MIDNIGHT-13

午前四時半【2】

 ようやく迎えた放課後、学級日誌を職員室に持っていったら、辻谷は一見して、笑顔でその黒いノートを突き返してきた。
「書き直しだ」
「はあ?」
 また、ほかの教師がちらちらと顰眉してくる。それでもあたしは、いらだちを抑えられない。
「何でよ」
「字が汚い」
「昨日の奴のほうが読めなかったわよ」
「教室で書き直せ。俺も行く」
 そういう魂胆か、と滅入った息をついてしまう。辻谷は満足げな表情でデスクを片づけ、「さあ」と立ち上がった。
「教室、残ってる子がいるわよ」
 職員室を出て廊下を並行しながら日誌を開き、どこが汚いのよ、と難癖に頭痛を覚えて冷めた声で言う。
「あいつが残ってなければいい」
「かのは? いたと思うけど」
「………、何とでも言ってやる」
 不機嫌になった横顔をちらりとして、いくつ年下のガキに嫉妬してんのよ、と内心毒づく。
 やはり教室には残って雑談している子たちがいて、「先生どうしたのー?」などと首をかしげてくる。辻谷は例の胡散臭い笑顔をして、「こいつを説教したいから、そろそろ教室を空けてくれないか」とぬかした。辻谷の隣にいるあたしは、嘲笑されるよりも早く、その女子たちを睨みつける。
 やはり友達と残っていたかのはにも、それは聞こえたようだ。しかし、「じゃあ帰ろうぜ」とか言った友達にうながされ、辻谷が口を出すまでもなく、ただ心配そうにあたしを見て教室を出ていった。
 そうして、教室にはあたしと辻谷だけになる。
「書き直せば、帰してくれるの?」
 日誌を抱くかたちでこまねくと、教室の戸をぴったりと閉めた辻谷は微笑んだ。
「問題は日誌じゃない」
「そうでしょうね」
「俺を受け入れないつぐみだ」
「名前で呼ばないでって言ってるでしょ」
 辻谷と目を合わせているのも嫌で、あたしはそっぽを向く。
「あいつには呼ばせてるじゃないか」
「また、かのは? 幼なじみなんだからしょうがな──」
 辻谷の腕が伸びてきたのが、視界の端に入ってはっとしたものの、そのときにはきつく抱きすくめられていた。もがいたけれど、力でこいつに敵うわけがない。非力なあたしをあざわらった辻谷は、日誌をそばのつくえに置き、これまでにない強引さであたしの唇を奪った。
 何となくやばい気がして、いつもなら適度につきあってやってあしらうところを、糊で重ねた紙を引き剥がすように唇をちぎった。
「やめなさいよっ……」
「今朝、あいつと一緒だったな」
「は?」
「朝、一緒に登校してただろ」
 あたしは舌打ちした。見られていたのか。
「もうあんたストーカーよ、」
「お前は俺のものだ」
「離せって言ってるでしょ!」
 辻谷は唇をあたしの髪にもぐらせると、耳元で窃笑まじりに言った。
「いつもみたいに、突き放せばいいじゃないか」
「あんたねえっ……」
「今までは子供あつかいしてやってたが、お前は俺が思ってたより早熟みたいだ」
 熱い舌が耳の裏を這って、ぞくりと悪寒が走る。あたしは眉根を寄せ、本気で辻谷を押しのけようと力をこめた。けれど、嫌がれば嫌がるほど、もてあそぶように口づけられ、抱きしめられる。嫌悪を絶望が冒しはじめる。
 やばい。今回こそ、こいつは本気だ。
「つぐみ……」
 辻谷の手がセーラー服に侵入して、野蛮に胸をつかむ。ブラジャーなんか簡単に押し上げられ、素手があたしの乳房をとらえる。ゆっくり柔らかさを確かめ、左手では屈強にあたしを抑えるまま、セーラー服の前をはだけさせる。
 まだ気候は涼しい程度だから、スリップドレスは着ていない。ぶあつい紺のセーラー服を、地肌に着ていた。
