ルナティックアイズ【2】
翌朝、最寄り駅から大学への道を歩いていると、歩道の前方に肩までの黒髪と桃色のカーディガンの細い女の子が目に入った。たぶん花衣だ、と思って、僕は駆け寄って背後から肩をたたいた。するとその子はびくっと肩を震わせ、僕を振り向いた。
やっぱり花衣だったけど、僕も目を開いてしまう。彼女の左目が眼帯に覆われていたから。
「あ、何だ。聖緒か」
そう言って、花衣はほっと息をついているけれど、僕は言葉に迷ってしまう。「おはよう」と言われて同じ言葉を返しつつ、花衣への視線にいつもの懸念が混じってしまう。
「花衣、それ……」
「うん?」
「眼帯、してるけど──」
「ああ」と花衣は眼帯に触れ、何とも言えない苦笑をこぼす。
「目の周りは、さすがに化粧で隠せなくて」
「痣ができてるの? 目を殴られたの?」
急き立てるように問うた僕に、「聖緒、落ち着いてよ」と花衣はなだめるように言う。
「大丈夫だから。心配しないで」
「目って、そんな……失明とかしたら洒落にならないのに、」
「大丈夫。失明なんてしなかったんだから、結局」
「花衣、やっぱり彼氏とは別れたほうがいいよ」
「えー、もう、またそれ? 大丈夫だよ。私、晃音とはきちんと愛し合ってるんだから」
花衣は咲うけれど、大丈夫じゃない、と僕は思った。大丈夫な人は、一瞬のうちに三回も「大丈夫」なんて言わない。
「私がどうでもよかったら、晃音もここまでしないよ。それだけ愛されてるの」
「……けど」
「私のことより、聖緒は彼女作らないの? けっこうモテるのに」
僕はうつむき、そんなの愛じゃない、と心でつぶやいた。殴るなんて、愛じゃないよ。彼氏がそれを愛だと花衣に言っているのなら、異常な洗脳だ。僕なら──“まとも”な愛を、君にそそいであげられるのに。
「朋里のこと好きだったりするの?」
花衣が僕を覗きこんできて、どきっとしながらその瞳にまばたきをする。
「はっ……? あ、いや。朋里が何?」
「だから、朋里が気になるから彼女作らないの?」
僕は眉を寄せ、「朋里はそんなのじゃないよ」とすぐに答える。
「そうなの? でも、みんなそう思ってるんじゃないかな」
「花衣、朋里に好きな人いるとか聞いてないの?」
「え、朋里、誰かいるの?」
「たぶん。僕もはっきり訊いたわけじゃないけど」
「そうなんだ。じゃあ、聖緒も好きな人いるの?」
「えっ」
思わず口ごもって頬を染めると、「いるんだ」と花衣が微笑む。
「告白しないの? 聖緒ならきっとうまくいくよー」
「……僕、は」
花衣が好きなんだよ。そう言いたいけれど、きっと報われないから、つっかえて声にならない。黙ってうつむいたところで、「聖緒! 花衣!」と背後に朋里の声がした。「朋里」と振り返った花衣に、「花衣、それどうしたの!?」と朋里が驚いて同じやりとりが繰り返される。
僕は花衣の横顔を盗み見て、どうにかやって別れさせなきゃいけない、と思った。花衣が障害を負うほどの暴力を受けてからでは遅いのだ。たとえ彼女自身に逃げたいという意思がなくても、花衣をあの彼氏から解放する。
しかし、そのためにはどうすればいいのだろう。花衣にいくら言っても無駄なのは確かだ。じゃあ、彼氏か? 彼氏のほうに訴えかけてみるか。花衣への暴力をやめるか、あるいは別れてもらうか。
花衣が眼帯の下を見せてくれたら、警察に言うことだって実際できると思う。もし花衣が傷を隠しても、朋里の勧めで行った婦人科の先生に証言してもらうとか、手立てはいくらでもある。そして、DVとして通報されたくなかったら、今すぐ別れろと──誰かが言わないと終わらないなら、僕があの彼氏に言うのだ。
そう思い立ち、まず花衣に彼氏の勤める会社を教えてもらうことにした。これはわりと簡単だった。ストレートに訊いたら怪しまれて当然だけど、就職の話を振ってから、「花衣の彼氏はどこだっけ?」と訊くと花衣はさらりと答えてくれた。
有名なブランドの会社だったので、「すごいね」と言ってしまうと、普段彼氏について咎められてばかりの花衣は嬉しそうにいろいろ語ってくれて、部署まで教えてもらえた。営業課らしいが、あの猛暑日の人当たりのよさそうな印象なら納得だ。でも、その裏で花衣に暴力を振るっているのなら、ストレスもあるのだろうか。
七月に入った大学の帰り道、「明日、花衣の彼氏の会社まで行ってみる」と僕が言い出すと、朋里はぎょっとまじろいだ。「本気?」と訊かれ、「花衣のこともう見てられないし」と返すと、「それはそうだけど」と朋里は緘口する。
