MIDNIGHT-11

午前四時

「明日こそ学校来るんじゃねえぞ。分かったな」
 おなじみの台詞と共に、僕の右臑をしたたかに蹴りつけた山本は、取り巻きをつれて階段を降りていった。
 ここは屋上への踊り場だ。外では小雨が視界を濁していて、山本たちが僕の傘をいちいち壊していかないことを祈る。冷たい地べたに座りこむ僕は、臑に雷鳴のように走ったあまりの痛みに息を切らしながら、強く舌打ちして壁にもたれかかった。
 このあいだ、ねえちゃんに言われた。誰に褒められるわけでもないのに──いい成績を取ったって。そんなのは分かっている。ただ、ほかにすることがないのだ。
 でも、成績さえ下がれば──いやいっそ学校に来なければ、こんな毎日は終わるのだ。息子が登校拒否になったって、あの両親は責任をなすりつけあう喧嘩にいそがしいだろう。
 雨の音色の聴きながら、音叉のように響く臑の痛みが引くまで、ぼんやりしていた。
 こんな生活が半年だ。そろそろうんざりだ。絶望はしていない。怖くない。人生に負けることだとも思わない。
 ただ、僕は学校とそりが合わない……
「クソっ」
 自分の根暗な思考回路が鬱陶しくて、そう独白しながら目をつぶった。
 違う。こんなことじゃない。学校なんか大嫌いだ。でも、逃げようとは思わない。そんなのは山本たちに屈服するのと同義だ。そっちのほうが屈辱だ。僕は登校拒否なんかしない。
 どこからか忍びこんでくる、雨の哀しい匂いに、僕は目を伏せたまま息を吐く。
 ねえちゃんのせいだ。ねえちゃんは、最近僕を避けている。様子も変だ。あの超然と物笑いしている感じがなくて、考えごとをしながら、何かにとまどっている。
 今まで、僕とねえちゃんの性の波長は完全に一致していた。僕がしたいときはねえちゃんが誘ってきた。ねえちゃんがしたいときは、僕が犯してやった。それが、ずれはじめている。
 ねえちゃんは誘ってこなくなったし、僕が襲おうとしても寝返りを打って拒否する。おかげで僕はいらだちを発散できず、殺人鬼に宿るような陰鬱なしこりを持ちはじめていた。
 何とか立てるようになると、僕は右臑をかばいながら立ち上がって、隅にあったランドセルをたぐりよせた。北宮に呼び出された一件以来、共に帰るように見せかけるため、こうしてランドセルを連れてくるようになった。無論、僕の自発でなく山本の浅知恵だ。右脚に重心がかからないよう気をつけながら、階段を降りていく。
 傘は無事だった。六年生になって、急に背が伸びたり肩幅が出てきたりして買った、新しい青い傘だ。
 防水加工のスニーカーで、それでも水溜まりはよけながら、景色は見ずに黙々とアスファルトを歩く。冷えこむ秋雨に、頭の軸がずきずき痛む。雲の涙をかきけすような笑いさざめく周囲をどんどん追いこして、街路樹から土の匂いがする住宅街に入ると、ようやく少し速度を緩めた。
 ねえちゃんをめちゃくちゃに犯したかった。自慰ではダメだ。僕は気持ちよくなりたいわけではない。あの蜂蜜のような髪に顔をうずめ、いちごのリップリームの唇を貪り、柔らかな雪肌の乳房を握りつぶし、貪欲な液を垂らす奥を引っかきまわしたい。
 ほかの女でもダメだ。高みにいるねえちゃんを引きずり落とすから、僕は発散されるのだ。ねえちゃんじゃないとダメだ。ねえちゃん以外の女なんて、面倒なだけだ。
 何でねえちゃんは、いまさら僕を拒むのだろう。始めたのはねえちゃんのくせに。ねえちゃんだって、僕との関係に依存しているくせに。何で僕がこんな──
「ひたき」
 内界にこもって、頭が錯落としてきたときだ。不意に名前を呼ばれ、僕ははっと立ち止まった。知らないうちに泥水も踏み荒らしてきたのか、スニーカーが汚れていた。
 陰っていた傘と顔を上げ、僕は露骨に嫌な顔になる。同じく傘の下にいる、学ランのかのはにいちゃんだった。
 かのはにいちゃんは、僕の表情に哀しいような仕方ないような笑みをした。少なくとも、この土地に帰ってきたときの能天気さはもうないみたいだ。
 僕は、かのはにいちゃんとはあれ以来だから、ねえちゃんと何かあったのだろうか。僕はうつむき、傘の青い柄を握りしめる。
 小学生がまばらに帰宅しているぐらいで、周囲に人影は少ない。
「まだ中学は終わってないだろ」
