ミチカケループ-6

ルナティックアイズ【3】

「大丈夫ですか」
 そう確認されても、僕は動揺に心臓をばくばくさせるばかりで、声が出せない。スーツすがたの花衣の彼氏は、僕の反応がないことに愁眉して、「救急車呼びましょうか?」と言ってきた。
 僕ははたとして、慌てて首を横に振り、「大丈夫です」とかすれた声も出した。
「ちょっと……その、ここにいなきゃいけなくて」
「そうですか。もしかして、うちの会社の誰かを待ってるとか」
「えっ、あ──まあ」
「じゃあ、中のエントランスに休憩所もあると思いますよ。分煙もされてるんで」
「あ……、はい」
「水分も摂ってください。熱中症で亡くなる人も出てますから」
 逆光の中の花衣の彼氏を見上げ、その穏やかな口調にまごついてしまった。
 何だ? 普通の人だぞ。むしろ、見ず知らずの僕を助けてくれていい人だぞ。この人が本当に花衣を殴っているのか?
「じゃあ、早めに場所移してください」
 花衣の彼氏はそう言うと、身を返してビルの入口へと向かおうとした。刹那、花衣の眼帯が脳裏をよぎる。僕は息を吸いこみ、思い切って「あのっ」と離れかけた大きな背中に声をかけた。
 花衣の彼氏は僕を振り返る。
「何ですか?」
「夕方……」
「はい?」
「外回りで、戻るのは夕方……って聞いてたんですけど」
「……え」
「もし今、時間があるなら、少し」
 花衣の彼氏は当惑を混ぜて首を傾け、「ええと」と言葉をしばし迷わせる。
「どこかで、会ったことでもありますかね。すみません、こっちは憶えてな──」
「花衣の」
 彼氏の眉がぴくりと動いた。瞳の明度がどっと下がった。
 あ、やっぱり、この男だ。
 その眼つきで瞬時にそう察した。僕は引き攣りそうな口調を整え、花衣の彼氏の目を睨んで言った。
「花衣のことで、あなたと話したくて」
「………、」
「いい加減、花衣と別れてあげてくれませんか」
「……あんた、」
「あなたが花衣にやってることを、警察に話してもいいんです。そしたら、自分が逮捕されてもおかしくないのは分かってますか?」
 花衣の彼氏の面持ちがゆがみ、不快感があらわになる。僕はなおも暴力を非難する言葉を継ぎ足そうしたが、その前に彼氏のほうが口を開いた。さっきと一変した、低い声だった。
「花衣か?」
「え」
「花衣に言われて来たのか?」
「……それ、は」
「そうなんだな? くそっ」
 花衣の彼氏は舌打ちをすると、スマホを取り出してどこかに電話をかけた。何だ、と窺っていると、相手はすぐに出たようで、それに続いた「花衣か?」という彼氏の言葉にどきりとする。
「今、お前の浮気相手といる」
 僕はぎょっとして、「そんなのじゃない」と言おうとした。だが、彼氏は僕なんか気にせず花衣を責めはじめる。花衣もわけが分からないだろう。どうしようと焦っていると、「とにかくお前もすぐここに来い!」と電話口に怒鳴りつけて彼氏は通話を切った。
 それから僕を見て、気分が悪そうにまた舌打ちする。
「いつからだ」
「は……い?」
「いつから花衣と」
「えと、いや……僕と花衣は友達で、」
「友達が、俺に花衣と別れろなんて頼むかよっ」
「だから、それはあなたが暴力を振るうから──」
「うるさいっ。花衣は全部承知してるんだ」
「洗脳みたいに承知させてるだけです。あんなの全部DVだ。犯罪ですよ」
「だいたい、何でお前がそんなこと知ってるんだよ。花衣の裸でも見たからだろ」
「今、花衣は眼帯つけてるんですよ。目を殴られたって」
