もう逃げない
焼きつける暑さがようやくやわらいだかと思ったら、秋は短く、一気に冷たい風が肌を切るようになった。
ぎゅうぎゅうの満員電車から、そんな寒い朝に吐き出され、衣替えで冬服に染まったざわめく通学路を抜けていく。あくび混じりに学校に到着すると、靴箱で上履きに履き替えながら、あちこちから「おはよー」という声を聞く。
予鈴前に教室に入ると、自分の席にかばんをおろして真悟の席を見た。空席だ。またアフターとかいう奴でサボりか、と椅子に腰かけると、俺はケータイを取り出して真悟のメアドを呼び出した。
『今日休み?
出席やばいんじゃね?』
そんなメールを送り、適当にお気に入りに入れているサイトを巡っていると、メールの着信がついた。
真悟だ。
『今校門』
校門。朝から登校なんてめずらしいな、と思いつつ、もう返事はしないでおくと、しばらくして、ふとあの香水の匂いがした。
首を捻じると、真悟が俺の背後を取っている。
「はよ」
眠たそうな真悟は何も答えず、自分の席に向かった。俺はケータイは手にしたまま真悟を追いかける。
「またアフター」
「いや。確かに出席日数やばいんで、しばらくアフターはなしってチーフに話した」
「にしては、眠そうだな」
「………、昨日の夜は渚樹といたから。つーか、朝まで」
俺は真悟の横顔を見た。
真悟はかばんをつくえの横のフックにかけると、どさっと椅子に腰かける。俺が思わずにやにやしていると、「何だよ」と真悟はうざったそうに睨めつけてくる。
「渚樹とうまくいってんだな」
「別に。普通だろ」
「朝まで何やってんたんですかー」
「っせえな。お前こそ、あの変人とどうなったんだよ」
「今日は放課後会うことにしてる」
「っとに、よくあんなのに惚れるよな」
「かわいいじゃん」
「顔だけだろ」
「中身もなかなか健気ですよ」
つきあっていられないと思ったのか、真悟はかばんからケータイを取り出し、着信イルミネーションがまたたいているそれをいじりはじめる。「渚樹?」と訊くと、「校門で別れたのに、もうメール来てたらヒく」と返された。
「渚樹は、お前がホストなんかやってんの複雑だろうなー」
クラスメイトに聞こえないよう抑えた声でつぶやくと、真悟は俺をちらりとしたが、やっぱり無言でケータイに向き直った。
真悟と渚樹が秘かにつきあいはじめて、一週間ほどになる。当初、真悟は犬が近づいてくる猫のように渚樹を警戒していたが、「友達からで」とか何とか迫られて共に過ごし、徐々に心を許していった。並んで歩く、手をつなぐ、唇だけのキス。そのあいだは、純情すぎて聞いているこちらが赤面しそうに焦れったく甘酸っぱかった。そんな期間を経て、ついに真悟が折れてつきあいが始まった。今のところ、第三者でふたりのことを知っているのは俺ひとりだ。
俺としては、真悟が自分の性質に向き合ったのは、単純に嬉しかった。愛することのない女をもてなしたりつきあったり、真悟のことは、そんなふうに現実逃避していることだけが引っかかっていた。渚樹のおかげで、ようやく真悟は現実世界に踏みこんだのだ。
俺に揶揄われるとむすっとしているが、渚樹の前ではだいぶ穏やかな表情をするようになった。
予鈴が鳴って、「もっといちゃいちゃしてやれよ」と言ってまた真悟に睨まれながら、俺は自分の席に戻った。もっといちゃいちゃ──それは、俺にもあてはまることかもしれない。
恵里と別れて七梨とつきあいはじめ、俺たちはひと月になる。でも、七梨とはまだ寝てないし、キスも俺のほうから髪やこめかみにするくらいだ。手ぐらいさすがにつなげるようになったが、七梨はなかなか慣れない様子だ。
しかし、だいぶしゃべってくれるようにはなった。初めはぽつりぽつりとだったが、父親が独裁的なこと、母親が服従してかばってくれないことを語ってくれた。
「私さえいなければ」
行きつけになったファミレスで、七梨はドリアが冷めるようかきまぜながらつぶやいた。
「おとうさんとおかあさんは離婚できた。おかあさんにはそう言われる」
七梨の長い睫毛が震えていた。俺は手を伸ばして七梨の頭を撫でてやり、すると彼女は余計泣きそうになった。
「もう、ほんとに死にたいの。消えてなくなりたい。なのに、何でちゃんと動脈まで切れないのかな」
「最近、またした?」
「………、透望くんがつらいかなって」
「してないの?」
「すごく、切りたくて頭が変になりそうだけど」
「そっか……。ありがとう」
七梨の大きな瞳が、水面になって揺れている。「いいんだよ」と俺は手を引いた。
「切らなくていいんだよ。何かあれば、俺に話すことで吐き出してよ」
「むずかしい……」
「できるよ。できるように、もっと俺のこと好きになって」
七梨は俺を見て、目をこするとうなずいた。
そんなふうに、七梨もリストカットという現実逃避を断ち切ろうとしてくれている。
七梨はいつも長袖だったが、俺が痕を見ていいかを問うと、そっと袖口をめくった。七梨の左手首は、もう肌色を失い、赤黒く変色したケロイドになっていた。何本も引きつった線がある。俺はそっとその傷に触れてみて、すると、感電のように自分の手首までずきっとした気がした。
俺はそっと袖を戻してやると、「俺は七梨ちゃんと出逢えてよかったよ」と言った。七梨は俺をじっと見つめた。そののち、こくんとして「私も透望くんみたいな人に出逢えてよかった」と言ってくれた。
恵里とは、男も女も関係ないさばさばした友人になりつつある。メアドの登録を消す前に、『今から登録消すけどいい?』と確認すると、『友達でもいたくないならどうぞ』とか返ってきて、何だか消しづらくなっているうちに、偶然学校で遭遇した。
また渚樹のこと愚痴られるのかな、と正直うんざりしたが、恵里はそんな話はいっさい出さずに接してきた。吹っ切れたのか何なのかは謎だが、ひとまず恵里の重たい甘えは俺の前から消え去ったわけで、逢えば立ち話くらいするようになっていた。
俺の周りは、甘ったるいめまいにぐるぐると捕らわれている人ばかりだった。そんな人たちが、ゆっくりと現実逃避から身を引き、真っ当に生きようとしている。
真悟も、七梨も、恵里も──そんな人たちの中で、俺自身、もっと自分に素直になってみようと思えている。
もっとリアルに生きていこう。いつまでも終わらない渦巻きはおしまいだ。
顔を上げて前を見て、毎日甘いばかりじゃなくても、俺も奴らのようにまっすぐ未来を歩いていく。
FIN
