瞳は溶けていく
聖樹さんの瞳は、冷たいガラスに守られた瞳だった。その瞳は、少しずつ、雪どけのように少しずつだけど、溶けはじめた。
聖樹さんの誕生日、もう聖樹さんの仕事がなかったので、私たちはお茶することができた。そこからまず、お茶のときは眼鏡をはずしてみることにした。大晦日はそれぞれ家族と過ごし、萌梨くんと千羽ちゃんと四人で行った初詣もまだ眼鏡をかけていたものの、それから聖樹さんは、私と会うときは眼鏡を置いてくるようになった。
そうすると、まだぜんぜん、聖樹さんは怯えたようにうつむきがちになる。だから、私がその瞳をかばった。指先が震えているときは、自然とその手を握った。もう聖樹さんは、ひとりぼっちで立ち尽くしているのではない。そうささやいた。どんな言葉も、きっと、聖樹さんがこれまで萌梨くんに言ってきた言葉だろう。その言葉を、今度は私が聖樹さんにかけた。
そう、聖樹さんはひとりじゃない。四人組が現れた。悠くんが現れた。萌梨くんが現れた。そして、私だって隣にいる。私だって、隣にいたい。
凍りついたように寒かった空から、暖かい風が吹いてくるようになっていた。鳥たちも飛ぶようになる。そんな春が来る頃には、聖樹さんの怖がってすくんでいた瞳は、雪と共にとても優しく溶けていた。
「萌梨くんは──」
いつものお茶の待ち合わせで、飛びまわる鳥たちを見上げて瞳に空を映す聖樹さんは、つぶやいた。
「もう、すっかり羽を持ってますね」
私は聖樹さんを見上げた。包むような春風が、聖樹さんの柔らかい前髪を揺らしている。
「僕は──」
「持ってます」
聖樹さんは、言い切った私を見た。私はその瞳を、自分でも驚く気丈さで見つめ返した。
「聖樹さんには、もう、離れない人がたくさんいます。絶対、それは、誰にももぎとったりできないです」
「あ……」
「飛ぶのがつらかったら、休んでもいいんです。でも、空も、見ていきましょう?」
聖樹さんは私を見つめ、なぜか、頭をぽんぽんとした。ぽかんとした私に、聖樹さんは咲って、また空を仰いだ。
その瞳に、すうっと白い雲がたなびくのが映る。瞳に、空が溶ける。
そっか、とふと思った。
まだ、夢色。冷たい雪は、春に夢色に溶けていく。その色は、どんな色? それは、そう、きっと──
空色、だと、思う。
「お茶、行きましょうか」
最近、聖樹さんは自分から私の手を取ってくれる。それが頑張ってくれる聖樹さんの、精一杯なのはよく分かるから、私はその温かな手を握り返す。いつものカフェのほうへと歩き出しそうとしたところで、私はぱっと顔を上げた。
「聖樹さんっ」
聖樹さんは足を止め、「はい?」と不思議そうに振り返る。私は言いよどみかけても、思い切って言ってみる。
「その、もし、嫌じゃなければなんですけど」
「はい」
「私、今日は、聖樹さんの昔のバイト先で、お茶したい……です」「えっ」
聖樹さんはしばしまじろいでから、思い当たる。
「……『風切り羽』、の?」
私が窺うようにうなずくと、聖樹さんは意外にもおかしそうに咲った。そして、「まだあるかな」と首をかしげる。
「でも……そうですね。僕も今度こそ、マスターと奥さんに、恋人を紹介したいです」
「えっ?」
「よし、じゃあ、今日はあの喫茶店に行きましょう」
そう言った聖樹さんは、ちょっと照れながら、いつもと逆方向に歩き出す。私もどぎまぎと頬をほてらせつつ、でも、空が映っているその瞳を見て、心から願う。
神様。もしいるのなら、神様。彼の瞳に、そうやって空を映してあげて。羽ばたく鳥の視界のように、ようやくその溶けた瞳を、空色に──
「あ、聖乃さん」
まだわずかに頬の色を残しつつ、切符売り場で、聖樹さんは私を見下ろしてくる。
「僕もひとつ、お願い、いいですか?」
「え、はい」
「そろそろ、また、ぶかぶかのエプロンすがたも見せてくださいね」
私は聖樹さんに大きく目を開く。その、あからさまな反応に、聖樹さんは噴き出して、私はよく分からない声を出してしまう。でも──やっぱり、つないだ手は、振りはらわずにぎゅっと握る。
聖樹さんは咲っている。咲って、私に、恋をしてくれている。
──空を見る? ううん、私たち、たぶん、空なんて、もう飛んでいる。そう、瞳に溶けた空の中を、とても力強く風を切って、進んでいるの。
FIN