 花衣の彼氏は苦々しい顔になり、「目立つことしやがって」とつぶやく。「失明してたらどうしてたんですか」と僕が押し殺した声で言うと、「花衣はそれも受け入れるからいいんだよ」と彼氏はわけの分からないことを言い返してくる。
 ようやく僕は、この男は化けの皮をかぶっているだけで、感覚が「異常」なのだと感じてきた。
 花衣の彼氏は、僕の隣に乱暴にどすっと腰かける。神経をすりつぶすような沈黙の合間に、「とにかく、花衣と別れてください」と僕はどうにか口を挟む。花衣の彼氏は僕をじろりとして、舌打ちだけ返した。
 保身を取るなら、花衣が来る前に僕は失せておいたほうがいいのだろう。花衣だって、出しゃばったのが僕だと知れば迷惑に思う気がする。けれど、ここで僕が逃げたら、殴られるのは花衣だ。せめて殴られるのは僕にしないと。そう思い、僕は修羅場になるのも覚悟した。
 三十分くらい待っただろうか。時刻が十六時を過ぎた頃、「晃音!」という息を切らした悲鳴のような声が届いた。彼氏は苦い表情で振り返りもしないが、僕はそちらを見た。眼帯をつける花衣も僕を認め、少し右目を開いたあと、大きくため息をつく。
 そして僕と彼氏の前に来た花衣は、「ごめん、晃音」と彼氏にまず謝った。彼氏はいらいらとこまねいて花衣を一瞥する。
「こいつが、花衣と別れてくれって言ってきた」
「えっ」
「お前、この男ともつきあってるのか」
「そんなわけないよっ。──何、聖緒、どうして……」
「だ、だって、花衣……恋人に殴られるのを受け入れるなんて、やっぱりおかしいよ」
「そんなの、私と晃音のことでしょ。聖緒が口を出すのは──」
「花衣のこと、警察に連れていって、僕が事情話したらどうなると思う? どう考えても、この人が捕まると思うよ」
「っ……」
「だから、花衣。お願いだよ。この人とは絶対に別れたほうが──」
 瞬間、乾いた破裂音が頬に走った。それから、痛みがじんじん響く。花衣に引っぱたかれた、と理解するのに少しかかった。
「私と晃音はうまくいってるの! なのに、邪魔しないでっ。聖緒は晃音のこと何にも知らないじゃない!」
 花衣を見上げた。その目に暗い炎が灯っていることにぞっとした。その炎は憎しみに近かった。花衣にそんな目を向けられていることがショックで、僕はうつむいて、乾いた唇を噛みしめる。
 ごめん、と言いかけた。でもそれはこらえて、何も言わず、花衣にも彼氏にも睨めつけられるまま立ち上がる。何で、と痛いぐらいの疑問も抑えこみ、僕は花衣のかたわらをすれちがって、その場を離れた。
 花衣と彼氏のやりとりが背中に名残っても、振り返らなかった。自分が間違っていた、とは思わない。彼女を殴る彼氏なんて異常だ。しかし、花衣とあの彼氏のあいだでは、それがどうしようもなく“普通”であるようだ。
 頭は茫然としていたものの、感情はこらえきれず、ビル街を歩きつつ涙がこぼれてきた。花衣は、本当にあの彼氏を愛しているのだ。そのために、たやすく友達の僕を憎むほどまでに。濡れているたたかれた頬に触れ、あんな目で憎まれたってことは失恋だよな、とも思った。
 僕がどんなに想っても、届かない。花衣が暴力をつらいと認識せず、まして愛されている証拠だと信じている限り、僕があの彼氏に勝てることはない。
 悔しくてたまらない。花衣は何でそんなに、彼氏のゆがんだ行為に順応してしまったのだろう。目が覚めたとき、自分がぼろぼろで、頭も心も壊れてしまいそうになるのに。それとも、花衣は一生自我に目覚めることなく、彼氏に暴力を振るわれて過ごすのか?
