Melt Eyes-1

夢の終わり

 彼が来るまで、私は間違いなく、くだらない毎日を送っていた。
 高校を卒業して、進学も就職もせず、自営業の実家を手伝ってお小遣いを搾取する。店番のとき以外はルームウェアのまま、部屋でごろごろと寝ぼけている。たまに幼なじみがやってきても、無駄話をするだけ。あと、たまに弟に何の意味もなく当たる。
 でも、そんなモノクロの日々が、あの日からついに色づきはじめた。
 吹き抜ける風がずいぶん冷たくなった、十月の終わりだった。秋晴れも暮れて、閉店も近い時刻だった。賑やかだった商店街の人通りも減ってきて、特にソフトクリームなんて子供が食いつくうちの店には、もうお客さんなんて来ない。
 たぶんこのまま閉店だなと、私はストーブのそばの椅子でケータイをやっていた。流れの早いスレに熱中し、かちかちと更新ボタンをひたすら押していたので、その声に気づくのにもちょっと時間がかかった。
「あ、あのっ──」
 はっとケータイから顔を上げた。上げて、視界に飛びこんだ声の主に、固まってしまった。
 えっ。
 嘘。何。嘘でしょ。
 幻……覚?
「ええと、その……」
 その人も、どう続ければいいのか分からないようで、眼鏡越しに視線を迷わせる。その瞳は、少し泣き出しそうなほど緊張している。私も震えかけた指先から、ケータイを落としそうになった。でもストラップが指に絡まって、何とか持ち直す。
 通りを抜けた風が、その人の柔らかそうな髪をさらりと揺らした。
「すみません、……遅くなって」
 申し訳なさそうにうつむきかけたその人に、私は我に返る。
 来た。ついに来た。来ないと思っていた。来るのかなって期待した。やっぱり来ないって思いかけていた。
 ケータイはそのへんに置いて、私はエプロンの肩紐を引っ張りながら、店先に駆け寄った。
 ──二ヵ月くらい前になる。彼の息子の悠くんは、うちのソフトクリーム屋の常連だった。そんな悠くんに、「おとうさんにこれ渡して」と私はメモを握らせた。よかったらお茶がしたい、そんなようなことと、メアドを書いたメモだった。
 でも、彼からは、メール一通の返事さえ来なかった。
 あきらめかけていた今月、彼の友達と名乗る四人組と彼のもうひとりの息子の萌梨くんによって、彼がスルーでなく考えてくれていることは知った。それでも、なかなか返答はなくて──
 振られたかな。二ヵ月。二ヵ月、無言だ。それが答え、ってことじゃ──
 ……なかった、の?
 彼は私を見ると、ぎこちなくだけど、そっと微笑んだ。ぽかんとした私は、慌てて咲い返そうとしたけど、何だか妙に軆が熱くて、泣きそうになってしまう。けれど、うつむいたら勘違いされるから、何か言おうとする。
「ひ、久しぶり……です、ね」
 うわ。ダメだ。どもった。しかも久しぶりって。めちゃくちゃ待機していたみたいだ。気持ちが正しくうまく言葉にならない。
「あ……ごめんなさい。考えてたら、こんなに経ってしまって」
 ほら、悪く思われた。「いえっ」と私はひとまず否定は入れる。
「その……それは、ぜんぜん。ぜんぜん、いいんですっ。スルーよりはぜんぜん、……ぜんぜん」
 何回“ぜんぜん”と言うのだ。情けなくて恥ずかしくてうなだれると、彼が噴き出したので目を上げる。
「女性にお誘いをもらったことは、何回かありますけど」
 彼は柔らかな瞳で穏やかに一笑する。
「こんなに悩んだのは、初めてでした」
「えっ、あ……、……はい」
「きっと、悠が気に入ってる人だから、っていうのが大きいんですけど」
「悠くん……あ、何か、バンドについていったって」
「はい。もうすぐ半月になります」
「寂しい、ですよね」
「そうですね」と彼は眼鏡の奥の瞳を少し伏せる。
「あの子はとっくに親離れしてるのに、僕は子離れできなくて。でも、家には萌梨くんもいてくれますから」
「あ、前に彼女さんとソフトクリーム買ってくれました」
「そうなんですか。いい子ですよ、彼女」
「……ゆるふわ系ですよね」