 辻谷は、あらわになったあたしの乳首にむしゃぶりついた。乱暴にされるのは慣れているはずなのに、虫唾のあまり声がもれる。分かっているくせに、辻谷は「感じてるのか?」と問うてくる。
「ふざけんじゃないわよ、あんたなんか……っ、」
 口では強がっても、本音では泣きそうだった。でも、泣いたらこいつの思うツボだ。あたしは生唾と胃液を飲みこみ、恐怖に荒くなりかける息をこらえる。
「これ以上バカな真似さらしたら、マジで親に言うわよ」
「家庭訪問の日にも、喧嘩してるような両親にか?」
 間近でにやりとした辻谷は、右手をスカートに忍びこませる。いつかみたいに、足を踏んでやろうとしたけど、混乱で足元が狂った。
 吐きそうなめまいがして、力が入らない。辻谷の猥褻な指が下着越しに入口に触れ、あたしは屈辱と嫌悪に唇を噛みしめた。
 触れられたことで、密着した辻谷がジャージ越しに硬くなっていることに気づいた。事実に呼吸が痙攣した。まるで迷路に来てしまったように、脳髄が右も左も分からない錯乱に堕ちていく。
 下着を下ろされても抵抗する反射が働かない。どうしよう。あたし、このままこいつに犯されるの? こんな奴に体内を犯されるの?
 嫌だ。そんなの絶対に嫌だ。じゃあどうすればいい? 分からない。自分ではもう分からない。自分ひとりでは敵わない。誰か必要だ。
 そうだ。誰か。誰か助けて。助けて。誰か──
「かのは──っ!!」
 辻谷の指が入口を探り当てたのと、あたしが無意識に絶叫したのと、教室の戸が開く音がしたのは、ほぼ同時だった。
 辻谷ははっと振り返り、あたしも息ざしが崩れたままそちらを見た。そこに、戸に手をかけたまま茫然と立っていたのは、まさにあたしが助けを求めたかのはだった。
 鼓膜が破れたような沈黙が時間を止めた。一番早く目が覚めたのは、かのはだった。かのはは辻谷に飛びかかった。辻谷はかのはに殴りつけられるまま床に転がり、あたしは空気が抜けたようにその場に座りこんだ。そして、あたしの悲鳴を聞きつけた生徒や教師が、どんどん教室に駆けつけてきて──
 あたしは、ショックを受けて泣き出しているどこかのクラスの女教師に、保健室に連れていかれた。あたし自身は涙もなかった。頭の中が白いペンキをかぶったように真っ白だ。ベッドに横たわり、乱れた服を正され、消毒液のにおいがするふとんをかぶせられる。
 保健医も泣きそうな顔をしてあたしの髪を撫で、何か言ってきた。聞こえなくて返事ができなかった。そんなあたしの状態を察すると、女教師も保健医もただカーテンだけかけて、あたしをそっとしておいてくれた。
 かのはが来たのは、ずいぶんあとだった。そろそろとカーテンをめくった彼に名前を呼ばれ、硬直状態だったあたしはやっとびくりと動けた。あたしの反応に、かのはは不安そうにしたものの、静かにまくらもとに歩み寄ってくる。
 そっと視線が絡まった。昔のまま、何も変わっていない、柔らかな瞳が泣きそうにしている。
「かのは……」
 ようやく、かすれつつも声が出た。かのははベッドサイトの床にひざまずき、同じ目線になった。
「ごめん」
「え」
「あいつのこと殴って、話とかさせられてて。一応、事情が事情だから、謹慎とかにはならないって」
「そう……」
 視線が蜘蛛の糸のようにもろくちぎれ、しばらく黙然とした。かのはは床を見つめたまま、押し殺した声で口を開いた。
「やっぱ、つぐみが心配で。雅也まさやたち置いて、教室に戻ってきてたんだ。忘れ物取りにきたとか言えばいいやって。そしたら」
「………」
「あいつ……っ」
 かのはは、子供を殺された親のような表情で、シーツの上で手を握りしめた。
