午前三時半【1】
その転校生が、辻谷にうながされて教室に踏みこんできたとき、教室の女たちが色めくのが分かった。
あたしは青い窓に目をやって、最悪、と内心つぶやく。まさか同じクラスだなんて──
あたしがちらりとしたとき、かのはもこちらを見ていた。とりあえず昨日のことを気にしているのか、気まずい色が頬によぎる。あたしは鼻で笑っておいて、また秋晴れを見あげた。
昨日の名残の雲はあるけれど、その色はうさぎのように白く、薄くたなびいている。でも、登校のときはちょっとびっくりするくらい風が冷たくて、マフラーでもしてくるんだった、と悔やんだ。
今、転校生にざわめく教室でも、学校指定のださいウィンドブレーカーを着ている子がいる。あたしはあのウィンドブレーカーは嫌いなので、真冬にはセーターのカーディガンを持参して着るつもりだ。どうせ辻谷は、あたしには文句を言わないだろう。
そういえば辻谷とも面倒なままだったわね、と思い出して頭が痛くなる。今日は呼び出しだろうか。気色の悪い教師だ。また一週間も他人の中で生活なのね、とかのはの自己紹介も聞かず、つくえに伏せりたくなる。
頬杖で首をかたむけると、うなじに香水がこぼれる。あたしは昨日ひたきに攻められたあたりに触れ、残ってないわよね、と心配になる。
昨日のひたきは必死だった。ぜんぜん優しくなかったし、乱暴なのは、むしろいつもだ。でも、昨日はその中に何だか──あの子特有の、軆を交じえながらも残っている心の距離感がなかった。
午前の留守も、ただのおでかけではなかったのだろう。終わったあと、あたしを抱きしめて、じっと黙っていた。やっと保護された虐待されてきた子供のようで、あたしも黙ってひたきの頭を撫でていた。
泣き出すんじゃないかとも思ったけど、それはなくて、突然あたしを突き放すと「もう寝る」と言った。あたしは服を拾って、ひたきの部屋をあとにした。
今朝の様子は、いつも通りの、無表情の裏にいらだちを隠し持っている感じだった。なので今は、今日こそイジメっこを殺すんじゃないかしら、という心配くらいしかしていない。
自己紹介を終えたかのはが、辻谷にしめされた男子列の窓側の一番後ろの席に向かってくる。このクラスの席順は、廊下側の男子列で始まり、窓際側の女子列で終わる。
かのははあたしのかたわらを通るとき、足を緩めた。あたしはかのはをちらっと見ると、「よろしく」と小さく言った。かなりぶっきらぼうだったが、それでもかのはは無視されるより嬉しかったのか、うなずいて自分の席に行った。バカみたい、とあきれたくなる楽天家だ。
どうやら、このクラスでかのはを知っているのは、あたしだけではなかったらしい。辻谷がいったんあたしたちの前を去り、一時間目の体育に備えて男子が体操服を持って教室を出るとき、「憶えてる?」と話しかけている男子がいた。
かのははその男子と楽しそうに教室を出ていったので、憶えていたのだろう。そいつと仲良くやって、あたしには関わってほしくないものだわ、とつくえに体操服を広げると、えんじのスカーフをほどく。
今日の授業は、運動場で男女共に長距離走だった。十周を終えた者から、地獄を解放される。走りながら辻谷を怨みがましく見ると、満足そうににやりとされた。
これが奴なりの“おしおき”か。最低ね、と毒づきながら、何とかクラスメイト残り半分くらいで十周終えた。
「つぐみ」
息切れを肺からこらえながら座りこんでいると、ほてった背中に名前を呼ばれた。この学校で馴れ馴れしくあたしの名前を呼ぶ奴は、ひとりしかいない。「悪趣味ね」と顔も見ずに言うと、「は?」とか返されたのがいらっときて顔を上げると、そこにいたのはきょとんとしたかのはだった。
「え、と。悪趣味、って──」
「……気にしないで。ほかの奴と思っただけ」
「そ、そっか。ほかの奴ってことは、じゃあ、友達はいるんだ」
「友達に『悪趣味ね』なんて言ったりする?」
もう息切れもないかのはは口ごもり、新品の体操服を居心地悪そうに触る。この中学は、男子も女子も夏服はTシャツにハーフパンツ、冬服はトレーナーとジャージだ。女子はあたしも含めて冬服が多いが、男子は夏服を着ていたりする。かのはもそうだ。
「友達とか、いないのか」
「いないわ」
「できないのか」
「作らないのよ」
「何で。寂しくない?」
「鬱陶しいだけよ」
かのはは、あたしのかたわらにしゃがみこんだ。あたしは、まだ色づかない息を大きく吐くと、かのはを向いた。
「言ったでしょ、あたしはもう──」
「変わったんだろ。悪かったよ。家のことも。今があんなだったら、昔のこと掘り返されるのなんかつらいよな」
とっさに、言い返せなかった。つらい? いや、つらいなんて、そんなの思ったことは──
「無神経だったかな、って思って。ごめん」
あたしはうつむいた。ちょうど肩をすべりおちた髪が顔を隠してくれる。
「つぐみ?」
「別に、かのはが謝ることじゃないわ。ただ、あたしたちに関わらなければいいだけよ」
「………、それって、俺といると昔のこと思い出すから? それとも、俺のこともう嫌いだから?」
あたしは、冷えていく手をぎゅっと握って、爪を手のひらに食いこませた。朝に塗ったいちごのリップクリームが味覚に染みる。
なぜ、そんなことを訊くのだろう。いや、なぜも何もない。嫌いだからだ。そうだ。他人なんてみんな──
「おい」
突如割りこんだ不機嫌な声に、あたしもかのはもかえりみた。いつになく厳しい表情をした辻谷だった。その眼光はかのはに向く。
「私語は禁止だ。黙って並んでおけ」
かのはは一瞬地面を見たものの、「すみません」と素直に立ち上がり、男子の列に戻っていった。ちなみに、あたしは女子の列なんかに並ばず、勝手に外れている。かのはをぼんやり見送ったあたしに、辻谷は言い残していった。
「お前は放課後、残れ」
あたしは軽蔑をこめた仏頂面で辻谷を見上げたが、辻谷はあたしを見ずに、まだ走っている生徒の応援に行ってしまった。
放課後。やっぱり。
転校生に初日の感想でも訊いてなさいよ、と舌打ちがもれる。かのはがこちらを申し訳なさそうに見ている。あたしはそれは無視して、全員が走り終えるまで冷たい土ぼこりを睨んでいた。
空を眺めたり爪を磨いたりしていたら、つまらない学校での一日は終わった。こうして、洗剤に浸けたように、真っ白に何も残らずに毎日が過ぎていく。
かのははあたしにあの質問の答えを訊きたそうだったけれど、例の男子につかまって、近づいてこれないようだった。「じゃあ、今日はこれで」といつも通り胡散臭い快活な笑顔で言い渡した辻谷は、めずらしくそのままあたしの席に直行してきた。
「生徒指導室を借りてある」
ラブホテルで部屋を取っているような言い方だ。あたしはわざと大儀そうに息をつくと、ゆっくり席を立ち上がった。
そのとき、「先生!」という声がかかった。辻谷はさっきもやっていた胡散臭い笑顔で振り返ったが、相手を見て、わずかに頬を痙攣させた。通学かばんを手に取ったあたしも、声の主を確かめて頭痛を覚える。
すっかり親友然の例の男子を制してきた、かのはだった。
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