 彼はまた咲って、その温かさに硬直していた心がじわりと解凍される。彼はスーツにコートを羽織っていて、仕事帰りらしいことにやっと気がついた。
「それで、もし、よければなんですけど」
「あ、はい」
「僕も、あなたと、ゆっくり話したくなりました」
 ──え。
 彼ははにかんで、窺うように微笑んでくる。私は彼に目を開いていて、とっさに言葉を返せない。
「平日は仕事があるので、無理なんですけど。今度の日曜でよければ、お茶しましょう」
 な……に。何、言われてるの、私。死ねって言われてるの。いや、だって、そんな、死んでもいいくらいの返事──
 私が立ち尽くして何も言わないので、彼の微笑が少し陰る。
「あ、でも、そうか。こういうお店は、逆に日曜とかいそがし──」
 私ははたとして、慌てて口を開く。
「そんなことないですっ。ソフトクリームなんて、これからの時期は普通に売れないですしっ。大丈夫です、日曜、その……」
 いざ言葉にしようとすると、躊躇ってしまう。
 いいのかな。ほんとにいいのかな。大きな夢がいきなり叶っちゃう。それはどこか怖くて──
 ううん、構わない。この夢が叶った先で、新たに何かにぶち当たっても、私はこのチャンスをつかみたい。後悔しない!
「わっ、私でよければ、……お願い、します」
 私がそう言うと、なかなか重ならなかった瞳と瞳が重なる。お互い、どうしてもおもはゆくて、微笑もつたなくなってしまう。
 やばい。死にそう。幸せすぎる。
「じゃあ」と彼はポケットから名刺ケースを取り出し、一枚私にさしだした。
「ここに、僕のメールアドレスと電話番号があるので。あ、夜にメールしても大丈夫ですか?」
「はい、メールはいつでも。いや、あ、でも……すぐ返せなかったらすみません」
「いえ。僕も仕事で、夜以外はなかなか時間がなくて」
 私は彼の名刺を見た。鈴城聖樹──初めて知ったその名前に、まばたきをしてしまう。
「すずしろ……」
「あ、変わった名前ですよね。ミサギって読むんです」
「いえ、あの、字が」
「字?」
「同じ、です。私、聖乃って名前で。 “キヨ”がこの字です」
「そうなんですか? 僕のは、ミサ曲とかのミサから当てたらしいですけど」
「あ、かっこいいですね。私、 “キヨ”って発音、おばあちゃんみたいでちょっと……」
 そのときだ。がたん、と背後で音がした。
 振り返ると、弟の聖良が自宅に続く引き戸を開けて、顔を覗かせていた。私と鈴城さんを認めると、わずかに臆したものの、サンダルを突っかけて歩み寄ってくる。
 なぜ来る、バカ。雰囲気読め、バカ。
「あ、これは、……弟です」
 怪訝そうにそばに来た聖良のことをそう言うと、鈴城さんは「あっ」とすっかり静かになった通りを見渡す。
「すみません。お客さん来るの、邪魔してましたね」
「いいんです、どうせ閉店ですし。えと、その……」
「あとでメールします。そのとき、時間とかも決めましょう」
「はいっ。あ、……その、ありがとうございます」
 改めてそう言うと頬が染まり、鈴城さんは私には笑んで、聖良には頭を下げて、行ってしまった。その足音が聴こえなくなってから、私はぎっと聖良を睨みつける。
「な……」
「私がいつ、あんたとすずなの仲を邪魔した!?」
「は……?」
「空気読め、バカ! 姉の幸先をぶち壊すなっ」
「………、メールって、あの人、悠くんの父親だよな」
「そうだよ、いったい何歳差なんだよ、悪いか惚れたんだよっ」
「奥さん──」
「離婚してるよっ。あーっ、あんたが来なきゃまだ話せたのに! うざい、マジうざいっ。何で出てくんの!?」
 聖良はぎゃあぎゃあ言う私を迷惑そうに見ていたけど、結局無視して、閉店作業を始めた。私は何も手伝わず、ただついてまわって弟を責め立てて引っぱたく。聖良は最後のほうは「あー、はいはい、よかったですね」とか適当に流しはじめて、私はうるさくしつこく、限りなくテンション高く、わめいていた。

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