐いてから、再び俺を見上げた。
「少し、中で話していく?」
「え……」
「話なら、できるから」
 俺は視線を足元に落とし、唇を噛んだ。話だけでも、できるのなら、したいけど。俺はきっと、それだけでは切なくて、苦しくて、また紗月さんに気持ちを押しつけてしまう。
「いえ、……いいです」
「……でも、僕もちゃんと言わないと──」
「大丈夫です、分かってますから」
「桃李くん──」
「すみません、俺、……ほんとにすみませんっ」
 俺は急に身をひるがえすと、その場から走り出して、逃げてしまった。どんどん道を突っ切りながら、視界がぼやけて頬に伝っていくのが分かった。
 角を曲がると、息を切らしながらやっと足を止め、しゃがみこんでしまう。心臓が激しく動いてちぎれそうだ。吐く息が震えて、涙がぽたぽたと落ちていく。
 何がこんなに哀しいのか、よく分からない。いや、よく分かっていたはずなのに、まだ涙が出ることが理解できない。紗月さんが、弓弦さん以外ありえないことなんて、承知しているのに。どうして俺は、しつこいまでに紗月さんを想ってしまうのだろう。
 俺の話を聞いてくれて。俺の気持ちを分かってくれて。仕方ないじゃないか。そんな人、俺には初めてだったんだ。もちろん紗月さんは深入りさせるような態度はいっさい取らなかった。俺が勝手にのめりこんでしまったのだ。
 俺はケータイを取り出し、美束の番号を呼び出した。通話ボタンを押すと耳に当てる。コールが長引いて、男娼は午前中は寝てるよな、とあきらめかけたとき、コールが切れて『はあい……』と寝ぼけた声が聞こえた。
「あ……美束。俺」
『………、俺……とは』
「桃李だけど」
『あー、桃李か……。寝てたわ。熟睡だったわ』
「ごめん」
『うん……。何、どうしたの』
「………、今から会える?」
『は……? いや、寝てたんだけど』
「紗月さんに会ったんだ」
『はあ……ああ、ストーカーやめたのか』
「でも、うまく話せなくて。ダメだった」
『そっかあ……そんなもんだよなあ』
「美束、抱きたくなったら連絡くれって言ってたじゃん」
『えー、言ったっけ?』
「………、電話、迷惑だった?」
『いや……違う、ただ眠い。えと、何だ、俺とやりたいって話?』
「やっぱいいや。ごめん」
『違うって。会えるよ。悪い、目え覚めてきた。そういや言った気もしてきた。俺も桃李を弓弦と思っていいって奴だよな』
「……うん」
『いいよ、分かった。ただ、夕方から仕事あるから、ゆっくりできないけど』
「俺も夜は仕事だから同じ」
『っそ。じゃあ、どこで会う?』
「どこが分かりやすいかな」
『そりゃ〈POOL〉だろうけど、紗月ちゃんがいるの、どうせそこだろ。そうだなー、どうせだからこないだ泊まったモーテルの前でいいんじゃね』
「ん、分かった。目印とかあったっけ」
『似たようなモーテルばっかだからなー。分かんなかったら、また電話入れて。俺は職場みたいなもんだから分かるし』
「了解。あの、美束」
『ん?』
「ありがとう」
 美束は一瞬言葉を止めたものの、『気持ちは分かるから気にすんな』といつになく穏やかな口調で言い、電話を切った。俺もケータイをおろして、いつのまにか涙が止まっていることに気づいた。何気に美束にも支えてもらってんのかな、と思いながら俺は立ち上がり、腫れた目をこすると、美束との待ち合わせ場所に急いだ。

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