Melt Eyes-7

沁みるような涙

「おかえりなさい」
 聖樹さんの家は、マンションの二階だった。聖樹さんがドアを開けると、暖かい空気とおいしそうな匂いがただよい、奥からそう言いながら男の子が現れる。
 その子は、私を認めるときょとんとまばたきをした。私はその反応が一瞬分からなかったものの、すぐに自分があまりにも店にいるときと違うのに気がつく。
「……ソフトクリーム屋の娘です」
「あ、そう──ですよね」
 鍵を締める聖樹さんはくすくすとして、「すみません」と萌梨くんは上目遣いになる。
「イメージが違って。こんばんは」
「こんばんは。えっと……あ、私の名前とか」
「あ、聞いてます。聖乃さん、ですよね」
「萌梨くん、ですね」
「はい。どうぞ、上がってください」
「どうも……、お邪魔します」
 私はローファーを脱いで、それに続きながら「千羽ちゃんは?」と聖樹さんが首をかたむける。
「いるよ。DVD観てた」
「映画?」
「うん。佐々木ささきしょうって人が原作の」
「佐々木彰、は読んだことないなあ。聖乃さんは小説とか読みます?」
「あー、本は漫画だけです」
「はは」
「漫画は悠紗が一番詳しいよね」
「うん。あの子の部屋にたくさんありますよ、興味があれば」
「勝手に見ていいんですか」
「たぶん、悠は気にしないですね。あ、冷えてますよね。早く中であったまってください」
 私はうなずいて、萌梨くんが先に奥に行ってしまう。中から話し声がして、あのゆるふわ女子がいるんだよな、と前に挨拶しただけの相手に緊張してしまう。そんな私の頭をぽんぽんとして、「すごくいい子なので」と聖樹さんは微笑む。私はそれを見上げてこくっとしながら、やっぱりこれをされると泣きそうになる、と思った。
 暖房がきいたリビングにいたのは、長いウェーヴの髪やなごやかな垂れ目が愛らしくて、ちょっと儚げな印象のある女の子だった。暖色のニットに、ワインレッドのロングスカートを合わせている。
 ゆるふわだ、とまたも内心考えながらも、聖樹さんと萌梨くんはキッチンに行ってしまったので、ひとまず私たちは再び挨拶を交わす。
 千羽ちゃんはいったん断って、テレビに流れるままのDVDを停止させにいった。私はケータイを取り出し、高校時代の友人からのクリスマスメールに、適当なクリスマス画像を添付して返信する。
「お友達ですか?」
 隣に戻ってきた千羽ちゃんに問われて、「クリスマスかお正月に、メールがまだ通じるか確認しません?」と私は首をかしげる。
「あ、確かにそうですね。私、昔すごくメールしてたから」
「そうなんですか? ちょっと意外」
「メル友、たくさんいましたよ。オフとかはしなかったですけど」
「危ないですもんね。出会い系とか、神経分からない」
「出会い系は、メル友にハマってる子がいましたけど。やっぱり、寂しいとやっちゃうみたいですね」
「寂しい、か。よく言ってますよね。援交とかでも」
「ああ、やってる子がメル友にいました」
 普通にうなずく千羽ちゃんに、私はまばたきをしてしまう。その反応に千羽ちゃんが不思議そうにしたので、「あ、」と私は言葉をつなぐ。
「なかなか、その、すごいメル友をお持ちで」
「あ、今は連絡取ってないですよ。萌梨くんと約束したので」
「約束、って、え、ほかの人とメールするなとかですか?」
「似たようなものです。でも、束縛とかじゃなくて、私を想って言ってくれたので」
「はあ……」とため息のように言ったとき、萌梨くんが座卓に料理を運びはじめてきた。聖樹さんが温め直したり仕上げたりしているみたいだ。萌梨くんがキッチンに行くと、「いいなあ」とまたため息のように言ってしまう。
「え」
「千羽ちゃん──あ、千羽ちゃんでいいですか」
「はい。あ、敬語もいいですよ。私のが年下ですし」
「そ、そう? うん、まあ、千羽ちゃんと萌梨くんは見ててほんわかするというかね。何かそういうオーラが」
