闇にうつろう【2】
幼い頃、同じアパートで似たような家庭環境で、俺と花衣はよく一緒に過ごした。ふたりで少ないお菓子を分け合って食べていた。ひとつのふとんで手をつないで眠っていた。けれど、そういえば花衣は家に親が帰ってくると、急いで自分も帰宅していた。
それは、おとなしく家にいないと怒られるのだと俺は思ったし、次の日に殴られた痕があるのは、俺の家に抜け出していたのがばれて怒られたのだと思った。思わず俺が「ごめんな」と言うと、花衣は不思議そうにしていて、それさえ花衣が俺のせいにしない優しさだと思っていた。そうじゃなくて、花衣は親に会いたくて帰り、構ってほしくて殴られ、だから俺が謝るのも意味が分からなかったのだ。似たような家庭環境だったけど、それの受け取り方は俺と花衣では大きく違っていた。
その日も生徒に教えるところを予習して、昼から夕方まで家庭教師に身を入れる。勉強前、部屋を出て一緒に食事を取ることも引きこもりっぽい子には必要だということで、親御さんの厚意もあって昼飯をもらえてしまうのは助かる。
今日の生徒は夏から見ている中学一年生の女の子で、たぶん二学期も学校に行かされていたら死んでいたと話す。手首の赤い線は、この頃目視でも少なくなってきた。俺が大学に合格したら家庭教師を辞めるのかと心配しているのもこの子だ。
勉強は比較的するすると飲みこんでいくから、俺の中では、高校から再出発できるようにサポートしている。「高校には通信制とかもあるからな」と俺が資料を見せると、初めは興味が薄かったものの、最近は自分でPCで行けそうな高校を調べたりしているようだ。
夕方にその子に見送られて家をあとにすると、いったん帰宅して荷物を揃え、予備校に向かう。二十二時まで授業を受けて、外に出ると街には寒空にネオンが灯り、冷えると思ったときには雪が降ったりする。
電車に揺られて地元に向かいながら、小冬に『家に着いたら通話かけていい?』とメッセを送っておく。コンビニでおでんを買って、部屋にたどりつくのは二十三時をまわっている。冷えないうちにたまごと大根と厚揚げを数分で食べる。それからスマホを見ると、『待ってる。』という小冬の返信が来ていた。
ふとんを出して、それに包まることで防寒すると、俺は小冬のトークルームから通話をかけた。コールはすぐに途切れて、『もしもし』と小冬のハスキーな声が耳元に響く。「俺だけど」と言うと、『うん』と小冬は答える。
「いそがしかった?」
『あとは寝るだけ』
「そっか」
『玲乃は今日もバイトと予備校?』
「まあな。このサイクルに慣れてきた」
『けっこう無理してるサイクルだよね』
「そうでもないけど。やりたくないことはやってないし」
『そう。ならいいんだけど』
俺はふとんの中にさらにもぐりこみ、「怒ってる?」と急に訊いてみた。小冬はとっさに何も言わない。
「その──イヴから、会えてないから。あの日、花衣のことに巻きこんだの悪かったなって」
『私が帰ったあと、本当に元彼さんが来たんでしょう? じゃあ、かくまっておいてよかったんじゃない?』
「そうだけど。小冬は、あんまり楽しくなかったかなって」
『……別に、平気。玲乃には、花衣さんも大事な人なんだし』
「じゃあ、また俺に会ってくれる?」
『入試で大変なんじゃない?』
「彼女と会う時間くらい作るよ」
小冬は少し黙って、『彼女』とつぶやく。それから吐息が聞こえて、『うん』とやや声に色味を出す。
『玲乃の邪魔にならないなら会いたい』
「邪魔なんかなるかよ。じゃあ、今週末デートしようか」
『どこか行くの?』
「んー……。あ、かなり遅いけど、初詣行きますか」
『そっか。お昼くらいに待ち合わせる?』
「おう。小冬の最寄り駅まで迎えにいくわ。土曜日でいい?」
『楽しみにしてる』
「ありがと。あと──……いや、何でもないわ。じゃあ、土曜日にな」
『うん。おやすみ』
「おやすみ。あったかくして寝ろよ」
小冬は少し咲って『うん』と答えると、通話を切った。俺もスマホを床に投げ、充電つながねえと、と思いつつ天井を見つめてぼんやりする。