 ……バカだ。本当にこいつはバカだ。何でこんなに変わっていないのだろう。純粋なままなのだろう。あたしが大好きだったときのままなのだろう。
 あたしは手を伸ばし、かのはの手の上に手を乗せた。あたしの手は冷たかったけど、かのはの手は温かい。
 かのはは、あたしを見て目を開いた。あたしは、いつのまにか涙をぽろぽろとこぼしていた。
「つぐみ──」
「ごめんね」
「えっ」
「怖かったのかもしれない」
「え……」
「あたし、二年になってから、ずっとあいつにあんなことされてたの。気持ち悪くて、そのはけ口をひたきに向けてたわ。もう汚れてるのよ」
「……そんな、」
「ひたきが部屋を出てこなくなったのも、あたしのせいよ」
「そ、それは、」
「あたし、ずっとあの子を利用して。もうダメなの。本当に、かのはが知ってる頃のあたしじゃないのよ。かのはのそばにいる資格はないの」
 かのはは、あたしの手を握りしめた。柔和な感触が涙を大粒にさせる。
「俺はつぐみが好きだよ」
「え……」
「ずっと好きだった。離れても。俺がいなくなったせいで、つぐみが咲わなくなったって、おばさんに電話で聞いた。すぐ帰るからって伝えたかったけど、つぐみ、電話にも出てくれなくて。そんなだから、手紙出すのも怖くて。俺も一緒だよ。怖かったんだ。つぐみが好きだから、嫌われるのが怖かった」
 嫌われる。かのはに嫌われる。
 ……あたしもそうだ。かのはに嫌われるのが怖かった。かのはが好きだから。変わっていないかのはに、変わってしまったくせに惹かれていたから。
 でも、それを自覚することすら怖かった。あたしは、ひたきに逃げたから──
「……あの子を見捨てられない」
「えっ」
「ひたきも、イジメのはけ口をあたしに求めてるの」
「はけ口って、」
「かのはのことは好きだけど、ひたきのことも裏切れないの。ひたきには、あたししかいないのよ」
「そ、それは別のことだろ」
「別……?」
「俺が好き……なことと、ひたきを放っておけないのは、同じことじゃないだろ」
 あたしは濡れた睫毛の角度を下げた。
 言えない。これだけは、絶対言えない。言っちゃいけない。
「つぐみ」
「……ん」
「ひたきも、もう子供じゃないんだ」
「えっ」
「昔のままでいられないのは、つぐみの言う通りだよ。俺だって昔のままじゃない。もしつぐみとつきあって、デートすることになっても、昔みたいにひたきまで連れていこうとは思えない」
「………」
「きっと、もうひたきにはひたきの相手がいるから」
「ひたきの……」
「そう。だから、つぐみがぜんぶ背負わなくていいんだ。姉として心配してやるのは大切だよ。でも、昔みたいにいつも一緒にいる必要はもうないんだ。あんまりつぐみが近くにいると、ひたきもつぐみに依存して良くないよ」
 依存。それほど、あたしとひたきの関係を名状するものはなかった。
 愛じゃないのは分かっている。ではなぜ交わったかと問われたら、依存したとしかいいようがない。
 あたしは他人への嫌悪を逃れるため。ひたきはイジメられるストレスを逃れるため。あたしたちには、お互いしかいなかった。
「……うん」
「え」
「分かった、ひたきと話すわ」
「……そうだな」
「………、つきあってやるのは、それからよ」
「……つきあって“やる”ってなんだよ」
 あたしは、かのはを見て少し一笑した。もちろんかのはも分かっていて、「素直じゃないとこは変わってないじゃん」と咲う。
 重ねた手を無意識にきゅっと握りしめあうと、かのはは身を乗り出し、あたしがこれまで味わったことのない優しいキスをした。

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