「え、そ、そんなことは」
「かわいいなー、青春だなー、と思う」
「青春。聖乃さんは、おいくつでしたっけ」
「来月、成人式」
「わ、そうなんですか。おめでとうございます」
「んー、正直、二十代になったときはこの世の終わりかと思うよ」
「いいじゃないですか、二十歳」
「いやいや」と私はかぶりを振る。
「千羽ちゃんもなったら分かる。あの絶望感。誕生日が嬉しくなくなる」
「私は、早く二十歳になりたいです。何となく」
「そうなのかなー。あ、とりあえずね、今から肌の手入れはしといたほうがいいよ。あと、気になる肉は落としておく。そしたら確実に違うよ」
「ああ、お肉は落としておきたいですね……。女の子はふっくらしてるほうがいいとか、都市伝説ですよ」
「言えてる。何なの、本気でそれ言ってる男っているの?」
「ネットにすらいないですよね」
 そんな感じで、いつのまにかふたりして落ちない肉について盛り上がっていたら、香ばしいチキンを持った萌梨くんと、白いホールケーキを持った聖樹さんが、すぐそばで顔を合わせていた。「肉……」と萌梨くんはチキンを見下ろし、「このふたつは僕たちで食べようか」と聖樹さんが悪戯っぽく咲う。すかさず「えーっ!」と声を合わせた私と千羽ちゃんに、聖樹さんと萌梨くんは、笑い出してしまった。
 おかげで、思っていたより楽しくクリスマスイヴの夜は更けていった。二十二時頃、地元民の私は地名に聞き憶えがない遠距離から来ていた千羽ちゃんは、萌梨くんに家まで送ってもらうことになった。
「ひとりでも帰れるよ」と白と黒のボーダーのマフラーを巻く千羽ちゃんに、「こんな時間にひとりで帰せないよ」と萌梨くんもコートを羽織る。そんな会話を聞いて、ふたりが左手の薬指にきらめきを持っているのに気づく。萌梨くんは「いってきます」、千羽ちゃんは「お邪魔しました」と言って、聖樹さんは「気をつけて」、私は「またね」と手を振った。
 ふたりが出ていくと、テレビもついていないリビングは、急に静かになる。「千羽ちゃんと意気投合ですね」と聖樹さんが言って、「意外としっかり言っちゃう子ですね」と私は笑って、ほとんどなくなってしまったテーブルを見る。
「はあ、食べ過ぎたかも。明日は絶食か」
「ちゃんと食べないとダメですよ」
「えー、おかあさんと同じこと言わないでください」
「ちゃんとそう言ってくれるおかあさんなら、いいじゃないですか」
「よくないですよ。食べさせるのに、『最近太ったねー』とか言ってくるんですよ」
 聖樹さんは笑って、「いいおかあさんですよ」と生クリームだけ残るケーキの皿に視線を流す。
「悠の母親も、萌梨くんのおかあさんも、違いましたから」
 どきっと聖樹さんを見る。悠くんの母親。……元、奥さん、か。と──あれ?
「あ、あの……」
 私が引っかかったところは分かったのか、微笑みながら、聖樹さんは「聖乃さんは、萌梨くんの年齢って知ってますか?」と突然尋ねてくる。
「え……と、あ、さっき千羽ちゃんが。十九歳ですよね。私の一個下」
「はい。誕生日知ってるってことは、僕の歳も」
「……あ、おいくつでしたっけ」
 私の抜けた質問に、聖樹さんはどこか表情を陰らせた。そのとき、なぜか私の中に、何とも言えない、もやもやした不安がこみあげてきた。
 ……何? 何だろう。
「あの……」
「今度の三十日に、三十歳です」
「あ、……じゃあ、今ラスト二十代──え、萌梨くん十九歳?」
 初めて考えてみたことに、首をひねってわけが分からなくなってくる私に、聖樹さんは空になった皿を重ねながら答えた。
「僕と萌梨くんは、血がつながってないんです」
「へっ」
「僕と悠はつながってますよ。萌梨くんは、僕が二十五のときに引き取った、義理の息子なんです」
 私は目を見開いて、聖樹さんの痛みを帯びた顔を見つめた。聖樹さんは皿をひと通り寄せると、「聞いてくれますか?」と私を優しく瞳に映した。私はその瞳の深さにはっとして、ややとまどったけれど、心を決めると、一度こくんとうなずいた。
