これからのふたり
ぐすぐす泣いていると、不意に頭に温もりを感じた。顔を上げると、鈴城さんは仕方なさそうに咲っていて、「意外と泣き虫なんですね」と私の頭をぽんぽんとした。
「え……」
「友達には、気の強そうなところはありそうって言われてましたけど」
「……バンドの人、ですか」
「はい。でも、……よかった。何か、ほっとしました」
「………、鈴城さんに、私なんか釣り合わないって分かってるんです」
「どうして?」
「私、……そんな、ぜんぜん、ダメだし……」
私は止まらない涙をまたはらう。そう、ぜんぜんダメだけど。ろくに働いてないし。化粧を落としたら目にも止まらないし。何にも秀でたところなんてないし。でも──
「鈴城さんのことは……ほんとに、好きです。それだけは、本気です」
「はい」
「鈴城さんに気持ちは押しつけないです。ただ、私、鈴城さんが好きでいいですか? ……それも、迷惑──」
「聖乃さん」
ぎゅっと喉がすくむ。鈴城さんは私の頭から手を引く。そして、言葉を続けた。
「じゃあ、僕は、聖乃さんのそばにいていいですか?」
一瞬、固まった。鈴城さんを見た。あの瞳が、物柔らかに私を映して微笑む。
「何だか、放っておきたくないです」
「で……も、私、鈴城さんが好きですよ? 期待しますよ?」
「まだ、応えられるとは言えないですけど。期待されてるなら、頑張ります」
「頑張る……」
「頑張るって言い方は、失礼かもしれないけど。ほんとに、僕には……『頑張る』ことだから」
「む、無理はしなくても、」
「無理はしてません。ただ、しばらくは、僕を見守ってくれますか?」
鈴城さんを見つめた。その瞳が、痛みを帯びた気がした。
見守る。よく、分からなかったけれど。見つめつづけていていいのなら、それだけで幸せだ。私はうなずいた。すると、彼は微笑した。その微笑には、確かにほのかな安堵があって、私も何だかほっとした。
腫れ上がった想いを言ってしまうと楽になって、私は鈴城さんと過ごす空気に、ちょっとずつ慣れてきた。鈴城さんはさほど自分のことを話さなかったけど、聞き上手で、私はなずなやすずな、商店街の人たちのことをしゃべっていた。聖良のことを話すと、「僕にも弟がいますよ」と言ってくれたり、もちろん、多少鈴城さんのことを知ることもできた。
ロイヤルミルクティーを飲み終わったら、カフェラテまでおごってもらった。まだ、ここにいたい。この人と一緒にいたい。そう思うから、話を止められなかったのかもしれない。それでも、時間はあっという間に過ぎて、ケータイを見たら十六時もまわっていた。
さすがに席を立った。次会う日ってあるのかな、とそわそわしても、訊けない。
鈴城さんは、一階のスーパーで夕食の買い出しをしてから帰るそうだ。商店街ならともかく、スーパーなら知り合いはそういないか。私は躊躇ったものの、買い出しについていっていいかと切り出した。「聖乃さんがよければ」と鈴城さんはなごやかに言ってくれた。スーパーにあまり来たことのない私は、野菜や果物の値段を、いちいち頭で八百屋や青果店と較べてしまった。
にしても、一緒に買い物とか新婚っぽくないか。って、何か思考が危ないな。ずっとすずなは聖良に関してバカだと思ってきた。けれど、今の私は大して変わらない。だって幸せなんだもん、と自分で自分にのろけて、レジを抜けてふくろに鶏肉やたまごを手際よく詰める鈴城さんを、私はいそいそと手伝う。
「鈴城さん、お料理するんですね」
「はい。萌梨くんがしてくれるときもありますけど」
萌梨くん──か。訊いていいのか分からないから、訊いていないくても。何で、息子にくん付けなのだろう。悠くんのことは、「悠」なのに。
お昼に待ち合わせた改札まで歩いた。鈴城さんは、私の歩幅に合わせて歩いてくれる。
夕暮れが始まっていた。青かった空が、オレンジとピンクを織り混ぜて、すうっと透き通る。太陽は溶けたように赤かった。
行き交う人も何か提げた買い物帰りの人が多い。ずっと建物の中にいたせいで、厳しくなってきた風が頬を切った。
「また──」
別れ際、私と鈴城さんは向かい合った。このまま別れても、メールでつながったのだし、いつでも誘えるのかもしれない。けれど、だらだらとメル友になるのは嫌だ。
ちゃんと、こうして会いたい。話したい。目を見たい。
そう思った私が言いかけると、鈴城さんは私の言葉を引き継いだ。
「また、お茶してくれますか?」
私は鈴城さんを見上げて、また変なタイミングで泣きそうになった。
もう……もう! 何でこんなに、この人は素敵なの。
「わ……私、ほんとに、時間はいつでもあるので」
「はい」
「いつでも、メールも電話も……できる、ので。土日はけっこう、弟も店番できるし。おかあさんもおとうさんもいるし。鈴城さんに合わせられるので」
「聖乃さん」
「えっ。は、はい」
「僕に、縛られなくていいんですよ。僕とのつきあいに、疲れてほしくないです」
「あ……」
「ずっと、また、お茶できればいいんです」
鈴城さんは穏やかに言って、もう一度、私の頭を撫でた。喉元がぎゅっと疼いて、胸に甘みが満ちあふれる。
どうしよう。いつの間に、こんなに。気づかないうちに? 今日、一気に?
