午前零時半
「放課後、残るように」
かったるい六時間目の授業が終わり、帰りのホームルームが始まる前、さりげなくこちらに近寄ってきた担任の辻谷は、そうあたしにささやいた。
あたしはうんざりして横目をしたが、辻谷は何も言わなかったかのように教壇に向かっていく。そして、クラスの誰より夏休みを満喫した浅黒い笑顔で、ホームルームを始める。
四月の自己紹介で、今年で二十六歳だとか言っていた。体育教師のわりにさわやかで、日焼けした肌とほどよい筋肉が調和している。黒目がちの瞳のせいかかわいい感じで、さらに左薬指に光るものはない。言うまでもなく女子に人気だけど、あたしはひとかけらの興味もない。
時間割表の上の時計を一瞥すると、十六時半過ぎだった。あたしは頬杖をつき、辻谷の話も教室のざわめきも聞き流し、すぐ左手の窓を向いた。突き抜ける夏の青に雲が浮かんでいる。
夏、といっても九月に入っているけれど、ねっとりと蒸した気候はまだ夏に等しい。男子はだらしなく開襟シャツを第二ボタンまで外し、女子はぎりぎりまで紺のプリーツスカートを巻いている。あたしは焦げ茶に染めた髪を指先で無造作にいじりながら、砂時計のように耳たぶからこぼれおちる、お気に入りの香水を感じる。
放課後。二学期が始まって、さっそくか。喜ぶ女子はほかにもいるだろうに。
「じゃあ、今日はこのあたりで」
辻谷がそう言い渡すと、一気に教室は騒々しくなった。あたしは頬杖をついたまま、辻谷を一瞥する。辻谷もこちらを見ていた。あたしは鬱陶しくて、ため息混じりに睫毛を伏せる。
あたしに声をかける生徒なんて、もういない。四月には物好きもいたけれど、群れるなんてバカバカしいと嗤笑していたら、そのうち静かになった。今では、あたしはひとり、教室をかけはなれている。
あたしは他人と関わることが煩わしい。だから、教室が空になって、絞首刑の心停止を確認しても十分後にしか縄をほどかないように、間を置いてから歩み寄ってくるこの男には、本当に迷惑している。
「機嫌が悪いのか?」
馴れ馴れしく髪を撫でようとした手をはらいのけ、あたしは背もたれに体重をかけてこまねいた。
「あんたといて、あたしが機嫌良かったことなんてあったかしら」
辻谷は前の席の椅子に寄りかかりながら、微笑んだ。分かっている。彼にはゲームなのだ。これまで落ちなかった女なんていなかったから、かわいくないあたしが楽しくて仕方がない。
「つぐみ」
「名前で呼ぶなって言ってんでしょ」
「素直じゃないな」
こちらに身を乗り出した辻谷の手が顎に伸びてきて、ゆっくり持ち上げる。
「あたしが悲鳴上げたら、どうなるか分かってんの?」
あたしの瞳を瞳で刺しながら、辻谷はもう一度、微笑んだ。
「いつも言ってるだろ。誘ってるのは君のほうだ」
そして、唇を重ねた。柔らかく汗の匂いがした。少し首をかたむけ、舌を忍びこませてくる。あたしは協力しない。
辻谷の手が胸に下り、セーラー服のえんじのスカーフをほどこうとした。そこであたしは、乱暴に彼を押しのける。
「つぐみ──」
「ここまでよ」
あたしは席を立ち上がり、つくえのフックにかけた通学かばんを手にとった。
「あんまりしつこいと、マジで親に言いつけるわよ」
陰っていく窓からの陽射しの中、そう睨みつけても、辻谷は綽然と微笑んでいる。あたしは露骨に舌打ちしたあと、つかつかと教室を出ていった。
親に言いつける。バカげている。あんな親が役に立たないとは、辻谷だって承知なのだ。
むしむしした廊下を突っ切って校舎を出ると、チャイムに直結する時計を仰ぎ見た。十七時になろうとしている。日中は真夏を装っていた太陽も、この時間帯になると衰えはじめる。まばらになった生徒の笑い声を縫って、あたしは帰途に着いた。
生温い風に、髪と香水がそよぐ。教科書はほとんどつくえに置きっぱなしだから、かばんは軽い。虐待された子供の心のように、空の色は確実に暗くなっていった。住宅街まで車道沿いだから、雑音も歩く人の話し声より、行き交う車の騒音が多くなっていく。
ひたきはもう帰宅しているだろう。
ひたきはあたしのふたつ年下の弟だ。小学六年生で、ふまじめなあたしと違って、成績はトップクラスだ。おかげでくだらない嫉妬を受け、イジメられている。あの子は口では何も言わないけど、瞳ではよく物語っている。
あたしが生まれて買ったという家は、団地にまぎれる小学校までは二十分ぐらいだったけど、中学校は真逆の駅前方面にあって登下校に三十分くらいかかる。
家に着いた頃には、月夜が始まりかけていた。遊びまわる子供の影もなく、静まり返っている。
家は真っ暗だった。「ただいま」なんて、虚しいから言わない。あたしはローファーを脱ぐと、ひたきのスニーカーだけ一目する。部屋ね、と思いながら階段に向かい、踏み外さないよう明かりをつけてからのぼる。明かりを消すと、奥のひたきの部屋のドアの隙間が、光をもらしているのが見えた。
部屋に入ると、電気をつけてベッドにかばんを放る。目の前につくえがあって、左にはクローゼットがある。床は冬には絨毯を敷くけれど、いまはフローリングが剥き出しだ。ひとつ息をつくと、制服から私服になる。
口の中に、辻谷の舌の感触が残っている。気持ち悪い。他人なんて、みんなそうだ。親は役立たずでうんざりだけど、別に嫌いじゃない。他人よりはマシだ。
いつからこんな感覚になったのかは憶えていない。けれど、拍車をかけたのは辻谷だ。他人なんか穢れている。
黒のワンピースになったあたしは、部屋を出た。静かだ。でも眠っていないのは分かる。待っているのが分かる。あたしは暗い廊下を奥へと進む。
弟の部屋の前に着くと、ゆっくりと足を止めた。
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