MIDNIGHT-14

午前五時

 昨夜、ねえちゃんは家に帰ってこなかった。一階で電話が執拗に鳴り響いていたから、何かあったのかもしれない。
 それでも僕は、ベッドにぐったり横たわり、どうせあいつらがまた僕の様子見にくるからいいや、と無視していた。実際、深夜に帰宅した両親は、留守電か何かを聞いて、僕のところに来る場合でもないようだった。
 閉ざしっぱなしのカーテンの向こうで、今日もまばゆい朝が始まっていく。鳥たちも戯れはじめ、車の走音が横切っていく。
 学校に行かなくなって何度目の朝か、数えるのはやめた。思考自体がはっきりしなくて、ただときおり、胸の奥がひどい闇にぎゅうっと圧迫される。
 軆なら、どんなに痛んだって平気だった。心だと、僕はこんなに弱いのか。あの雨煙る日から、ベッドを起き上がることすらできず、まっさらなノートのように真っ白な、何も綴られない日々が続いている。
 両親がまた出かけた隙に、食事を取ろうと思っていたのに、今夜は出かけたり戻ったり、断続的にずっといたからお腹が空いた。いや、それよりシャワーを浴びたい。何日か前についに両親を登校拒否を知られて、それ以来、両親は毎日僕の部屋を訪ねてくる。今のところドアは開けられていないが、鍵があるわけでもなく、時間の問題だろう。
 おかげで部屋を自由を出られず、シャワーを数日浴びていない。服も着替えていない。真夏ではないことがさいわいだけれど、このまま行けば、体臭が鼻についてくる。まあこのまま乞食みたいになったってどうでもいいか、とまくらに顔を埋める。
 僕が学校に行かなくなって、山本たちはついに勝利したとにやついていることだろう。しかし、僕が学校に行かなくなったのは、あんなことが原因じゃない。
 僕は学校に行けないのではない。部屋を出られないのだ。厳密に言えば、家に誰かいると部屋を出られない。特にあの、かのはにいちゃんを一途に想っていた、あばずれがいると──
 ばたん、とまた一階で玄関の閉まる音がした。今度こそ出かけたのか、と期待したが、漠然と話し声がして舌打ちした。いい加減にしろよな、とつぶった両目をまくらに押しつけていると、階段をのぼってくる足音が続いてくる。
 一瞥したデジタル時計は六時過ぎで、足音はふたつだった。とうさんとかあさんかな、とふとんを手探りで頭にかぶったものの、いつまでもノックは聞こえない。それどころか、僕の部屋に届く前にひとつになった足音は、足早に階段を降りていった。
 怪訝に思ったあと、ぴんと来る。
 ねえちゃんだ。ねえちゃんが帰ってきたのだ。何があったかしらないが、こんな早朝にやっと帰宅したらしい。
 息が苦しくて、体温を吸ったふとんから顔だけ覗かせた。カーテンはしっかり閉めていて、天井には一筋の光もない。冷房も暖房も入れない、自然の室温がただよっている。そんな薄暗い空中に漫然としていると、鬱したため息がもれる。
 ねえちゃんは、いつ気づくのだろう。もう気づいているのだろうか。自分が、かのはにいちゃんにどれだけ縛られてきたか。そのために実の弟の感情まで利用し、それが僕をどれだけ害したか。
 僕は気づいて、どこにいても見上げればこちらを見下ろす月のようだった、あのいらだちも喪失してしまった。雷をはらんだ暗雲のような無気力が残った。
 雷が鳴れば、心が痛む。なぜなら──
「ひたき」
 僕ははっと目を覚ました。天井を見つめたまま、五感が喪心していた。声のしたほうに首を折ったけど、顰め面を作ることすら煩わしい。
 そこには、足音もドアを開ける音も聞こえなかったのに、いつのまにかセーラー服すがたのねえちゃんがいた。
「久しぶりね」
 あの妖笑を浮かべることはなく、ねえちゃんはそっとドアを閉めてベッドに歩み寄る。僕は首を正して視線も天井にやり、十数日ぶりに声を発する。
「出ていけ」
「話があるの」
「僕はない」
「嘘つきね」
 僕はねえちゃんを睨みつけた。ねえちゃんは気にせず、ベッドサイドに腰かける。そして、僕の髪に手を伸ばしてきた。
 振りはらおうという意思はあるのに、腕が針金で固定されたように動かない。それどころか、ねえちゃんに髪を梳かれる懐かしい感覚にまた心に雷鳴が落ちて、僕は唇を噛みしめる。
「ひたき、あたし──」
「分かってるよ」
 怯えたみたいに震えそうな声を、必死にたしなめる。
「もう、分かってるよ」
「……ひたき」
「ねえちゃんは最低だよ」
「………、そうね」
「せめてほっとけよ」
 ねえちゃんは息をつくと、僕の髪から手を引いてうつむいた。けれど、ベッドを立ち上がろうとはしない。
 沈黙にすずめの鳴き声が哀しく響く。
 ねえちゃんは顔を伏せるまま、小さな声で言った。
「ひたきが望むなら、かのはとはつきあわないわ」
 僕はねえちゃんを見たけど、ねえちゃんの表情は、頬にかかった焦げ茶の髪が邪魔して窺えない。
「僕が望むならって」
「あたしは、それだけのことをしてきたんでしょう?」
 ねえちゃんが震えているのが、いつもよりばさついた髪の震動で分かる。
「あたしは、ひたきのものだわ」
「かのはにいちゃんが好きなのに?」
「そばにいてくれたのは、ひたきだった」
 僕はねえちゃんの紺色の背中を見つめる。息が切れるような疼痛が胸を冒す。
 そばにいてくれたのは。ねえちゃんは、そんなもろいせりふを吐く人間だったのか。誰かそばにいないと、こんなに崩れそうな人だったのか。
 孤高にいる人だと思っていた。確かにねえちゃんは僕のそばにいた。“あのとき”だけは、ねえちゃんは僕の元に降りてくると思っていた。それは語弊で、“あのとき”だけ、ねえちゃんは僕のそばにいられたのか──
 僕は、いつのまにか呪縛の取れた軆をゆっくりと起こし、ねえちゃんの腕を取った。かえりみてきたねえちゃんは、やっぱり泣いていた。
 僕がいらだちを失ったように、ねえちゃんの涙も憎悪を失っていた。かのはにいちゃんを許しているのが、よく、分かった。
「ねえちゃんは、僕のもの?」
「ええ」
「ほんとに」
「ほんとよ」
「じゃあ……」
 目頭が熱くなって、冷たく頬を伝う。僕はねえちゃんの腕にかけていた右手と、シーツに垂らしていた左手を、そっと持ち上げた。
「殺していい?」
 ねえちゃんはじっと僕を見つめ、感情を見せない。僕は両手で、ねえちゃんの白い喉元を捕らえた。
「殺してもいい?」
「……死刑ってことね」
 すべて委ねたその声に、僕はきつく歯噛みすると、思い切って両手に力をこめた。ねえちゃんは眉を寄せたけど、瞳から雫を落とすまま抵抗しない。力をこめればこめるほど、その代償のように僕の瞳からも雫があふれる。
 涙ならいくらでもあった。何年も押し殺してきた蓄えがあった。ねえちゃんは睫毛をふせ、呼吸と肩をひくつかせ、スカートをつかむ。
 そうだ。僕は殺せる。僕の涙は、こうして喉を絞めつけそうなほどたくさんある。こんな女を殺す力なんて、ありあまっているほど、たくさん──
「……うっ」
 不意に僕は、吐きそうにしゃくりあげた。その拍子だった。
「うあああああああああああっ」
 圧迫された喉から、撃たれた動物のような声が上がった。ついで、腕ががくんとシーツに垂れる。
「……たき──」
「嫌いだよ! ねえちゃんなんか、大っ嫌いだ!」
 何かを離せないみたいにこぶしを握り、僕はねえちゃんの膝に泣き崩れた。急いで階段を駆けのぼってくる足音がする。
 おしまいだ。もうおしまいだ。
 ついに終わるのだ。
「ねえちゃんなんか……」
「……ひたき」
「ずっと……ずっと好きだったけど、もう、こんなの──」
 喉がつっかえて、声が息絶える。激しいノックが頭の中をこだまする。「どうしたの!?」とか何とか聞こえる。
 スカートにも、ねえちゃんのいつもの香水が染みこんでいた。僕の涙が混ざると、その香りは強く空中に立ちのぼった。
 その匂いを一生忘れられない予感に怯えたとき、忌まわしい誘蛾燈だった部屋は、大きく解き放たれた。

第十五章へ

error: