ミルク-1

アイドルの罠

香春かわらさんって、けっこうかわいいよね?」
 通学路の桜並木は、葉桜になりかけている。
 高校生になって二週間が過ぎたけど、クラスに友達らしき友達はいない。別に無理に欲しいとも思わない。私はこの進学校には、大学への布石として入学しただけだ。
 放課後、その日もさっさと帰ろうとしていたら、突然背後から呼び止められた。訝って振り返ると、挨拶さえしたこともない、でも美人だと評判なクラスメイトの女子がいた。
「何?」と私が眼鏡の奥で目を眇めると、彼女はいきなりそんなことを言ってきた。
「体育の授業の着替えでも、スタイルよかったしさ」
 何を言い出すのかと思っていると、彼女はにっこりしてきた。
「ねえ、眼鏡取ってみてよ」
「……取ると、何も見えないから」
「素顔見たいだけだよ。ねー、お願い」
 面倒だな、と眉を顰める。
 ここで眼鏡を取るのも得意げだ。躊躇っていると、彼女は手を伸ばし、私の眼鏡を取り上げてきた。
 急に視界がぼやけて、「ちょっと、」と取り返そうとしても、「わあっ」と彼女の妙に嬉々とした声にすくむ。
「やっぱ、すっごいかわいいじゃんっ」
 何なのだ。私がかわいくてもかわいくなくても、彼女には関係ない。
「ねえ、香春さん、放課後って用事ある?」
「眼鏡返して」
「質問に答えてから。放課後、あたしとお茶しない?」
「あのねえ──」
「お願いっ。話があるの」
「話ならここでいいじゃない」
「香春さんだけに聞いてほしい話なの」
 鬱陶しいなあ、と思っても、とりあえずうなずかないと眼鏡を返してもらえそうにない。「分かったから眼鏡を」と言うと、「やったっ」と彼女は私の顔に眼鏡をかける。
 ずれていたので角度を直していると、彼女はかばんをすぐに取ってきて、「じゃあ行こっ」と私を引っ張って教室を出た。
 終礼したクラスの生徒が、靴箱へと廊下を流れている。紛れこんではぐれたいけれど、彼女は私の手首をぎゅっとつかんでいる。
 この人、名前は何だっけ。千美さん、だったろうか。そう、千美ちえみ繭香まゆかさんだ。
 男子がよく騒いで、見蕩れているのを見かける。艶やかなセミロングの髪、長い睫毛が映える瞳、白い肌にすらりとした肢体、折れそうな腰つき。
 こんな美少女に「かわいい」と言われても、あなたほどではないと卑屈になるのだけど。
 上履きを靴に履き替えて校舎を出ると、穏やかな青空が広がって、暖かな風が花壇の香りを踊らせていた。校門を抜け、花びらがふわりとひるがえる桜並木を歩いていく。
 そして私は、結局逃げられずに、高校最寄りの駅のカフェで千美さんと向かい合っていた。
「私ね、学校には内緒なんだけど、アイドルやってるの」
 ホットのカフェラテをすすって、何の用だろうと思いながらも千美さんと目も合わせずにいると、ココアを飲んだ千美さんはかばんをあさって、薄い雑誌をテーブルに広げてそんなことを言った。
 アイドル。雑誌に目を落とすと、女の子の写真とプロフィールが並んでいる。その中のひとつを千美さんは指さし、それを見ると、にっこり咲っている制服のような衣装を着た千美さんがいた。
 私はやっと千美さんのことを一瞥する。
「……芸能人なの?」
「んー、どうなのかな。地下アイドルだよ。“コンデンスミルク”っていって、ライヴやって、握手会とかチェキとかしてるんだ」
「はあ」
「あたしはみるたんって呼ばれて、センター推してもらえてるんだよ」
「みる……たん」
「ほら、あたしって名字を千美を千に美しいって書くでしょ。千はフランス語でミルじゃん」
「……そうだね」
「楽しいよー。ファンには君が生きがいだよとか言ってもらえるし。そう言ってもらうのがあたしの生きがいだな、今は」
 私はカフェラテに口をつけ、そしてだから何だろう、と思う。私に自慢するのは勝手だけども、私は千美さんがアイドルだなんて興味はないし、別に嫉妬もない。
 むしろ物好きだなあと感じる。握手とか、相手はヲタクなのだろう。そんな人の手を握るなんて、気持ち悪いではないか。
 私の無関心を見取った千美さんは、ふうっと息をついてから、雑誌を閉じて身を乗り出してきた。
「香春さんなら、いけると思うんだ」
「は……?」
「もしオーディション受けてくれるなら、プロデューサーにはあたしから言うから。絶対合格するように」
「……何言ってるの」