「お前と話したくてサボってきた」
「僕は話なんかない」
 迂回して通り過ぎようとしたら、ぎゅっと肩をつかまれた。僕は思わず声を上げた。そこは、今日だかいつだか、誰かに踏みしだかれたのだ。
 僕のひどい反応に、かのはにいちゃんも面食らって手を引く。僕は肩のあたりの服をつかみながら、かのはにいちゃんを睨みつけた。
「僕に簡単に触るな」
「ご、ごめん。何だ、怪我でもしてるのか」
「関係ないだろ」
「………、ごめん。あの、つぐみのことで」
 僕は思わず息を詰めた。
 ねえちゃんのこと──。
「何か、何というか……ひたきもだけど。俺がいないあいだに、何があったんだよ。お節介なの分かってるけど、つぐみ、学校で呼び出しとか食らってるし。あんなに明るかったのに、何でそんなに変わったんだ」
 呼び出し。そうなのか。ねえちゃんの学校生活なんて、ぜんぜん知らない。
「心配なんだ。理由さえ分かれば、俺、もうつきまとわないから」
「ねえちゃんに訊けよ」
「近づくなしか言ってくれないんだよ」
「じゃあ、あきらめろ」
「ひたき」
「分かるだろ。昔を引きずられるのは迷惑なんだ」
 かのはにいちゃんの純粋な瞳は、雨より愁えて泣きそうだ。その瞳だろうか。ねえちゃんは、かのはにいちゃんのその瞳に惑わされて、僕を避けているのだろうか。
「ひたき、俺、」
「僕たちに関わるな。もう僕たちは、あんたが知ってる僕たちじゃないんだ」
 言い残すと、僕はかのはにいちゃんを一瞥もせず、その場を足早に離れていった。
 なぜだろう。何となく、かのはにいちゃんだ、と思った。いや、絶対にそうだ。かのはにいちゃんのあの瞳のせいで、ねえちゃんは僕を避けている。
 ふと、また記憶の歯車がきしんで、その重みに僕は歯噛みした。
『どうして?』
 僕は、傘がすべり落とす雫たちを睨んだ。視界が雨に燻ぶっている。
『ママ、どうしてかのはいなくなっちゃうの?』
 雨にかすれた視界の奥で、セピア色のねえちゃんが、かあさんの服をつかんで泣いている。
『ママたちは、つぐみを置いていったりしない?』
 かあさんはうなずいて、ねえちゃんの頭を撫でた。ねえちゃんはひときわ大きく泣いて、他人を見くびるあの瞳のたまごを憎悪に近いものから生んだ。
『じゃあつぐみは、ママとパパとひたきしかいらない。みんな大っ嫌い!』
 僕は立ち止まった。家の前だった。
 そうだ。あのときから、ねえちゃんは変わった。あのときから笑顔を封印させ、ゆっくりと孤高の毒に冒されていった。
 僕はどうしたらいいのか分からなかった。ただ、かのはにいちゃんが早く帰ってくることを願った。しかし、かのはにいちゃんは帰ってこなかった。
 だんだん期待することに麻痺していった。そして、両親の仲も突き放された彫刻のようにひび割れはじめて──
 そういえば、五月生まれの僕が四歳のとき、三月生まれのねえちゃんは、誕生日におままごとセットを買ってもらっていた。もう小学生になるんだからと両親はほかのものを勧めた。それでも、ねえちゃんは譲らなかった。
『だってね』とねえちゃんはおままごとセットの箱を抱きしめて、ひまわりのような笑顔で言った。
『おままごとだったら、かのはのお嫁さんになれるもん!』
 そこで、ねえちゃんの笑顔はふっつりと途切れた。
 僕は茫然と立ち尽くした。降りしきる銀の糸と一体化したように突っ立った。
 僕とねえちゃんの関係よりもっと深い、禁断の、思い出してはいけないものを思い出してしまった気がした。
 ねえちゃんは? ねえちゃんはこのことを憶えているのだろうか。憶えているから──いや、今の僕のように思い出したから、僕を拒絶するのだろうか。
 じゃあ、かのはにいちゃんに『近づくな』というのは? 今もなお、ひまわりのような想いを踏みにじった裏切りを憎んでいるからだろうか。ねえちゃんは……
「──ひたき?」
 かのはにいちゃんの声に名前を呼ばれたのにも、長らく気づかなかった。
 アスファルトから匂い立つ雨の香りが、ちぎれた呼吸と綯い混ざる。視覚は止まり、テレビの砂嵐のような雨の音しか聞こえない。幾本もの冷たい雨が突き刺さり、しくしくと心が痛み──
 ただ、口元に塩味がしたのだけ、かろうじて分かった。

第十二章へ

error: