MIDNIGHT-5

午前二時

 十月になって、ようやく気候は、なだらかに秋の匂いをさせはじめた。街路樹の紅葉はまだのようだけど、陽射しに怒りがなくなり、タールでもふくんだように重く揺らめいていた空気は、澄んだ風でさわやかになった。
 その日は土曜日で、学校もなかった。が、僕は部屋でベッドにもぐって、昨日の放課後の山本の言葉に呪われていた。
『お前、女子使って北宮きたみやにチクったな』
 山本の取り巻きが日直で、奴らと僕しかいなくなった教室だった。日が短くなって、教室はオレンジ色になりかけている。黒板に押しつけた僕の胸倉をつかみ、山本は性悪な眼をゆがませた。
『は?』
 北宮というのは、担任の女教師だ。六年生を何歳だと思っているのか、低学年でも受け持っておけばいい、やたら明るい教師だった。
 僕の軽蔑のこもった訝る目が癪に障ったのか、山本は僕の腹に一発入れた。腹にかっと痛みが走り、僕は眉を顰める。
『俺、あいつに呼び出されたんだよ。女子が、俺らはお前のことイジメてるとか言ってきたって』
 僕は内心で舌打ちした。「大丈夫だった?」などべたべたした媚を売ってくる女子連中だろう。しかし、顔には出さず、僕はむしろ笑ってみせた。
『心当たりがないなら、女子に文句言えよ』
 取り巻きのひとりが、僕の足をかかとでにじった。僕は一瞬そちらを睨む。その隙に、山本は僕の胃をどんと殴った。痛みが癌の感染のように広がり、その中に、じわりと吐き気がこみあげる。
『てめえが里見さとみとか使ったんだろ』
『嫉妬してるわけ?』
 胸倉をつかむ力が強くなり、山本の顔が近づく。山本が吐いた臭い息が、直接僕の鼻に入って吐きそうになる。
『ナメてんのか』
『僕からチクるわけないだろ。そんなダサいこと。被害妄想もいいかげ──』
 山本は、いったん僕の軆を自分に引き寄せ、その反動で硬い黒板に僕の後頭部と背中を思い切りぶつけた。後頭部が鈍い音を立て、歯が上下でがくんときしむ。
 僕は痛みに膝を崩し、そのまま汚れた教壇に顔面を抑えつけられた。背骨に渾身の蹴りが堕ちる。
『ざけんなよ! だいたい生意気なんだよ、てめえはっ。どんだけ「死ね」って言えば理解するんだよっ』
 口や舌を切らないように、歯を食い縛った。背中や頭をゴミの体積を減らすように踏みつけてくるのは、山本の上履きだけじゃない。臑を蹴たくられて、喉にうめき声をもらしてしまうと、大袈裟な嘲笑が巻き起こる。
『いいか、日曜も学校に来い。朝の十一時だ。北宮に約束は取りつける。お前の口から、イジメなんかないって言え』
 山本はそう言い残し、取り巻きを連れて去っていった。日直の奴が、僕に教室の鍵を投げつけていった。
 捨て鉢な気分になった僕は、誰もいなくなった教室の教壇で、仰向けになって、薄暗い天井を見つめていた。
 静かだ。早く帰らないと、校門が閉まる。分かっていても、全身がずきずきして無気力だった。山本の動物園のような息が嗅覚から離れず、気分が悪い。それでも僕は、一番星が輝きはじめる前には家に帰った。
 現実に戻った僕は、「何で日曜なんだよ」とつぶやいて、まくらに顔を埋めた。行きたくない。
 山本が怖いわけじゃない。怖いなんて思ったこともない。でも、行かないと山本たちの報復はともかく、北宮がイジメだと判断して、干渉してくるだろう。それは鬱陶しいから、僕は──明日学校に行くのだろう。
「クソっ」
 急に起き上がった僕は、空に向かってののしり、まくらを壁に投げつけた。夕べ、ねえちゃんを犯してしばらくは、落ち着いていたのに。ひと晩眠って、日曜日が迫ってきたら、秒針と共にいらだちがふくれあがってきた。僕は大きな息をぞんざいに吐き、ベッドを降りた。
 時計を一瞥すると、南中を大きくまわっていた。ねえちゃん部屋かな、とまた襲うことを考えながら部屋を出て、どきりと足を止めた。
 ねえちゃんが、階段の手すりに不機嫌そうに頬杖をついていた。一階を見下ろしている。僕を見ると、めずらしく笑わずに、視線を下に戻した。僕は嫌な予感がして、唇を噛む。
「帰ってきてんの」
「……違うわ」
 ねえちゃんに歩み寄った。歩み寄りながら、街中で聞いたことのある、トラックがバックするときの警告音に気づく。
「何?」
「隣、空き家だったわよね」
 僕も眉間に皺を寄せながら、手すりにもたれた。ねえちゃんの香水に刺激されそうになりながら、隣、と思った。
 隣は……そう、だいぶ昔から空き家だ。ずっと昔、僕がまだ幼稚園だった頃には、一家が住んでいた。そこのひとり息子だったのが──
 ねえちゃんを振り向いた。ねえちゃんは艶やかに髪をひるがえし、階段に向かった。僕は追いかける。ねえちゃんが軽やかに階段を降りきったとき、ドアフォンが鳴り響いた。
