傷のち蜜【3】
晃音と交わって、私も絶頂まで迎えることは少ない。気持ちよくはなるけれど、そんなにうまく最後まで結びつかない。もちろん、晃音にそれは言わなくても。どちらかといえば、晃音を想って自分でするほうがちゃんと最後まで真っ白にさらわれる。
晃音は自身を引き抜くと、いつのまにかつけていたコンドームを剥がしてゴミ箱に投げる。そして、食べ終わったグラタンのお皿があるままのテーブルに頬杖をついて、煙草を吸いはじめる。私も起き上がり、乱れた服を直した。
「そういえば」と晃音は煙たい息をついて、こちらに目をくれてくる。
「金持ってきた?」
「あ、うん。三万円でよかったかな」
「いいよ。貸して」
貸して、といつも言われるけど、返ってきたことはない。「ちょうだい」がそういう言い方なのだと思っている。
私はバッグから財布を取り出し、晃音に三万円を渡した。晃音はそれを自分の財布に入れると、「ちょっと出かけてくる」と立ち上がった。
「えっ。……と、」
じゃあ、私は帰るのかな。待っておくのかな。訊きたいけれど、何となく晃音はその質問を受けつけず、まだ雨が降っている外に傘をさして出かけてしまった。
取り残された私は、ひとまず昼食のお皿を洗って、壁にもたれてぼんやりテレビを眺めた。雨音が虚しい。エアコンの除湿がひんやりする。たぶんスロットだろうなあ、とそれは分かっている。私とのセックス、あんまり良くなかったのかな。気晴らしに行くほど、つまらなかったのかな。あるいは、スロットのお金をもらう義理で抱いてくれただけなのかも。
膝を抱えて顔を伏せ、終電までは待とう、と思った。朝までは待てない。明日も大学がある。合鍵の場所は知っている。いや、晃音だって明日は出社のはずだし、終電までには帰ってくるはず──
しかし、二十三時半をまわっても晃音は帰ってこなかった。雨は上がって、隣の部屋の物音がぼんやり転がってくる。私はスマホで時刻を確認した。“23:41”。
晃音の部屋に掛け時計はない。秒針が追いかける足音に聞こえてくる悪夢を見てしまうのだそうだ。
晃音がいれば、泊まって大学に遅刻してもいいと思っていたけれど。ひと晩じゅう放置されるのは、やっぱりつらい。私はゆっくり立ち上がり、荷物をまとめると、テレビが載っているローボードの引き出しにある合鍵を借りて、晃音の部屋をあとにした。
合鍵は自分で持っておこうかとも思ったけれど、考え直してドアポストに入れた。勝手に持ち出されたあいだのことを、晃音なら心配するだろう。鍵がかしゃんとドアポストに入った音を確かめて、まだ曇って月は出ていない、暗く湿った空気の中を駅まで歩いた。
濡れた道草の匂いが澄んでいて、昼間はあんなに暑くなってきたのに夜は肌寒い。住宅街は静まり返っていたけれど、駅前はまだほのかに明かりが残っていた。駅構内を進みながら、晃音とすれちがわないかなと期待していたものの、そんな偶然は起こらなかった。時刻は零時をまわっていて、私は終電に乗った。
かたんことんと揺れる電車の中で、バッグを抱きしめてぐちゃぐちゃと考えた。考えるほど、不安が恐怖になってきた。
ほんとに勝手に帰ってよかったのかな。待っていたほうがよかったんじゃない? 晃音は私が待っていると思って帰ってくると思う。なのに待たずに帰っていたら、壊れてしまうかもしれない。裏切る私のことなんて、捨てようとか考えたら? ああ、せめて合鍵は持ってくるんだった。そうしたら、もう一度会える口実にはなっていたのに。今からでも電車を降りて戻ったほうがいい? タクシーでも捕まえれば、行けないわけじゃない。どうしよう。どうしよう。晃音に嫌われたくない。捨てられたくない。別れたくない。
そう思っているのに、座席を立ち上がって行動することはできず、そのまま家の最寄り駅に着いていた。
足元が頼りなくふらふらする。人にぶつかりかけながら電車を降り、ホームを出ると改札を抜けた。泣きそうだけど、何だか故障して、涙もうまく出てこない。のろのろと冷たい夜道を歩いていると、「花衣?」と声がしてはっと振り返った。
そこにいたのは、ショルダーバッグを斜めがけにした玲乃だった。
「玲乃……」
「やっぱ花衣──って、何だよ、真っ青じゃね? 街燈のせい?」
玲乃は街燈のかたわらにいる私に駆け寄ってきて、目を凝らして覗きこんでくる。思わず身を引いて、視線をそらしてしまう。
「泣いてる?」
「……泣いてないよ」
「じゃ、泣きそう?」
本当に、もう、幼なじみのこういう鋭いところって嫌だ。私は顔をそむけて歩き出した。すると玲乃は隣に並んで、「彼氏と何かあったのか」と肩を小突いてくる。
「別に。玲乃はこんな時間に何してるの」
「普通に予備校帰りだろ」
「……ちゃんと勉強してたんだ」
「昼はバイトで夜は予備校」
「初めて知った」
「言ってねえしな」
「何のバイト?」
「不登校とかしてる中学生の家庭教師」
「……そっか」
「花衣はバイトとかしてんの?」
「私は──」
水商売、なんて言ったら玲乃はまたうるさいかも。そう思って、「何も」とだけ答えた。「そうか」と玲乃はひとつあくびをする。
「俺んちは、親がもうほとんど金も入れなくてさ。どうしようもないわ」
「そうなんだ」
「二十歳になるし、出ていけっていう無言の圧かな」
「出ていくの?」
