悪夢感染【3】
花衣に会って連れていきたいと思っているのは、あたしが通っていた心療内科だ。先生がいい人なのは、あたしがたくさん話を聞いてもらったことで知っている。あたしではうまく聞いてあげられないことも、先生なら吐かせてくれる気がする。
病院に行く前に花衣に話したいのは、あたしの中学時代のことだ。それがあって通っていた心療内科だと言って、とにかく花衣を病院に連れていきたい。
それから、夕食を作りはじめたところでおかあさんが帰ってきて、ふたりで料理をした。そのうちおとうさんも帰宅して、三人で夕ごはんを食べる。
中葉がいまだに懐いているぐらいだから、あたしの両親は子供に温かい。中葉のことだけでなく、花衣についても相談を聞いてくれていたから、やっと病院に連れていくのは、ふたりともいい判断だと言ってくれた。
そうして、週末が過ぎて八月に入った日、あたしは日焼け止めをしっかり塗ってお昼に家を出た。今日もよく晴れていて、煮えたぎっているような暑さだ。今年も熱中症で亡くなる人が何人も出ているから、家のそばのコンビニでペットボトルのミネラルウォーターを買って駅に向かった。
花衣との待ち合わせは十三時、心療内科の最寄り駅の北口だった。夏休みの学生が騒ぐ電車に乗っているあいだも、スマホを細かく確認していたけど、花衣から彼氏がいて外に出れないという連絡はなかった。そこは秘かに心配していたのだけど。
あたしが先に到着して、ここに来るの最後の通院以来だなあ、と太陽がぎらぎら照らす少し変化した景色を見渡す。病院には、あたしが電話予約を入れておいた。先生と直接話はできなかったけれど、あたしのことは憶えてくれていて、友達を助けてほしいと伝えたら連れておいでと言ってくれた。花衣はこの駅は初めてだろうし、北口とか分かるかなと案じていたら、「朋里」と背後に名前を呼ばれた。
振り返って、あたしは目を開いた。花衣の顔からあの眼帯がなくなっていたのだけど、それでもまだ紫の変色が目の周りに残っていたのだ。「大丈夫なの?」と思わず訊いてしまうと、「だいぶ腫れは引いたから」と花衣はあやふやに咲った。
今日の花衣は、ボルドーのワンピースに、よく着ている桃色のカーディガンを羽織っている。あたしはアイボリーのチュニックとデニムパンツを合わせていた。
「そっか……。部屋、ちゃんと出れてよかった」
「うん。……週末は、やっぱり晃音が来たよ」
「ほんとに? ドア、大丈夫? 開けなかった?」
「開けたほうが楽なのかなって思ったけど、……何とか。明け方に帰っていってた。仕事だと思う」
会社員として一見したときは、本当にいい人に見えたという聖緒の話を何となく思い出す。職場ではまじめな人だったりするのかもしれない。
「それで、朋里が行きたい場所って」
「あ、そこは十五時半からだから、それまでどっか入ろう。あたしの話もあるし。お昼食べた?」
「ううん。まだ」
「じゃあ、ファミレス近くにあるから」
こくんとした花衣と共に、あたしは記憶をたどって、昔たまに立ち寄ったファミレスのある方向へと歩き出す。さいわいファミレスのそのままそこにあって、涼しい店内にほっとしながら、あたしと花衣は席に案内された。以前は分煙だったのが、全席禁煙に変わっている。
メニューをめくって、あたしはトマトソースの冷製パスタ、花衣はクリームチーズリゾット、それからふたりともドリンクバーをつけて注文した。
「花衣、聖緒から連絡とか来た?」
それぞれドリンクバーで飲み物を取ってきてから、あたしは花衣に尋ねる。
「聖緒? ううん。私からも、していいのか分からなくて」
「聖緒、今、病院に通ってるの」
「えっ。怪我したの? 病気?」
「鬱病だって」
「鬱病……」