「だからー、一緒にアイドルやろうよ。優等生キャラって、まだうちのグループにいないしさ。絶対受けるよ」
「いや、興味ない──」
「あたしも初めは興味なかった。でも、やってみたらすごく楽しいの。あたし、香春さんと頑張りたいんだよ」
「友達を誘ったらどうなの? いるでしょ」
「友達は友達で好きだけど。みんなブスだからダメ。香春さんはめちゃくちゃかわいいの、マジで。根性もありそう」
 私はため息をついて、席を立とうとした。
 すると、また素早く眼鏡をかすめ取られた。
「ちょっ──」
「もうマネージャー呼んでるんだ。話だけでも聞いて」
「そんなの、やりたい人がやることでしょ。私は今は勉強が一番なの」
「そんなのもったいないよ。ねえお願い、一緒にやろうよ」
「ひとりではできないことなの? 私たち、今日初めて話したくらいなのに、頼られても困る」
「一年生で、あたしの次にかわいいのは香春さんだもん、絶対。だから、一緒にグループ盛り上げてほしいの」
「誰か連れてこないと困るってものでもないでしょ」
「香春さんのことは、個人的に逃がしたくない! いいライバルになれると思うの」
 ああ、もう!
 この人は何を言っているのだろう。というか、眼鏡を本当に返してもらわないと。すべて霞んで見えるほど、私は本当に視力が悪いのだ。
 何とか手を伸ばして眼鏡を取り返そうとしても、「ダーメっ」と千美さんはひょいひょいと私の手をよけて、眼鏡を返してくれない。
 私は仕方なく椅子に座り直し、いらいらするのをカフェラテを飲みこんで抑える。
「香春さん」
「……何」
「あたし、香春さんのこと、かわいいって言ってるんだよ? アイドルやれるぐらい。喜んでよ」
「私は、そういうの興味ないから」
「興味持ったら、香春さんなら世界変わるよ」
「大学に進むのが大事だから」
「高校生になって一ヶ月も経ってないのに、大学の話なんてしなくていいよ。もっと夢見なよー」
「千美さんがひとりで努力すればいいことじゃない。私を巻きこまないで」
「えー、どうして喜ばないの? あたし、香春さんのことをね──」
 千美さんがそこまで言いかけたとき、「まゆちゃん」とこちらに声をかけながら、テーブルに誰かが近づいてきた。
 目を細めて見ると、スーツがぼんやり見えたから、男だろうか。「生田いくたさんっ」と千美さんが声を弾ませ、「話してた子、連れてきたよ」と続ける。
 私は迷惑を顔に表すまま、その男が千美さんの隣に腰を下ろすのを見る。顔立ちも表情も分からないけど、視線の感触で私を見定めているのは分かる。
「へえ」と笑いを含んだ低い声が聞こえた。
「かわいいね。すごい顰めっ面だけど」
「眼鏡なんだよ、普段は。これ」
「なるほど。うん、いいね。眼鏡キャラも悪くない」
香春かわら優真梨ゆまりちゃんっていうの」
「かわいい名前だな。よし、分かった。じゃあ、ここで話しても何だから、事務所行こう」
「ちょっ、ちょっと待ってください。私、そんなこと興味ないので──」
「まあまあ、話だけでも聞いてよ。まゆちゃんが認める女の子ってめずらしいんだから」
「いえ、そもそも、親が絶対に認めないので」
「親に隠してやればいいじゃん。そういう子もいるよ?」
「千美さん、はっきり言って迷惑なの。眼鏡返して、こんなのはあきらめて」
「えー、事務所に一緒に行ってくれないと返せないなー」
「あのねえ、」
「まゆちゃん、まあ、眼鏡は返してあげて」
「えー」と千美さんは声を上げたものの、「大丈夫だから」と男に言われて、おとなしく私の手に眼鏡を握らせた。私は渋面に眼鏡をかけると、とっとと立ち上がろうとした。
 けれど、すぐに手首を生田という男に握られる。やっと顔立ちが見取れて、三十代くらいのホストみたいな男だと分かった。
 私は、千美さんを見た。
「あんまりしつこいなら、学校にアイドルなんかやってること、話すよ?」
「えー、こわーい。生田さん、早く連れていこ」
「話せば気が変わるよ、ね、優真梨ちゃん」
「すみません、ほんとに困る──」
「さあ行こっ。大丈夫、香春さんなら人気獲れて、すぐに楽しくなるんだから」
 抵抗しようとしても、左右を千美さんと生田に固められて、そのままカフェから連れ出された。千美さんはともかく、生田の力に敵わない。

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