「そうだなあ、失恋でもしたら」
「失恋」
「同じカテキョのバイトやってる子」
「つきあってるの?」
「まあな」
「じゃあ、私より彼女に構いなよ」
「花衣は花衣で、ほっとけないんだよ」
「何それ」
「分かるだろうが。何で彼氏がDV野郎なんだよ。せめて、もっと幸せな──」
私と玲乃が暮らすアパートが近づいてきていた。突然、ばんっという音がして、私たちは立ち止まってそちらに顔を向けた。
車のヘッドライトが前方に灯っていて、動き出してすれちがっていったのは、タクシーだった。そして、タクシーを降りた人影がどんどん近づいてくる。
私は目を開き、無意識に玲乃の服を引っ張った。
「逃げて」
「は?」
「玲乃は関係ないから」
「いや、何かこっち来る奴──」
「早くっ」
肩を怒らせてこちらに迫ってくるのは、晃音だった。各停電車でゆっくり運ばれているうちに、タクシーで先まわりされていたのはすぐに分かった。
私は引っ張っていた玲乃の服を、なるべく突き飛ばすように放し、「晃音、」と彼に駆け寄る。私が目の前に来た途端、晃音は振り上げた手で、ばしっと私の頬を引っぱたいてきた。
「何で待ってなかったんだっ」
「ご……ごめんなさい、終電だったから、」
はたかれた頬がなかば痺れながら痛んで、うまくろれつがまわらない。
「その男といたのか」
「あ、あの人はただの友達で。家が近いから、帰り道、一緒になっただけで」
「俺の部屋で待ってたら、そいつと帰ることにもならなかっただろっ」
「そ、そうだよね。ごめんね。でも、」
ひとりぼっちで朝まで待つかもしれないのは寂しくて。そう言いたくても、その前に晃音は私をアパートへと引っ張っていく。玲乃を一瞥すると、茫然と突っ立っていて、さいわい首を突っこんでくる余裕はなさそうだった。
晃音は私の家の前に来ると、「開けろっ」と部屋のドアを蹴った。私は急いで鍵を取り出し、さしこんでまわす。晃音はドアを乱暴に開けると、私の背中を強く押して玄関につまずかせた。ついで鍵をかけ、自分も土足で家の中に踏みこむと、私の髪をつかんで床を引きずっていく。
今日も家には誰もいない。暗いままのリビングで、晃音は私に馬乗りになると、つかんだ胸倉を揺すぶって後頭部を床に打ちつけた。ぐらぐらと脳内が錯綜していく。何度も頬や顎を殴り、それから立ち上がった晃音は、私のお腹や腰をしたたかに蹴りつけた。全身が一気にずきずきと腫れあがっていく。
暗がりの中でも、晃音の目が違うのが見える。私は抵抗せずに、晃音の暴雨を受け入れた。晃音は過呼吸のように息を切らしていて、ふと腰のベルトを抜くと、それで私の両手を後ろ手に縛った。
そして私を膝立ちにさせると、下着から取り出した勃起を口に押しこんできた。一気に喉まで突っこまれてえずいてしまっても、つかまれた頭を容赦なく揺すられ、私は何とか舌を使おうとする。でも咳きこむばかりで、どうしても口からそれをこぼしてしまい、それがまた晃音をいらいらさせる。
晃音は私の背中にまわると、スカートをたくし上げて下着をむしりとり、後ろから犯してきた。濡れていなかった体内にこすりつけられて、どうしても痛みにうめきがもれる。せめて濡れて、と思っても、痛みだけで乾燥したままだ。晃音は構わずに腰を使い、やがて軆の中に吐き出してぐったり私の背中につぶれてきた。
こじあけられ、こすられた軆の中が痛い。中に出されたけど、今日、大丈夫だった? 考えようとするけど、後頭部の鈍痛がまともな思考を邪魔する。
不意に晃音が私の肩に顔を伏せてきた。壊れそうに息を震わせ、低く声を殺して泣き出す。「晃音」と私が呼びかけると、晃音は私を抱き起こして背中からぎゅっと抱きしめた。どろりと内腿に精液が垂れる。肩に晃音の涙が伝っていく。
「花衣は……俺のものなんだ」
私は晃音の頭を撫でようとしたけれど、縛られているから動きが取れない。
「花衣しか、俺を愛してくれないんだよ」
……分かってる。分かってるよ。だから私は晃音をひとりにしたりしないよ。そばにいるよ。私は息遣いを引き攣らせながらも、そんなことをかろうじてささやく。
晃音がベルトの拘束をほどいてくれて、私は彼と向かい合って優しく胸に抱きしめた。晃音は私の胸にすがって謝り、私への愛を滔々と訴える。私は晃音の茶色の髪をさすり、「大丈夫だよ」と言う。
「私は、晃音のこと大好きだよ」
晃音は私の胸に涙痕を広げながら、ぎゅうっとしがみついてくる。みんな晃音と別れろって言うけれど。こんな彼を突き放すなんて、私にはやっぱりできないよ。
殴られて蹴られて、軆は痛い。でも、その痛みを通して私の心は蜜を感じている。依存だと言われても、私はその蜜の味を断ち切ることができない。
いつのまにか、閉め切ったカーテンの向こうがうっすら蒼くなりはじめている。そんなふうに、私と晃音の関係に黎明が訪れることはないのかもしれなくても。
それでもいい。朝なんて来なくていい。私はこの人の病んだ愛に溺れていたい。
私は夜明けから守るように晃音を抱きしめた。そんな私に晃音も抱きついて閉じこもる。傷ついた闇でふたり、お互いの温かい蜜を舐めあう。
この人と愛し合っていることが、今、私を生かしてくれている。だから私は、誰にも理解されなくても、彼を置き去りにしたりしない。そんなこと、絶対にできないの。
【第四章へ】
