悪夢感染【2】
顔の水滴をタオルでぬぐい、いつも通り両脇で髪をまとめると、キッチンに向かった。
電子レンジをオーブンに切り替えて、食パンを二枚焼く。あたしはマーガリンでいいから、作る目玉焼きはひとつだ。塩胡椒で軽く味つけして、半熟に仕上げる。
サラダなんて作っても中葉は野菜を食べないので、代わりにキウイを出すことにする。ヨーグルトをかけたら喜ぶのがお子様だと思う。
それから、優しい匂いのコーンポタージュスープをかきまぜて作ると、ダイニングに朝食を並べた。
「ごはんできたよ」
ダイニングはリビングに通じているので、そう声をかけると、中葉はカウチを起き上がって、素足でぺたぺたとやってきた。「こんだけかよー」と文句を言われても、あたしは取り合わずに、中葉が座った正面の席に腰かける。ただのヨーグルトと思ったらしいけど、その下からキウイが出てくると、やっぱり中葉はおいしそうに食べていた。
さく、とトーストをかじって、マーガリンの塩味を口に蕩かしながら、中葉って好きな人いるんだよなあ、と思った。つきあっているのかは定かではなくとも、あろうことかスマホのホーム画面になっている女の人を見てしまったことがある。芸能人とかではなかったと思う。頬を真っ赤にしてスマホを取り返した中葉に、「彼女なの?」と訊いたけど、教えてもらえなかった。
「中葉」
「あん?」
「受験勉強とかしてるの?」
「塾行ってる。三年になってカテキョもついてる」
「そうなんだ」
「お前がもうちょい頭良かったら、ただで教えさせたのになあ」
「悪かったね」
「まあ、中学時代は仕方ないか」
あたしは、中葉をちらりとした。中葉は半熟たまごをつぶしている。
「お前、しんどいときだったもんなー」
あたしが中学時代イジメられていたのを、中葉は知っている。当時小学校中学年くらいだった中葉は、部屋で泣いている私の隣に黙っていてくれた。そういう変に優しいところも、好きになってしまった原因だと思う。
朝食を食べ終わっても、中葉は私の家のリビングでだらだらしていた。つけっぱなしのクーラーに、「うちが電気代食うんだけど」と言っても、「家にいると勉強させられるだろー」と中葉はカウチを起き上がろうとしない。あたしは仕方なく自分の部屋のクーラーを切っておき、スマホと充電器を持って一階に戻った。
そのあいだに中葉は昼寝を始めてしまった。あたりを見まわし、座卓に無防備な中葉のスマホを見つける。
まだホーム画面、同じなのかな。それとも同じ人の違う写真になってるのかな。後者だったらつきあってるなあ、とため息をついて、そのスマホを手に取る勇気も出せずに、中葉のまくらもとの床に座りこむ。
輪郭から丸みが削れていく寝顔と、その口元の寝息を見つめて、中葉もけっこうしんどいんだろうな、と思う。
中葉の両親は厳しい──というか、過保護なところがあって、幼い頃から中葉は窒息しそうな環境にいた。昔は「トモねえちゃんの家の子供になりたい」と泣いて、あたしの両親に異様に懐いたりしていた。
今でも、家では親に従っているぶん、あたしの家ではこうしてくつろいでくれる。あたしのことを何とも想っていないのは知っている。でも、あたしのところを逃げるあてにしてくれているのは、恋愛感情を抜きにしても嬉しかった。
十二時過ぎに目を覚ました中葉は、昼食もこの家で食べていたけれど、学校と塾と家庭教師からの三倍増しの宿題のためにのろのろと帰っていった。三倍は確かにきついな、と使った食器を片づけると、あたしはそのまま部屋でなくリビングで過ごした。
スマホでゲームをやっていた夕方、夕ごはん作らなきゃなあ、なんて思いはじめていると、突然通話着信がついた。表示された名前が『花衣』だったので驚く。花衣から通話の連絡が来るなんてめったにない。
何かあったのかな、と首をかしげ、ゲーム画面のタブを閉じてから『応答』をタップする。「もしもし」とスマホを耳に当てると、『……朋里?』と花衣のわずかに震えた声が耳に届いた。
「うん。どうかした?」
『ん……ちょっと。今、話せる?』
「大丈夫だよ。家だし。花衣は?」
『私も、今帰ってきた』
今。「……彼氏といたの?」とちょっと辟易としながら言うと、『ううん……』と心許ない声が帰ってくる。
