MIDNIGHT-6

午前二時半

「じゃあ、つぐみがママでかのはがパパね」
 春の陽射しの元、ピクニックのように敷き物を広げて、買ってもらったばかりのおままごとセットを抱いたあたしは、笑顔でそう言った。かのはとひたきは顔を合わせ、ふたりで「えー」と抗議の声を上げたる。
「『えー』って、何?」
「ひたきはいいけど、俺たちはもう小学生なんだぜー」
「僕だって嫌だよっ。女の子じゃないのに」
 楽しみにしていた時間を、ふたりに一気に否定され、あたしはつい泣きそうになった。それをこらえ、むっとした表情でそっぽを向く。
「じゃあ、ふたりで遊べばっ。つぐみはこれで遊ぶ」
「ふたりじゃ、何してもつまんないよ」
「おねえちゃんも、ひとりじゃおもしろくないでしょ」
「つぐみはこれで遊ぶのっ。やっとパパとママに買ってもらったんだもん」
 あたしはふたりを見ないまま靴を脱ぎ、敷き物の真ん中に座りこむ。そして、プラスチックの食器を並べはじめると、「しょうがないなあ」と視界の端にかのはの足が靴を脱ぐのが見えた。
 あたしが顔を上げると、かのはは敷き物に上がってしゃがみ、あたしを覗きこんできた。
「泣いてる」
「な、泣いてないもんっ」
「おねえちゃん、泣いてるの?」
 かのはの言葉に、急にひたきも心配そうな顔になる。
「泣いてないって言ってるでしょっ。ふたりとももう知らないっ」
「怒るなよ。じゃ、俺がとうさんな」
 あたしは、かのはを睨むように見る。本当は嬉しいくせに、素直になれない。でも、「僕は?」とひたきも敷き物に上がってくると、あたしは茶碗を抱きしめてとまどいはじめる。
「ひたきは子供だろー」
「えー、またあ?」
「じゃあペット」
「やだよっ」
「冗談だって。どうする、つぐみ? ひたきが旦那様になりたいらしいぜ」
 あたしが困ってふたりを見較べると、かのはは噴き出して、ひたきは「分かったよお」とぺたんと座りこむ。あたしが言葉に迷っていると、かのはがこちらににっこりする。
「今日の夕飯は?」
 ──あたしは、はっと目を開いた。開いて、カーテンに陰る天井を見つめて、次第にまぶたは脱力してくる。
 いつもの香水が、いつものベッドの中だと教えてくれる。
 最悪、と思った。何という夢を見ていたのだろう。
 かのは。昨日、かのはがこの街に帰ってきた。
 彼はあたしとひたきの幼なじみだ。大昔、よく三人で遊んだものだけど、小学一年生の夏休み、親の仕事の都合で引っ越していった。完全に忘れていたのに、いまさら戻ってくるなんて──
 肩幅や身長の体格は見違えたけど、無邪気な瞳やさらさらの黒髪は変わっていなかった。中身もあんまり変わってなさそうだったわね、とあたしは眠気が沈殿して重たい額をさする。
 一瞥した時計は、午前十一時になろうとしていた。迷惑な奴が出てきたわ、と起き上がりながら内心でぼやく。あたしやひたきにとって、無垢だった過去は近親相姦よりタブーだ。
 昨晩の夕食どき、あたしとひたきは、ダイニングのテーブルでビーフシチューを食べていた。不意にひたきが『どうするんだよ』と言った。あたしはひたきを一視して、何とも答えなかった。
 ひたきは明らかに腫れ物のようになっていたから、今夜も部屋に来るのかしら、と思っていたけど来なかった。あたしも昨日したばかりだったし、学校に行って辻谷と接触したわけでもないから、ベッドで本を読んでひとり夜更かししていた。
 今日は、読む本が尽きたので本屋に行くつもりだった。今月のお小遣いは口座に入ってるはずだし、と髪に櫛を通す。まあ、午後になってからでいい。まず着替えなきゃ、とベッドから降りた。
 黒無地のニットセーターに赤のタータンチェックのスカートになって、一階に降りた。しんとしていて、人の気配はなかった。ひたきは部屋かしら、と思ったら、スニーカーもなかった。
 出かけたのだろうか。めずらしいわね、とあたしは小さなあくびを噛む。まさかかのはのところとか──それはないか、と身を返して、洗顔をしにいく。
 簡単な朝の習慣が済むと、甘めのカフェオレを片手に、バタートーストをかじった。日曜日。明日は学校だ。トーストはふんわりと香ばしいのに、初めてコーヒーを飲んだ子供のような苦々しい顔つきになってしまう。
 辻谷は、金曜日のことを責めてくるのだろうか。責められる義務なんかないのに。あたしはあいつの、恋人でも母親でもない。甘ったれるのは顔だけにしてほしい。
 買い言葉かもしれないが、限界だとかもらしていた。処女を実の弟にやったあたしが、貞操のことなんてどうこう言えないかもしれないけど、ひたきと寝るより辻谷と寝るほうがぞっとする。いや、ひたき以外みんな気持ち悪いのだ。
 そんなことをぼんやり考えつつ、朝食を終えかけたときだ。玄関のほうで、物音がした。
 ひたきかしら、とトーストの最後のひと口を飲みこみ、カフェオレは飲みかけのままシンクに置く。手をはらってダイニングを抜け、玄関を覗くと「あ……」と声がこぼれた。その声に顔を上げたのは、荷物を提げたかあさんだった。
「……おかえり」
 低い声で一応言うと、かあさんは「ただいま」とこちらを見もせず荷物をどさっとおいた。徹夜でもしていたのか、アップにしている髪はややほぐれ、ベージュのツイードスーツもくたびれている。
 あたしもひたきも、かあさんに似ている。気の強い、何か潜ませたような目、つんとした口元、白い肌──
 耳を澄ますと、車の音がしている。
「とうさんは」
「すぐ来るわ。あげるものは何もないわよ」
「……別にいらないわ」
「ひたきもいるの?」
「出かけてるみたい」
「そう」
 かあさんはハイヒールを脱ぐと、置いたばかりの荷物を両手に持ち上げた。そのとき、かあさんの背後でドアが開き、車のキー以外手ぶらのとうさんが顔を出す。
「何だ、まだこんなところでもたもたしてるのか」
「うるさいわねっ。あなたが手伝わないからでしょう」
「俺は運転して疲れてるんだ。お前の仕事だろう」
 あたしがうんざりしたため息をつくと、とうさんはそれであたしに気がついた。とうさんはいそがしい仕事の合間にジムに通ったりしていて、通勤ラッシュにいるようなおっさんのように老けこんでいない。年齢より、だいぶ若く見える。
「つぐみ。久しぶりだな」
「そうね」
 それ以上、会話は続かない。それに困った様子もなく、とうさんはかあさんをなじって、かあさんは反抗的に言い返す。
 ひたきは予知でもして出かけたのかしら、と両親に遭うと必ず部屋に来る弟を想う。喧嘩する両親するに聞こえるかどうかはともかく、「あたしもすぐ出かけるから」と残して、あたしは二階に上がった。
 ほんとバカみたいな親、と胸でつぶやき、駅前に行く支度をする。辻谷にいらいらして無神経になったあたしには、かわいらしいくらいだけど、繊細なひたきには耐えがたいようだ。出ていくまで帰ってこないことね、と祈ってやりながら、リビングで低レベルに口論するふたりを無視し、あたしは家を出た。
「つぐみ」
 やや曇り空で肌寒かった。外まで喧嘩聞こえてるじゃない、と眉をひそめながら鍵をかけていると、名前を呼ばれた。振り返り、口角がぴくりと動く。門扉の向こうにいたのは、かのはだった。
 あたしはいったんドアを見て、少し舌打ちすると、やたらついてないわね、と心中毒づきながら階段を降りる。かのはは心配なような困惑したような様子で、あたしが背にしたドアを一瞥する。
 あたしはかんぬきを上げて、門扉を開きながら、「何か用?」とかのはを見上げる。
「あ、いや、車の音がしたから。おじさんたちかなって」
 両親の怒鳴り合う声をちらりとして、道路に出ると門を閉める。ライトグリーンの編みあげのミュールが、大人びた音を立てる。
「とうさんたちに、用事でもあるの?」
「挨拶とか」
「………、邪魔しないほうがいいわ」
「どうしたんだよ。喧嘩?」
「いつもよ」
「いつもって。あんなに仲良かっ──」
「昔のことよ」
 冷たくさえぎったあたしに、かのはは子供のままのような瞳をまごつかせる。あたしは、肩にかけたリュックのストラップを無造作にかけなおした。
「変わったのよ。あたしも、ひたきも、両親も」
「変わったって──」
「関わらないでちょうだい。迷惑だわ」
 そう言い捨てると、あたしは歩き出した。「待てよ」と腕をつかまれ、あたしは素早くはらい落とす。
「何よ」
「迷惑って言い方はないだろ。俺は、」
「あの頃とは違うの。あんたは変わってないみたいだけど、あたしたちにそれを押しつけないで」
 あたしのトゲのこもった眼に、かのはは臆して、立ちすくむ。あたしは再び歩き出し、かのはの家の前も通り過ぎていった。
 肩に視線を感じるけれど、感情は抑えつけて、振り向かずにきっと前を見据える。そして、ひとつ目の角に当たると、目を伏せて曲がった。
 そうだ。変わってしまった。両親は喧嘩だらけだし、ひたきはイジメられて神経過敏だし、あたしは世界を外れて他人を軽蔑している。
 ひたきの言う通り、あたしたちは真夜中にふらつく蛾なのだ。春の陽射しの下では疎まれる。今朝見た夢のような温かい関係は砕け散り、それは今では、触りたくもないゴミになった。
 あたしが許せるのは、ひたきだけだ。それ以外はゴミだ。そう、あたしにはひたきだけ──

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