 適当に歩いていたら、ビル街の中で本当に迷ってしまった。まだ青空からの日射が強く、さっきと同じように目の前が光暈してくらくらしてきた。涙と同じくらいに汗もしたたっていく。残っていたペットボトルの麦茶を飲み、スマホで現在位置を確認すると、僕はひとまず駅方面に向かった。相変わらず煮え湯の中にいるみたいで、足が重かった。
 その夜、朋里に通話をかけた。一部始終を語ったあと、「何かごめん」と吐き出すと、『彼氏の思いこみが本気なら怖いな』と朋里はつぶやいた。僕は冷房の風がそそぐベッドの上で膝を抱え、「花衣も彼氏も本気だったと思う」と答える。
『たたかれたとこ、大丈夫?』
「うん。女の子の力だしね」
『そっか。花衣も、だいぶ盲目的になってるかなあ』
「もう、僕とはしゃべってくれないかもしれない」
『それでも、一度話したほうがいいよ。彼氏がその場にいなきゃ、花衣の言うことも変わるかもしれないし』
「そうかなあ……」
『どのみち、明日大学で会うでしょ。あたしのノートをふたりとも写さなきゃいけないじゃない』
「そっか……そうだね」
『気まずいならあたしも一緒に話すし。聖緒と花衣が喧嘩しちゃうのは嫌だな』
 小さく咲って、「ありがとう」と僕は言った。そのあとも朋里は落ちこむ僕を励まし、「花衣を想って行動したの、あたしは分かってるよ」と言ってくれた。
 そうだ。僕は花衣を想って、彼女に暴力なんて受けてほしくなくて、どうしようもなくて、ふたりに踏みこんだ。結果的に弾きだされただけだったけど、本当に、花衣が心配だったのだ。
 翌日、やはり花衣と同じ講義があって、僕と朋里は彼女と顔を合わせた。思わず息を飲んでしまった。花衣は頭に包帯を巻いて、眼帯だけでなく頬や顎にガーゼも当て、腕のあちこちに煙草らしき火傷を負っていた。よほど僕を怨みがましく睨んでくるだろうと思ったら、花衣は屈託なく微笑んできた。「また彼氏?」と朋里が眉を寄せると、「私が悪かったから」と花衣は咲った。
 講義のあと、三人とも一コマ空いていたので、僕と花衣は自習室で、昨日朋里が取ってくれていた試験対策も含むノートを写した。朋里は自分の勉強をしていたけど、ふとかたわらに置いていたスマホを見て、「ちょっと何か来てるから」と自習室を出ていった。自習室内でのスマホの操作は禁止だ。
 僕は同じノートを覗きこむ花衣をちらりとして、僕のせいで殴られたんだろうな、と思った。殴られるなら僕が、と思っていたのに──
「……花衣」
「うん?」
「その……ごめんね」
「え」
「僕が、余計なことして。かえって、殴られたよね」
 花衣は右目で僕を見つめてきた。その瞳にはあの暗い炎こそないものの、言い知れないひずみが浮かんでいるのに気づく。
「晃音が私を愛してるからだよ」
「えっ」
「彼が私をどれだけ愛してるか分かるでしょ、この傷で」
「………、」
「私はそれが幸せなの」
 花衣の瞳を見つめ返した。そのひずみは焦点が合っていなくて、遠近がおかしかった。花衣が何を見ているのか分からない。ただ、その目を見ていると、僕は──
「そうだね。……愛されてるんだね」
 ヒビ割れたような花衣の瞳に、僕は顔をそむけた。無理だ。そう、無理なんだ。僕にはこの女の子は助けられない。
 花衣のその狂気的な瞳を見ていると、もう、僕まで気が狂いそうだ。
 花衣を想うのはやめよう。
 花衣に恋するのもやめよう。
 そうしないと、きっと僕の正気が危ない。こんなイカれたふたり、知ったことか。僕は何も知らない。
 ノートを写し取りながら、握りしめていたものを手放すような気持ちだった。頭の中が白くなっていく。意識が壊れていく。隣の彼女が何か言ったけど、顔も上げずにノートを書き取る。
 心に重苦しい感覚がめりこんで、息遣いさえ苦しくなる。結局、何もできなかった。その無力感が、恐ろしいスピードで細胞に増殖して、僕を黒い膜で包みこむ。
 僕が鬱病を患ったのは、このすぐあとだった。

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