「そうなの? あ、彼氏はまだ仕事してる時間か」
『………、そう、だよね』
「え」
『仕事してる……よね。見間違いかな』
「えっ、何。見間違いって、何か見たの」
『………』
「花衣」
『晃音の、部屋の近くまで行ったの。ほんとはね、呼ばれてないときには来るなって言われてるんだけど』
あたしは眉間を寄せる。何だ、その怪しい言いつけ。つきあっていながら、そんなことも制限されているのか。
『夏休みになって、ひとりなのが続いてて。去年はたくさん会ってくれてたのに、今年はぜんぜんで。寂しかった……というか。鬱陶しいって分かってたけど』
「つきあってたら、会えないのが寂しいのは普通だよ」
『そうなのかな。それで、ストーカーみたいかなあと思ったけど、晃音の部屋の前で待ってていいかなって思って。駅まで行ったら、その……』
あたしは眉を寄せて、まさかと思いつつも、心当たりをゆっくりと述べる。
「もしかして、ほかの女といた?」
『っ……うん』
あたしは大きく息を吐いて、ほんとろくでもない男じゃない、とこめかみのあたりがいらいらしてくるのを感じる。
「ねえ、花衣」
鼻をすする音がして、花衣が泣いているのが分かった。
「何か、いつも同じこと言って悪いと思うけど。その彼氏とは、別れたほうがいいと思う」
『で……も、もしかして、友達とか……家族の人かも』
「それでも、花衣は彼氏から離れなきゃいけないよ」
『何で? 晃音は私のこと、』
「花衣は、どうして愛してるから殴るなんて思うの? あたし、それが分かんないよ。聖緒だってさ、花衣が彼氏と幸せそうならあんなことしなかったと思うよ?」
『だって、晃音が。こんな自分を受け入れてくれるのは私だけだって』
「じゃあ、その一緒にいた女の人が殴られずに彼氏とつきあってたら? 花衣は殴られる自分のほうが愛されてると思う?」
『………っ』
「大事にされてるのは自分のほうだと思うの?」
『だって……っ。じゃあ、晃音には私には何でもないの? 全部嘘だったの? そんなの、』
綻びるように言葉を落としながら花衣は泣き出して、「ねえ、花衣」とあたしは口調を柔らかなものに切り替える。
「土日以外で、あたしに会える日ないかな?」
『え……』
「一緒に行きたい場所があるの」
『……どこ?』
「変な場所じゃないよ。そこに行く前に、話したいこともある」
『いい、けど……でも、もし晃音が今から来いって言ったら、』
「それは思い切って無視するの。というか、花衣はやっぱり、これからも彼氏とつきあう気なの?」
『晃音と別れたら、私、何にもないよ』
「あたしも聖緒も花衣の友達だよ。ひとりにしたりしないから」
『友……達』
「彼氏ほど大きな存在じゃないかもしれないけど、あたしたちは花衣を大切にするよ。殴らせなくてもそばにいる」
花衣が声をつまらせ、また泣き出すのが聞こえた。そばにいたらぎゅっとしてあげていたけれど、電話越しだから、あたしは何とか選んだ言葉をかける。
花衣は次第に『うん』とあたしの励ましに応えるようになっていき、『朋里に会いたい』『聖緒に謝りたい』とも言いはじめた。あたしはそれにうなずき、花衣が落ち着くのを待ってから、来週の八月の頭に会う約束をした。
『朋里』
「うん」
『週末とかに、晃音から連絡来たら……』
「出なくていいよ。既読もつけなくていい」
『でも、晃音、怒ったら家に来るの。怒鳴るから近所迷惑になるし』
「一度、それ録音したほうがいいと思う。スマホのアプリで録音できるんじゃないかな」
『それ、いいの?』
「大丈夫。それより、絶対ドア開けちゃダメだよ。怖いかもしれないけど」
『……ん。分かった』
「じゃあ──来週ね。万一、彼氏が出待ちしてるとかなら連絡して。そのときは、無理に出てこなくていいから」
『うん』
「それじゃあ、またね」
『ありがとう、朋里。またね』
あたしはスマホを膝におろし、ふうっと息を吐いてから通話を切った。
今までと違って、かなり説得できた手応えがある。花衣も、こぶしで軆を殴られるのは耐えられても、浮気で心まで殴られたらさすがにたまらなかったのかもしれない。
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