 冷たい手に心臓をつかまれ、ねえちゃんを見る。前方にある玄関を正視し、ねえちゃんも同じような気持ちを表情に表わしている。
「あいつかしら」
 いつも超然としているねえちゃんの声が、こわばっている。僕はむしろそれで冷静になれて、ちょっとだけ嗤ってやれた。
「仲良かったじゃん」
 ねえちゃんは僕の嗤笑をちらりとし、こまねいた。ねえちゃんがいらいらを抑えようとするときの癖だ。
 しかし、すぐその腕をほどくと、ねえちゃんはつかつかと玄関に向かった。僕も続く。ローファーを履いて、ひと呼吸置くと、ねえちゃんは鍵を開けてドアを開いた。
 階段の下の門扉前にいた人が、ドアの音に顔を仰がせてくる。ねえちゃんと僕を認めると、昔のままであるように、無邪気に透いた瞳が笑みになった。
 スニーカーをつっかけただけで、かかとを踏む僕は、その笑みに嫌悪を覚え、ねえちゃんを一目する。ねえちゃんは無表情のまま、後ろ手にドアを閉めた。
「つぐみとひたきだよな?」
 ねえちゃんは答えずに、数段の階段を降りて、少し首をかたむけた。焦げ茶の髪が、アイボリーのカットソーの肩を流れる。僕は階段を降りずに、上からふたりを見下ろす。
「かのは?」
 ねえちゃんが、やっと声を発する。かなり抑えた声で、僕はぼんやり、昨夜のねえちゃんの喘ぎ声を思い出した。
「そうだよ。良かった、別の人が住んでるかもと思った」
 そう言って微笑んだかのはにいちゃんに、こちらに背を向けるねえちゃんが、どんな顔をしたのかは分からない。とりあえず笑顔ではなかったのか、かのはにいちゃんは首をかしげ、ねえちゃんを見つめ直した。
「何? 何年も音信不通だったから怒ってる?」
 バカじゃないかあいつ、と僕でも思った。ねえちゃんは流れた髪を後ろにはねやると、右手を腰に当てた。
「別に怒ってないわ」
「そっか。良かった」
「………、変わってないわね」
「さっそく憎まれ口かよ。お前はイメージ変わったな。髪染めてんの」
「まあね……」
 鈍感な奴だな、と心で毒づきながら、僕はスニーカーをきちんと履き直す。かのはにいちゃんは、こちらに目を移すと、もう僕には媚にしか見えない破顔をした。ちょっと伸ばしぎみの黒髪が秋風に揺れる。快活そうで、しっかりと肩幅もあって──僕とは人種が異なる男なのが分かる。
「ひたきもこっち来いよ」
 僕が露骨に嫌な顔をすると、かのはにいちゃんが臆する前に、ねえちゃんが振り返ってきて、「ひたき」と呼んできた。僕はわざとらしくため息をつくと、階段をおりる。
「反抗期?」
 僕が幼稚だとも言える、かのはにいちゃんの言葉が気に入ったのか、ねえちゃんは「そうね」とやっといつもの余裕の笑みを見せた。僕がねえちゃんに並ぶと、「へえ」とかのはにいちゃんは感心したように声をもらす。
「つぐみと身長変わんないじゃん。あんなにチビだったのに」
 僕は、頭ひとつくらい差があるかのはにいちゃんを上目で睨み、そば目にかけた。聞こえてきたのは失笑で、僕は忌ま忌ましい気分で舌打ちをこらえる。
 もう、昔のままではないのだ。変わってしまった。何もかも。何でいまさら、昔を混ぜ返すこんな奴が現れるのだろう。
 かのはにいちゃんは、幼稚園児だった僕をよくかわいがってくれた。同い年のねえちゃんとも仲が良かった。その頃は、一応僕たちの両親の仲も良くて、まるで三人兄弟のようだと近所でも評判で──
 取り返しのつかない記憶が不愉快で、僕はこぶしを握り、爪を手のひらに食いこませる。
 ねえちゃんの視線を感じて、顔を上げたときだ。うっすらと耳に残っている女の人の声──かのはにいちゃんの母親の声がかかった。
「かのは! ちょっと手伝って!」
 かのはにいちゃんは左手を向き、「今行く!」と返事した。そして僕たちを向き、「じゃあ」と咲いかけてくる。
「またよろしくなっ」
 手を振ると、かのはにいちゃんは家のほうに駆けていった。僕は無意識に握りしめていた手を緩め、改めてねえちゃんを見た。ねえちゃんは、視覚を壊死させたような、記憶をたどる目をしていた。
 でも、僕に「ねえちゃん」と呼ばれると、驚いた様子もなく首をねじってくる。何かを整理するような息を吐くと、拍子にこぼれた髪のひと房を耳にかけた。
「お昼ごはん食べる?」
「……いらない」
「そう──」
 ねえちゃんは少し爪を噛むと、小さくつぶやいた。
「面倒ね」
 僕はねえちゃんの横顔を見つめたあと、「そうだね」と同じく小さく答えた。ねえちゃんは、僕のほうを見ないまま階段をのぼりはじめ、僕は黙ってそれを追った。

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