ありがと。あと、ごめん──と言いそうになったのだけど、何が「ごめん」なのか自分でもよく分からなかった。
そんなわけで、週末は小冬に会った。ちょっと天気の具合は悪かったけど、降るとしても雨じゃなくて雪だろう。今日も小冬の服装は黒だけど、ぼってりしていない、すらりとした体型なのでシックにまとまっている。
電車でおもむいた一番近い神社は、屋台ももう引き上げていて、ぜんぜん混んでいなかった。お年寄りがのんびり散歩したり、犬を連れた子供が横切っていったりしている。
俺の初詣はいつもご縁の五円だ。「それでいいご縁があったことあるの?」と小冬に訊かれて、「去年小冬に会えたことだな」と答えると、小冬は小さく微笑んでいた。
参拝を終えると、おみくじを引いた。俺は末吉、小冬は吉だった。順番が分からなくて、スマホで調べると俺は下から三番目でなかなか微妙だった。小冬の「吉」はちょうど真ん中だ。「そんなに気にすることないよ」と小冬は神木におみくじを結わえ、俺もそうした。
初詣のあとは、ゆっくり見たことのない街並みを手をつないで歩いた。小冬は黒のベロアの手ぶくろをつけていたけど、俺の手と一緒にオーバーのポケットに突っこむ。
たまに店に入って、小物を眺める小冬を眺める。さりげなく値札を見て、高いな、と思って「何か欲しい?」とかっこよく言えない。結局は冷やかしで店を出て、「そろそろ降るかなあ」なんて灰色の空を見上げて心配した。
帰路についたのは十七時過ぎで、電車に乗っているあいだに本当に雪が降り出した。俺より小冬の最寄りに先に到着する。「次だね」と案内板を見て言った小冬に、「俺の部屋には来ない?」と問うてみた。小冬は俺を見上げて、あやふやに首をかたむけると、「遅くなれないから」と言う。
混んだ電車に任せて小冬を抱きしめてみると、小冬は身じろいで抵抗し、「してくれなくていいよ」なんてうつむいた。してくれなくていい、って。俺はしたいと思っているのに? 小冬だって、どこかの男とはやってるんだろ? 何でいつも、俺はダメなのだろう。
最寄り駅に到着して、「じゃあ」と小冬は逃げるように、目も合わせずに電車を降りていった。俺は吹雪いてくる景色を見つめ、心の中で舌打ちすると、閉まったドアにもたれかかった。
家に着いたとき、十九時にもなっていなかったので何となく花衣の部屋を訪ねてみた。花衣は家で課題をやっていて、雪をかぶって白くなった俺にまじろぐ。「何かあったの」とすぐに察する花衣に、「晩飯、一緒に食わね?」と俺はふてくされた面持ちのまま言った。花衣は怪訝そうでもうなずいてくれて、俺を部屋に招き入れてくれた。
花衣はそばに電気ストーブを置いて、リビングの座卓に勉強道具を広げていた。「材料あるなら俺作るよ」と言うと、「材料はあんまり入ってないけど、冷凍食品ならあるかな」と花衣は首をかたむけた。「じゃあ適当に調理するわ」と俺はオーバーを脱いで髪に降り積もった雪も玄関で落とすと、キッチンに向かった。
冷蔵庫を見ると多少たまごや野菜はあったものの、それで気のきいた料理は作れそうになかったので、冷凍庫を開けた。パスタやらグラタンやら、こちらはいろいろある。ふたりぶんまかなえそうなもので、高菜ピラフのふくろがあったので、それを炒めることにした。
俺同様、花衣も副菜とかごちゃごちゃいらないのは、知っているので楽だ。フライパンに油を引いて、凍りついた高菜ピラフを溶かしつつ炒めていく。菜箸でかきまぜるといい音がして、香ばしさもただよってくる。
勉強道具を片づけた花衣は、俺がピラフを皿に盛りつけている隣でお茶を淹れてくれた。それから、リビングに移動して「いただきます」とふたりで質素な晩飯を取りはじめる。
しばらくお互い無言でスプーンにピラフをすくって口に運んでいたけれど、不意に花衣が「どこか出かけてたの?」と訊いてきた。
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