花衣はまばたき、うつむくと、「私のせいかな」とぽつりとつぶやく。それにはあえて何とも答えず、「あたしも」とアイスティーにさしたストローを動かす。氷がからんと鳴る。
「そういう、心療内科に通ってた時期あるんだ。高校のときかな」
花衣は驚いたようにあたしを見る。
「朋里が?」
「うん」
「高校時代には聖緒もいたんじゃないの?」
「聖緒が友達になってくれたから、今は行ってない。それでも、昔は嫌な夢とかで眠れないとかあった」
「嫌な夢」
「花衣には話したことなかったけど、あたし、中学時代にイジメられてたんだ」
花衣は目を開き、あたしはどんな表情をしたらいいのか分からなくて笑ってしまう。
「殴られるし、蹴られるし、いつも仲間外れ。上履きとか体操服とかすぐ捨てられたし、お弁当には泥とか虫を入れられて。教科書に『死ね』って書かれて、宿題やってきてもノート破られた」
「………、」
「だから、殴られてることを愛されてるって解釈する花衣が、余計に分からなかったの。あたしはみんなに嫌われてそうされてたし」
「……嫌われて」と花衣は睫毛を伏せ、「花衣の彼氏は」とあたしは言葉をつなぐ。
「確かに、嫌いで花衣を殴ってるわけではないと思う。でも、愛情でもないんじゃないかな。愛情表現が暴力なんて、それは違う」
「でも、晃音を不安にさせるのは私だから。不安にさせたぶん、殴るのは受け入れないと、晃音の心が」
「不安って、何分待ち合わせに遅れたとか、スマホに出れなかったとか、そんなのなんでしょ。その程度で不安になるなら、彼氏はおかしいよ。花衣にも自由があっていいんだよ」
「自由……」
「たとえば、あたしと買い物行ったりとかさ、したことないじゃん」
「……うん」
「そんなに彼氏に縛られてるなんて、おかしいんだよ。花衣は彼氏の所有物じゃないの」
花衣はうつむいて考えこみ、そのあいだに料理が運ばれてきた。花衣はスプーンを手にするとゆっくりリゾットをかきまぜ、あたしは香ばしいトマトソースと冷たいパスタを絡めて、フォークに巻きつける。
「花衣を、あたしが行ってた心療内科に連れていきたいと思ってる」
花衣はリゾットに口をつけないまま、あたしに顔を上げた。
「先生が優しいのは保障する。だから、あたしには言いづらいこととか吐き出してきてみてくれないかな」
「……でも」
「彼氏の言いなりにさせられて、花衣はかなり病んでると思うよ」
はっきり言うと、花衣は視線を下げ、すくったリゾットを口にふくんだ。あたしもパスタを食べていく。
しばらく沈黙して食事をしていたけれど、「分かった」と不意に花衣が口を開いた。あたしは花衣に目を向ける。
「私も……専門の人に聞いてもらいたいことが、ずっとあったの」
「ほんと?」
「もしそれが思い過ごしじゃないって言われたら、朋里も私の話聞いてくれる?」
「もちろん」
「じゃあ、うん──病院、行ってみる」
あたしはほっとして、「よかった」と微笑んだ。病院なんて、花衣がなかなかうなずかないのも想定していた。あたしや聖緒にも通院の経験があることが、ハードルを下げたのならさいわいだ。
先生が花衣の話を聞いてくれる。その安心感があったので、あとは花衣が緊張しないように、たわいない話をした。十五時をまわった頃、席を立ってあたしが会計すると、駅前に引き返す。そして、並ぶ雑居ビルの中の三階に入っている、久しぶりの心療内科におもむいた。
受付は十五時半からだけど、十五時から開いているのは変わっていなかった。さっそく来ていた患者さんが診察室に入っていく中、初診の花衣はまず問診表を書いた。質問のひとつひとつをたどっているうち、花衣が涙をこぼしたので、「つらい質問は飛ばしていいよ」と気にかけると、花衣は首を横に振り、「何か、私のこと知ってくれてるような質問ばっかりで」とペンを握りなおした。
知ってくれている。たぶん、あたしも昔答えた問診表だと思う。明日が来ることに希望を持てない、とかいう質問に、はい、いいえ、どちらでもない、で答えるものだ。それがだいたい当てはまるということは、やはり花衣は心はずいぶん傷んでいる。
問診表に答えたあと、しばらく待つと花衣の名前が呼ばれた。少し不安そうにこちらを見た花衣に、「大丈夫」とあたしは言い、すると花衣はこくりとして診察室に入っていった。
花衣はずいぶん診察に入ったままだった。話せてるかなあ、と待っているあたしは、スマホもいじれないほどそわそわしてしまった。患者さんが混みあう前なのもあって、診察にはじっくり三十分以上かかったと思う。
がちゃ、と診察室のドアが開いてはっとそちらを見ると、花衣は真っ赤な目からぼろぼろと涙を流すまま出てきた。「花衣」と声をかけると、花衣はこちらに歩み寄ってきて、あたしの手を取った。そして、「朋里と話したい」と鼻をすすりながら小さな声で言う。あたしはうなずき、自分が座っていた椅子に花衣を座らせた。
花衣が自分で会計を済ますと、「風に当たりたい」と言ったので、ビルの最上階までのぼった。屋上には出れないけれど、最上階は休憩所になっていて、ぬるいけれど風も流れている。ただちょっと暑いので、置いてある自販機でふたりとも冷たい飲み物を買った。アイスミルクティーを買った花衣は、それに口をつけてから、ぽつぽつと話しはじめた。
「私の家ね、親がほとんど家にいないの」
あたしはアイスココアを飲み、まだ瞳が赤く濡れている花衣を見つめる。
「ごはんもないし、着替えもない。たまにポストにお金が入ってるだけ。顔も見せてくれないのがほとんどだった。でもね、たまに帰ってきたとき、私を見つけてしてくれるのは殴ることだったの」
何か言いそうになったけど、やめて、口をつぐむ。花衣は手のひらで缶を抱きしめる。
「ほんとは、どこかでは分かってた。晃音に殴られることを、そんな親に重ねてるんだって。殴ってくれて嬉しかった。ぜんぜん構ってくれなかったから、暴力でも触れてくれるのが嬉しかった」
「花衣……」
「でも、先生が『それは愛じゃないですよ』って言って」
「……うん」
「私はそういう愛しか分からないって泣いたけど、朋里が……聖緒も、助けようとしてくれたじゃないですかって。殴らないけど私を想ってくれてるでしょうって。だから、私が大切にしなきゃいけないのは朋里や聖緒だって」
あたしは缶を膝に置き、「うん」と同意する。
「あたしも、花衣に大切にしてもらえたら嬉しい」
「けど──私のこと、鬱陶しくない? 依存みたいになるかもしれないよ?」
「そんなことないよ。むしろ、ひとりで頑張ってばっかりなのが心配だったんだもん。もっと、あたしたちに頼っていいんだよ」
「朋里……」
「花衣が『助けてほしい』って言ったら、聖緒だって元気になってくれるよ」
花衣はこくこくとうなずきながら、痛々しい涙を落とした。あたしはそんな花衣の肩を抱いて、「彼氏とは、別れてくれるよね?」と改めて確認した。花衣はぎこちないながらこくんとすると、「すぐ別れてもらえるか分からないけど」と言う。「あたしも聖緒も協力するから」と励ますと、花衣はあたしと瞳を重ねて、「ありがとう」と小さく微笑んだ。
緩くて生温い風が流れて、ゆったり髪や肌を撫でていく。嗚咽をもらす花衣の肩を、あたしはずっと優しく抱いていた。
親から彼氏へ。暴力という悪夢を感染させて、生きてきた花衣。でも、これからはあたしがいる。聖緒もきっといてくれる。だから、もうこの子が、愛されているから殴られるなんて悪夢を見るのをおしまいだ。
あたしたちの影を映す日射しが、夕暮れの優しいオレンジ色をまといはじめていた。
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