ミチカケループ-7

悪夢感染【1】

 夏休みが始まって、何気なく送った聖緒へのメッセに既読がつかなかった。一日経っても未読のままだったから、何かあったのかな、と心配になってきた。
 夏休みに入る前、聖緒はかろうじて試験は受けていたけれど、何だか様子がおかしかった。花衣と彼氏とのこともあったし、それも心配で連絡したのだけど──
 かといって、あんまり追撃するのも鬱陶しいだろう。たぶん、ブロックされているわけではないと思う。少しそっとしておこう、としつこいのはやめておいたものの、既読通知がないまま一週間ぐらいすぐ過ぎてしまい、七月の終わりが近づいてきていた。
 夜、シャワーを浴びてから二階の自分の部屋に入ると、充電につないだスマホが、ベッドスタンドでランプを点滅させていた。クーラーの冷風がそそぐベッドサイドに腰かけたあたしは、スマホを手に取ってまばたく。
 聖緒からのメッセだったのだ。いそいでPINコードでロックを解除すると、聖緒のトークルームを開く。
『連絡くれてたのにごめん。
 病院探してばたばたしてた。』
 病院。どきりとして、夏休み前の聖緒の横顔に射していた虚ろな陰を思い出す。
『どこか具合悪いの?』
 それでも、メンタルだとこちらが決めつける前に、念のためそう確認しておく。
『具合というか……
 心療内科に行ってきたんだけど。
 鬱病って言われた。』
 心療内科。鬱病。
 スマホをぎゅっと握りしめる。どこかで、やっぱり、と感じてしまった。
 花衣の彼氏に会いにいってから、何だか聖緒はどんどんバランスが危うくなっているように感じていた。特に花衣と目を合わせるのを避けていたように見える。
『花衣のこと?』
 あたしが率直にそう訊くと、既読表示のあとしばし間があって、ぽんと返信が出る。
『たぶん。』
 たぶん。
『こんなの花衣に失礼な言い方だけど、花衣を見てると、めまいがして死にたくなるんだ。
 特に彼氏のこと話してるときの目は、僕のほうがおかしくなりそうになる。』
 あたしは息を飲みこむ。分かるような気もした。花衣の彼氏への妄信はちょっと怖い。
『そういうの病院で話したら、無力感と自責感で自分を追いつめてるって言われた。』
 なるほど。それが悪化して、鬱病──か。
『花衣のことでは、聖緒はつらい思いしたもんね。』とあたしが送ると、少しの間のあと、聖緒の返事が来る。
『朋里には応援してもらってたけど、もう花衣を好きでいるのも嫌になってきた。
 恋愛としてね。
 友達ではいようと思うけど……花衣がよければ。』
『友達ではいてあげようよ。』
『うん……できればね。』
 そのあとも、励ませてるかなあと案じつつ、ぽつりぽつり言葉を交換した。『夏休みのあいだは、診察受けて過ごすよ。』と聖緒は淡々と言葉を並べる。
『それでも、まだこの黒いのが落ちてなかったら、大学も休むかもしれない。』
 あたしは、その文章をじっと見つめる。
 聖緒が休学したら──寂しい、な。あたし、やっていけるかな。
 でも、そんな弱音を今の聖緒にぶつけるのはきっと良くない。聖緒が休みたいと思うなら、休ませてあげたほうがいい。
『聖緒』
『うん』
『聖緒はさ、何も悪くないからね。』
 既読はついても、とっさに返信が来ない。
『あたしは、聖緒が花衣を助けたかったの分かってるから。』
 間があってから、『うん』と返ってきて、ついで『ありがとう』という言葉も続いた。
『そうだ、行ってみた心療内科、先生は話しやすそうだった?』
『僕が話してるあいだは、黙って聞いてくれたかな。』
『よかった。
 じゃあ、夏休みはゆっくり過ごして。』
『そうする。』
『夜中とかさ、病院行けないのに話がしたくなったら、いつでも連絡して。
 あたしは聖緒の親友なんだから。』
『ありがとう』ともう一度返ってきて、『そろそろ薬飲むから寝落ちするかも。』と続いた。
『寝たほうがいいよ。
 おやすみ。』
 あたしがそう送ると、『おやすみ』と聖緒の返信が届いて、あたしは画面を落としてからため息をついた。ベッドに倒れこみ、聖緒元気になるかなあ、と白い天井を見つめる。
 わがままなんて言えないと分かっていても、聖緒が大学を休みはじめたら心細い。聖緒は、あの悲惨な中学時代が終わって、ようやく見つけた貴重な友達なのだ。