僕は花衣の彼氏を見かけた日のことを話し、「表の顔はあるみたいだから」と心配そうな朋里をなだめる。
「でも、裏の顔がいつ出るか分からないじゃない。花衣とのことに口出すわけでしょ」
「そう、だけど」
「危ない気がする。あたしも行こうか?」
「朋里に何かあったら、それこそ申し訳ないよ」
「あたしも花衣の友達だよ」
「うん──。まあ、試験前のノートも取っておいてほしいし」
「ねえ、聖緒。花衣自身は、まだ『別れたい』とか言ってないんだからね。なのに外野が口出すのって、かなり危険だよ?」
「それでも、僕は花衣が殴られてるのがつらいんだ。話が通じる相手か分からないけど、見てるだけなのももう嫌だ」
朋里は僕を見つめ、ふうっと息をつくと、「聖緒まで殴られたりはしないようにね」と納得してくれた。僕はこくりとして、「気をつけて話してくる」と答えた。
夏風が抜ける中で夕暮れが始まりかけ、桃色と橙色が重なった色が空にじわりと広がりかけていた。
そうして翌日、相変わらず白い太陽で煮えるように暑い中、スマホで場所を確認して乗り換えも調べて、花衣の彼氏の会社に向かった。似たような建物が立ち並ぶビル街で、照り返しの熱でくらくらした。歩く人はスーツの上着は脱ぎ、ワイシャツとスラックスになっている。
人の往来がさほどなくて、思いのほか静かではあった。マップを頼りに歩き、昼下がりの頃、例のブランドの会社を見つけた。ひときわ大きなビルで、吸いこんでいる日射しがまばゆい自動ドアの入口が構えている。
ほんとに来ちゃったんだ、とビルを見上げて目を細める。胸がざわついていたけど、流れた汗をぬぐって深呼吸すると、よし、と心を決めてビルに踏みこんだ。
自動ドアを抜けると、肌に触れる空気がすうっと涼しくなった。広場のような一階にはたくさんの人が行き交っていて、一気に騒がしい。みんな働いている大人で、場違いな学生の自分に臆しそうになった。
それでも、まっすぐ行った先のエレベーターの手前に受付を見つけたので、そこに歩み寄る。受付にはふたりの綺麗な女の人がいて、「何か御用でしょうか?」と右側の人ににっこりとされたので、僕はたどたどしく、うろ憶えの彼氏のフルネームと部署、借り物を返しにきたという適当な嘘の用事を伝えた。
「少々お待ちください」と受付嬢さんは内線で営業課に連絡を取って、それから、彼氏は外回り中で戻るのは夕方だということを教えてくれた。夕方かあ、と思わず気の抜けた僕は、「じゃあ出直します」と受付嬢さんに頭を下げて大人だらけのビルを出た。
屋内から屋外に出ると、異次元に来たみたいに空気が熱で重くなる。ビルの手前に、自販機が集まったベンチのスペースがあったので、ひとまずそこに腰をおろした。木製のベンチで表面はそこまで熱されていなかった。スマホで時刻を確かめると、“14:18”だ。
夕方って、どのくらいだろう。あんまり長くここで待っていても、熱中症になるだけだ。本当に出直そうか。というか、営業なんだから、彼氏はたいてい会社にいなくて外回りになるのか。だとしたら、会社では彼氏は捕まらないだろうか。
とはいえ、家なんてもっと見当がつかないし、花衣にもさすがに訊けない。困ったなあ、と視線を泳がせ、どんどん絞られる汗に、持ってきたペットボトルの麦茶を少しずつ飲んだ。
何もしていなくても、炎天下にいると陽炎が染みこんだみたいに頭がぼうっとしてくる。結局どうしようもなく、ビルに入っていく人を見送って、あの日の男が見つからないかと目を凝らしていた。そのうち、頬がほてって息遣いが浅くなり、口の中が渇いてきた。額のあたりで頭痛とめまいが衝突して、やばい、と思った。とりあえず、コンビニでも何でも、涼しいところに行かないと。
仕方なく立ち上がろうとしたら、足元がぐらりとバランスを取り損ね、その場にくずおれそうになった。そのとき、「危ないっ」という声と共に駆け足が近づいて、僕を支えてくれた人がいた。僕は取り留めなくなっている意識で、かろうじて「すみません」と言い、ベンチにおろされてからその人を見た。
そして、目を開いた。
茶髪。大柄な肩。ピアスもしていることに気づく。
そこにいたのは、あの日見た、花衣の彼氏だった。
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