この人が、好き……
鈴城さんと別れて、家が近づくほど、我慢していた幸せが発狂してきた。やった。やったやったやった! 私、頑張った!
突然泣き出したり、マイナス要素もあったけど。告っても拒絶はされなかった。とりあえず保留だった。買い物もつきあえたし、お茶もまたしましょうって言ってもらえた。
今日で終わりじゃない。特にこの日という約束までは得られなかったけど、きっと、また会える。もう他人じゃない。私、鈴城さんに関わることができた!
早く帰って、部屋の床でごろごろ回転したい。そう思いながらたどりついた家では、ケース越しではまだ手が届かない子供に、聖良が表に出てソフトクリームを渡していた。その子が喜んで母親に駆け寄ったみたいに、私も弟の元にダッシュして、まったく無意味にその背中をばしっとはたいた。
「って! 何だよ──」
言いながら、私を見た聖良の視線が凍った。そういえば、家族にはこのすがたを披露せずに出かけたから、聖良も初めて姉のお洒落を見たことになる。
「それ……、すずなの服、だよな」
「聖良、姉は幸せだ」
「あ?」
「もうね、生まれてよかったレベル。生きててよかったレベル」
「……はあ」
「私、もう死んでもいいよ。だから生きていけるよ」
「矛盾がすげえんだけど」
「神はいるね。うん、いる。ついに神が私の味方についた」
「………、」
「どうしよう、聖良っ。何かもう、夢が叶いまくって怖いんだけどっ」
なおも肩をばしばしやられて、聖良は明らかにうざったそうだった。私は気にせず、酒でもあおったようなテンションで部屋に戻った。
明かりをつけて、借りたバッグを放って、ひとりになっても笑みを抑えられない。できれば、世界中の人に言い触らしたい。片想いは実ったわけではない。けれど、今、絶好調で咲いている。その色も、香りも、美しさも、くらくらしそうに私を幸福にする。
とりあえず、ふたごにお礼がてら伝えよう。そう思い、たまに同伴とかいうのに出ているなずなより、ニート仲間のすずなに電話をかけた。
『もしー』
相変わらずのんびりした口調が聞こえて、「なずないる?」と特に挨拶もせず私は返す。
『リビングでドラマの録画観てるよ』
「っそ。今から、そっち行っていい? あ、あんたたちがうちに来てもいいよ」
『ん、おいでよー。あ、鈴城のおじさんとは──』
「おじさん言うな!」
『おじさんじゃん。どうだったの?』
「絞め殺すぞ」
『えー』
「聖良を」
『えっ。もう、ほんと、せーくんはやめて。きよちゃんほんとにやるからやめて』
「……ふん。んー、まあ、かなり頑張った」
『お、手応えありですか』
「うん」とつい声に笑みが混ざる。
「何かね、正直、あんたの気持ちが分かった。聖良とか趣味の悪さは理解できないけど、好きな人に関してはイカれてるくらいバカになるもんなんだね」
『せーくんよりかっこいい男の子はいないよ』
「そういうとこがな。あと、鈴城さんのほうがかっこいいから」
『せーくんのほうが絶対かっこいいよっ、ねえ、なずなもそう──痛っ』
「なずなが同意するわけないだろ……」
『え、何──ちょっ、なずなあ!』
『聖乃?』
声はそっくりだけれど、口調がぜんぜん違うので、呼び方のせいでなくなずなだと分かった。
「あー、ごめん。うるさかった?」
『すずがね。手応えとか聞こえたけど、どうだったの?』
「いい感じだった! 泣いたけど」
『え』と声が一瞬止まる。
『まさか、もうOKされたの?』
「いや、保留かな」
『じゃあ、告ったの?』
「まあ、うん。そういう流れになりまして」
『マジか』となずなはつぶやき、少し離れて『すず、うるさい』と言ったあと、また声が近くなる。
『で、返事はまた保留』
「この二ヵ月を思えば、振られるよりはるかにマシだよ」
『保留ってことは、振られる可能性もあるわけでしょ』
「そっ……れ、は……やだやだやだ、今、崖から突き落とさないで」
現実逃避で頭を振る私に、なずなはちょっと黙ったあと、『まあ』と苦笑混じりに息をつく。
『楽しかったのは、声で分かるわ』
「そ、そうかな」
『一応、おめでと』
「うんっ。何かほんと、化粧とか服とかありがとね。てか、また借りそうなんだけど」
『買え。とりあえず、化粧品は百均でしばらく我慢してろ』
「化粧品か。よく分かんないもん。最低限、何がいるの?」
『そのへんはつきあうよ。ま、服も一緒に見るし』
「なずなさんは天使でした」
『いまさら。詳しい話、また聞かせて』
「うん──あ、いや、今からそっち行こうと思うんだけど。服返すし、化粧も……これ顔洗えば落ちる?」
明らかに野暮ったい質問に、なずなはわざとらしく嘆く。
『よく二十年間も女やってたな』
「うるさい。行くよ、いいでしょ」
『はいはい。あーっ、すず、ほら返すっ。何よ、どうせあんたのケータイ代はおとうさんがはらって──』
離れていく声に、またすずなのダークモードにスイッチが入るのを予断しながら、私はケータイの通話を切った。
空中を見て、ひと息つく。
「鈴城さん」と名前をつぶやいてみるだけで、心の奥に柔らかな麻酔がかかる。「やばい、死ねる」とか浮かされたことをつぶやきつつ、私は放り投げたバッグをつかむと部屋を出た。
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