 ──それは、私には遠く、予想だにしない話だった。
 聖樹さんは、幼い頃から中学時代にかけて、ひどすぎる過去を持っていた。たまに適当に読んでいた、BLの一部が恥ずかしくなった。教師。先輩。同級生。そんな、男から。同性から。聖樹さんは、むごいほどの性的な虐待を受けてきた。
 すべて、秘密からだった。いつからか、秘密は指示になった。指示は命令になった。ついに命令は、脅迫に──。
 凌辱から救ってくれたのは、当時札つきだった、例のバンド四人組だった。そんなバックがあるということで、高校時代は平穏に過ぎようとしていた。しかし、高校三年生、年上だった悠くんのおかあさんに出逢った。
 愛してなんていなかった。ただ振りまわされていた。混乱しているまま、悠くんまでできてしまった。ゆいいつの光が、悠くんの体温を愛おしいと思えたことだった。やがて、結婚までしたその女は、聖樹さんの自殺未遂の現場に鉢合わせ、ありえない不満をわめきちらすと離婚届と悠くんを残して消えてしまった。悠くんを引き取れたのは、不幸中の幸いだった。
 それでも、聖樹さんの「死にたい」は終わらなかった。何度も手首を切った。悪夢で眠れなかった。人の目が怖くて伊達眼鏡をかけた。でも、そんな危なげな綱渡りの毎日は、萌梨くんと出逢ったことで変わった。
 萌梨くんは、十四歳のときに元の家を飛び出した。彷徨う萌梨くんを、当時の部屋にとりあえず保護した聖樹さんに、萌梨くんは言った──「死にたい」。聖樹さんは、萌梨くんをかくまうことにした。犯罪にもなりえると分かっていた。しかし、追い出すにはひどく自分が重なった。萌梨くんと悠くんと三人で生活していくうち、聖樹さんは自分の過去を実家に打ち明け──闘って、みることにした。萌梨くんを「鈴城」として迎え、隠さず隠れず、家族になろうと。
 その闘いで一番苦しんだのは萌梨くんだった。けど、聖樹さんはそれを必死に助けて、支えて、受け入れた。ついに、萌梨くんは聖樹さんの息子になった。ついでこの町に越してきて、新しい生活にもなじんで、今は──……
 聖樹さんは、若かった頃はすぐにそうであったと言うけれど、もう泣き出したりしなかった。とはいえ、すべてを語った瞳は、重たく闇が垂れこめていた。それを見つめ、突然私の脳裏に、あの四人組のひとりの言葉がフラッシュバックした。
『あいつがあんな落ち着いた目でいられなくなって、泣いてたら、あんたはどうする?』
 ああ、あの質問は──
『何もできないか?』
 私は、聖樹さんの隣を動いて、うつむいた顔を覗きこんだ。この家の匂いを作っている、聖樹さんの匂いがした。瞳と瞳が、これまでになく近く触れ合う。けれど、本当は触れ合ってなんかいない。眼鏡のガラスにさえぎられている。
 私はそっと手を持ち上げると、私たちのあいだにある、その眼鏡のフレームに触れた。
「まだ、眼鏡を取るのは、怖いですか?」
 静かに、言葉を切りながら、訊いてみる。ガラスに映る私は、頭を撫でられてもいないのに泣きそうにしている。聖樹さんは私を見つめ、目を伏せ、「……怖いです」と小さく答えた。私は聖樹さんの頭に手を乗せると、その柔らかな髪を撫でた。
「でも、取らないと、私の涙も沁みないですよ?」
 聖樹さんの瞳が開き、驚いた光を走らせた。私は痛ましい話がのしかかる苦しさをこらえ、じっと聖樹さんを見つめた。
「私の涙じゃ、効きませんか?」
 私の言葉に、聖樹さんの瞳は、やっと幼く、泣きそうにゆがんだ。でも、何とか唇を噛んでこらえる。
 長く、沈黙が流れた。外の風音だけが響いていた。
 不意に、聖樹さんの口元がかすかにほどけた。愁えたため息が、緩くただよう。そして、ゆっくり、聖樹さんは眼鏡に手をかけて──

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