 夏休みになって、花衣にも会っていない。相変わらず彼氏に暴力を振るわれているのだろうか。彼女を助けたい気持ちはあたしにもある。花衣がDVを肯定すること自体、あたしには理解できないのだ。
 殴られるなんてつらいに決まっている。なのに、どうして受け入れられるのだろう。あたしはあの頃、教室でみんなにひどいあつかいをされていたから、暴力なんか絶対に認められない。
 高校生になったら変わろうと思っていたのに、結局うまくクラスになじめなかった。またイジメられるのだけは嫌だと思っていた。でも、そうなるかもしれないと怯えていたとき、あたしが女子からはずされているように、男子からはずされている聖緒に気づいた。聖緒がはずされているのは、その優美な容姿を、嫉妬混じりに敬虔されていたからだったけれど。あたしが思い切って話しかけると、聖緒も嬉しそうに答えてくれた。それから、あたしたちは自然と親友になった。
 聖緒のおかげで、あたしもだいぶん明るくなれた。なのに、聖緒が大学に来なくなったら、また中学時代みたいになってしまうかもしれない。いや、花衣という友達はいるけれども。
 花衣の目でおかしくなりそう、か。じゃあ、花衣が彼氏と別れて、 “健全”になれば、聖緒も怖くないのかな?
 その夜はいろいろ考えて、そのうち、クーラーの冷風にそよがれるまま眠ってしまった。あたしも薬を飲まないと眠れない時期があった。大学進学の準備と共に減薬し、高校卒業でいったん通院をやめた。それで普通に生活できている。
 だから、聖緒も元気になると信じたい。そして、できれば、花衣にも聖緒を信じてあげてほしい。
 翌日、習慣で七時前に目が覚めても、ベッドとクーラーでぐだぐだして、結局起き出したのは九時くらいだった。夏休みだからいいか、とあくびをしながら部屋を出ると、廊下の熱気がすごい。
 うちは共働きなので、とやかく言う親が一階で待っているわけでもない。ゆっくり階段を降りて、リビングのドアを開けると、テレビのワイドショウが流れて、ひんやりした空気がただよっていた。親がつけっぱなしで出かけてしまったのかと思ったら、「やっと起きたのかよ」とカウチから声がして、そちらを向く。
「顔ぐらい洗って出てこいよな。あと、髪は縛れ」
 隣の家に暮らしている幼なじみ──というには年が離れている弟分、中葉なかはだった。
 現在中学三年生の受験生。さらさらの黒髪、涼しげな目元、成長過程の骨格が絶妙で、何だか色っぽい。あたしが中学生くらいのときには、「トモおねえちゃん」なんてかわいかったくせに、最近はすっかり生意気になった。
「……何で、いるの」
「朝飯食いに来た」
「どうやって入ったの」
「おばさんと入れ違いに来た。起こしといてくれって言われたけど、勝手に入ったら、お前またうるさいし」
「悪かったね。朝ごはんって……トーストでいい?」
「目玉焼き乗せた奴ー」
「マーガリンでいいじゃない」
「目玉焼き!」
「……分かった。待って、顔洗ってくる」
「洗ってもボケた面は直らないだろうけどな」
 洗えって言ったくせに、と内心で言い返しつつ、あたしは廊下に戻って玄関の前を通り過ぎ、奥の洗面所に入る。
 鏡と向かい合って、ボケた面かあ、と自分の顔を眺めた。確かに何かに秀でた顔でもないけれど。いちいち言われると一応傷つくよ、とレバーで水を出すと、手のひらで洗顔ソープを泡立てて顔を洗った。
 中葉の投げ出されたハーフパンツの脚とか、低くなった声とか、妖しい瞳が放つ視線とか、目をつぶって顔を洗っているあいだのまぶたの裏によぎっていく。考えるな、と思っても想ってしまう。心臓がざわついて、追いはらうように冷たい水を顔にばしゃっとかける。
 我ながら、バカだなあと思う。分かっている。中葉には、あたしなんて何でもない。朝ごはんが面倒なときや宿題が解けないとき、ちょっと都合よくあつかえるだけの存在だ。なのに、あたしは緩やかに男らしくなっていく中葉の体躯や言動に、どぎまぎしてしまう。
 いつからだろう。分からない。いつのまにかだ。いつのまにか、あたしは弟分に過ぎなかった中葉に恋をしている。

第八章へ

error: