奪われた支え
ホテルの前で客と別れると、ネオンで星なんか見えない空を仰いだ。まだ息は白くないけれど、このあいだ十一月に入った空は、冷たい風で空中を裂いている。そろそろあがるか、と俺は喧騒に混ざってまずは〈SPRING〉へと歩き出した。
何だかんだで、男娼になって一ヶ月が過ぎようとしている。笹本の一件以外、特に問題なく顧客を増やしている。
ケータイを持ってくれという客が多かったので、日向に相談したら翌日用意してくれた。初めて登録した連絡先は、奏音だった。『休みがかぶったら遊ぼうね』というメールに四苦八苦しながら返信をしたものだ。まだ不慣れで、奏音みたいに片手であっという間に打てない。それでも、今日何時頃に店に行くとか客にメールしておくと、予約より確実に客が取れて便利は便利だった。
ケータイに必死になる俺の隣で、愛加は俺の破れたコートを百均で買ってきたソーイングセットで縫いあわせていた。柿原が買ってくれると言っていたけど、やっぱりもったいない。
愛加はまちばりでしっかり固定しながら、ゆっくり丁寧にコートを修繕してくれた。ケータイの小さな画面に疲れた俺は、「あー」とか言いながら仰向けになった。裁縫に熱中していた愛加が顔を上げる。目が合うと俺は咲って、「終わりそう?」と訊く。
「ん、うん。あんまり上手じゃないけど」
「んなことないよ。ありがとな」
愛加はこくんとして咲うと、針に視線を落とした。まちばりに到達するたび、コートを広げて縫い目が曲がっていないか確認している。
「そんだけまちばり刺してたら大丈夫だろ」
俺が笑うと、「だってお裁縫なんて分かんないもん」と愛加は眉を寄せる。俺は苦笑して天井の明かりを見つめ、まちばりか、と思った。
まるで俺みたいだ。愛加が自立できるまで支えて、完成──自立したら引き抜かれる。
愛加はまだまだ幼いけれど、きっと俺を離れるときが来る。自分の仕事を持って、自立して、俺はまちばりの役目を終える。それは、嬉しいような寂しいような──しかし、俺は自分がまちばりの役目をまっとうするために愛加を育ててきたのだ。
愛加がしっかり自立して、まちばりがいらなくなったら、俺はどうするのだろう。あんまり考えたくなくて、またケータイいじりに戻った。
──そんなことを考えていると、〈SPRING〉を擁するビルに到着していた。相変わらずカビ臭い一階でエレベーターを待っていると、三階で停まっていたエレベーターがおりてくる。
無人と思ってやってきたエレベーターに乗ろうとして、ぎょっとする。その狭いエレベーターには、スーツすがたのあんまり堅気とは思えない男が三人乗っていた。ぽかんとする俺を押しのけ、そいつらはさっさとビルを出ていく。
何だ、と思いながらエレベーターに乗りこみ、三階の〈SPRING〉に到着する。
暖房のきいた待機室に入ると、いつもばらばらに過ごしている男娼たちが、カウンターへのドア付近に集まっていた。「あ」と逸早く奏音が俺に気づいてくれる。「どしたの」と歩みよると、「分かんない」と奏音は腕組みをする。
「何か、スーツ男三人組が店荒らしていったらしい」
「スーツ……」
さっきの奴らが脳裏をよぎる。
「店荒らしたって」
「こっちには来なかったけど、店内かなり荒れてるっぽい」
「何。何で」
「分かんないよ。日向さんが来るまで待つしか──」
そのとき、男娼たちが集まっているドアがいきなり開いた。思わず声をあげる少年たちに、「僕だよ、僕ー」と聞き慣れた緊張感のない声がする。
日向だ。
「日向さん──」
日向は待機室を見まわし、「ここは無事だった?」と不安そうな少年に訊く。うなずかれると、「そっか」と日向はこまねいて、めずらしくこむずかしい顔をする。
「じゃあ、手が空いてる子は店の片づけにいって。割れた花瓶とかあるから、怪我しないようにね」
男娼たちは顔を合わせたのち、ぞろぞろとカウンターへのドアに流れていく。俺もそうしようとしたら、「希織は残って」と腕をつかまれた。
「え……」
「妹ちゃん、元気?」
「………、そんな話してる場合か」
心配そうな奏音を最後に男娼たちがいなくなると、広い部屋に日向とふたりきりになる。霧のようなつかまえられない胸騒ぎに狼狽えていると、「あのね」と日向はいつもよりしっかりした口調で、長い前髪の奥でも真剣な顔をして言った。
「あいつらの狙いは、妹ちゃんだ」
「は……?」
「ビルの前でひとりつかまえて、吐かせた。十歳くらいの女の子を捜してる、ここで働いてる男の子がかくまってるはずだ、って」
「愛加、九歳だけど──」
「九も十も変わんないでしょ。それに、ほかに女の子育ててる男娼はここにはいない」
俺はうつむいた。愛加が、あんな物騒な奴に狙われている? 俺は顔を上げなおした。
「何で、愛加があんな奴らに」
日向は横顔を隠す長い前髪をかきあげ、俺の脇をすりぬけてPCの前に座った。「おいで」と言われて駆けよると、「希織のことはさすがに分からなかったけど」と日向は慣れたブラインドタッチで何やら操作をする。
「弓弦にも手伝ってもらって、妹ちゃんの素性を洗った」
「……何でそんなの」
「僕の趣味」
本気なんだか冗談なんだか読めずにいると、「妹ちゃんは捨てられてたんだよね」と日向は話を進める。
「ん、まあ。でも手がかりとかなかったぜ」
「そうなんだよね。でも、出生届が出てたんだ」
俺は目を剥いた。日向はエンターキーを押して、書類のようなものを表示させた。俺はそれを覗きこむ。
有馬繭──という名前が目に入り、「本名?」と訊くとうなずかれる。
「でも、そのあとすぐ捨てたみたいだね。育てる自信がなかったのか、生みたくなかったのかは分からないけど」
「………、」
「どっちにしろ、この母親ってのがねー、問題ありで。十年前っていうと、援交真っ盛りの時代でしょ。援交を題材にした本がベストセラーになったりね」
俺は生唾を飲みこむ。味なんかないはずなのに、息苦しくなるほど苦い。
「じゃあ、愛加は──」
「援交でできた子らしいね」
さらりと言われて、俺はこぶしを握りしめた。爪が手のひらに食いこんで痛む。目をぎゅっとつぶってたため息をつくと、もう一度PCの画面を覗いた。
「この、有馬あざみっていうのが母親なんだけど」
日向はいつになくまじめな顔つきで、書類の欄を指さしながら淡々と説明を続ける。
「今、二十六歳。十七で妹ちゃんを生んだことになるね。で、その頃は親の金で遊びまくってたみたい。あ、ちなみに妹ちゃんの家系は、由緒正しき外交官の上流家庭」
「………、結婚はしてんのか」
「まだ。でも婚約者との結婚が近いね」
嫌な予感に吐きたくなった。日向はふうっと息をつくと、「これは僕の憶測だけど」とPCの画面を落とす。
「妹ちゃんを、取り返そうとしてるのかもしれない」
日向と見つめあった。日向の瞳は、憶測と言いながら確信を持っている。
俺は舌打ちすると視線をそらし、「ふざけんなよ」と唾のように小さく吐き捨てた。それから、日向を見据える。
「愛加は俺の妹だ。絶対に渡さない。そんな女に愛加は預けられない」
日向は俺の言葉にようやく表情をやわらげると、「そうだよねー」と口調もいつもの気の抜けたものになる。
「それ聞いて、安心した。妹ちゃんのこと、守ってあげるんだよー」
俺は強くうなずいた。「じゃあ」と日向は俺の背中をぽんとする。
「今日はまだ予約ある?」
「仕事なんか行くかよ」
「あるかどうかを訊いてるんだよ?」
「……ない、けど」
「よし。じゃあ、部屋に」
眉を寄せると、「まわりくどいんだよ」と毒を吐いて、俺は日向にひらひら手を振られながら店をあとにした。まだまだネオンが踊りまわり、雑多な音や匂いが冷たい風に乗っている。その中を引ったくりをやったときより早く縫って、部屋にたどりついた。
しかし、すでに時は遅かった。焦りながら鍵を取り出そうとして、ドアが数センチ開いているのに気づく。
「愛加!?」
ドアを乱暴に開けて、近所迷惑も考えず叫んでも、返事がない。まさか。まさかまさかまさか。黒雲が胸元にどんどん垂れこめる。愛加の靴はある。俺はスニーカーを脱いで部屋に踏みこんだ。
愛加のすがたは、そこにはなかった。
バスルームやクローゼット、隠れられそうな場所も当たってみたが、やはり見つからない。俺はリビングにがくんと座りこんで、愛加の名前をつぶやいた。返事はない。
まちばり。本当は、愛加が俺のまちばりだったのかもしれない。俺のほうが、よほど支えられていた。だって、愛加がいないとこんなに──
知らないうちにぽろぽろと涙をこぼしていると、例のまちばりがたくさん刺さっていた、あのコートのポケットのケータイが鳴った。取り出すと、日向だ。俺は通話ボタンを押すと、鼻をすすってから電話に出た。
「もしもし」
『そろそろ部屋着いた?』
「今着いた」
『妹ちゃんは?』
「……いない」
日向の参ったため息が聞こえた。
『店のほう、わりと片づいたんだけど。実は、希織に関する書類が消えてた』
「えっ」
『荒らすふりをして、それが目的だったのかも』
「じゃあ、愛加は」
さっきのスーツ野郎共に、連れていかれたのか。
──あてなんてない。それでも、ここでぐずぐず泣いているわけにもいかない。捜しにいくのだ。愛加は俺の妹だ。支えだ。すべてなのだ。
「日向、俺──」
『待って』
「早くしないと、」
『今いくら持ってる?』
「はあ?」
『こういうことは、プロに任せたほうがいい』
「プロなんてそんなもん、」
『いいから。いくら?』
「ん、まあ、あんま贅沢してないんで五十万くらいあるよ」
『弓弦なら信頼できる?』
「……弓弦」
『弓弦みたいな周旋屋は、顔が広いからね。きっと力になってくれる』
弓弦。俺はそんなに話しこんだことはないけれど、いい奴だというのは分かっている。
本当は、今すぐ部屋を飛び出してあてがなかろうが駆けまわりたい。だが、確かにそれで見つかる可能性は低い。弓弦なら──。俺は目を閉じて息を吐くと、静かに答えた。
「……分かった」
それでも声に強情さがあったのか、日向はちょっと笑う。
『いい子。妹ちゃんが見つかるまで、仕事は休んでいいから。お金はできるだけ残しておいてね。報酬だから』
今から弓弦に連絡すると残すと、日向は電話を切った。俺もぱたんと腕をケータイごと落とした。
愛加。まさか、こんなことになるなんて。いまさら親が出てくるなんてめちゃくちゃだ。愛加は本当に、ゴミ箱に捨てられていたのだ。しかもこんな街の。殺させるために捨てたようなものだ。それが、何の理由か知らないが、生きていたら取り返すなんて。
愛加は無事だろうか。もう母親には会ったのか。ひどいことはされていないだろうか。あるいは、ご機嫌取りでもされているのか。愛加は芯の強い子だ。どんな甘いものをさしだされても、うなずかないのは分かっているけれど──
「あーっ」とか無駄に声をはりあげてフローリングに転がる。情けない。何がまちばりだ。何にも守ってやれない、支えてやれない、役に立ってない。愛加が誘拐されたというのに、俺ひとりでは何の力にもなれない。
舌打ちしてうつぶせになり、悶々としてどのくらい経っただろうか。眠ってはいなくても、いつのまにか、頭が潤びてぼうっとしていた。突然ケータイが鳴って、びくっと身を起こした。すぐ状況を思い出し、転がっていたケータイをもぎとると、画面には弓弦の名前があった。
「もしもしっ」
勢いこんで電話に出ると、ちょっと臆した沈黙が二秒くらい流れて、『愛加は?』とこころよい低音の声で弓弦はゆっくり訊いてくる。無論、ぼうっとしているうちに愛加が帰ってきているなんてありえない。それでも、一応部屋を見まわして、「いない」とぼそっと答える。
『そっか。やっぱ、母親の家に連れていかれたかな』
「日向が、お前なら力になるって」
『今、〈SPRING〉なんだけどな。期待させたら悪いけど、俺、愛加のじいさんに当たる奴──あざみって女の父親の名前に、聞き憶えがある』
「ほ、ほんとか」
『でも、姓名が同じだけだからな。とりあえず、そこからあたってみるよ。もしあてが見つかったら、ついてくるか?』
「いいのか」
『お前の妹だろ』
「……うん。ありがと」
『まだはっきりした約束はできないけど、まあ俺、ツテだけはほんとあるから。協力するから、お前もしっかりしろ。愛加に泣きっ面なんか見せんなよ』
「分かってるよ」
弓弦はちょっと笑って、『考えすぎるなよ』と柔らかな口調で言った。
『これは愛加の問題だ。お前が悩むことじゃない』
「そんなん──だって、愛加は俺の妹なんだ」
『分かってる。それでも、こんないきなりじゃ、予測つかなくて当然だったんだ。お前は今、立派な兄貴だよ』
兄貴。そうだろうか。心配しかできず、思いつめてやきもきしているだけなのに。
『じゃあな。何か分かったら、また電話する』
弓弦はそう言うと、電話を切った。俺もケータイを待ち受け画面に戻すと、ケータイを置いてまたぱたんと床に倒れた。
捜しにいきたかったけど、本当にあてがない。望みは弓弦の“聞き憶え”くらいだ。いや、もう一度〈SPRING〉に行って、ネットで母親の家を調べられるだろうか。いや、そんな個人情報はさすがにネットでも見つからないか。でも、日向は戸籍のようなものを表示させていた。しかし、まあ、あいつはハッキングとか似合うし、俺には何のすべもない。
愛加を取られたくなかった。愛加にとって、俺はまちばりのような一時の存在であるのは分かっている。だから、愛加が俺から離れるのは、愛加が俺から自立したときだ。それ以外、ましてこんなかたちなんて、絶対認めない。
無事に戻ってきてほしい。これからも俺の支えでいてほしい。いまさら、母親なんて──
ぐるぐると巡回する考えごとに、意識が遠のいていった。寝てる場合じゃない、と思っても、毒を受けたように脳から感覚が消えていく。愛加の名前をつぶやいたのを最後に、俺はとめどない思索から逃げるように眠ってしまった。
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