言うことは聞かない
翌日、はっと目が覚めたときには午前八時をまわっていた。すずめが鳴いて、まばゆさはカーテンが抑えていてもじゅうぶん部屋の中は明るい。
どうしよう、と思わず焦りが渦巻く。家にいったん帰る? とりあえず学校に行く? あるいは──。
私は首を横に振って甘えたことは考えず、ふとんから這い出た。芽衣奈さんが貸してくれた服を脱ぐと、制服を着て学校に行こうと決める。でも、鍵の場所なんて分からないから、黙って出ていくより、申し訳なくとも芽衣奈さんを揺り起こす。
芽衣奈さんはうめいて目をこすり、「何ー……?」とろれつのまわっていない口調で応える。
「あの、私、これから学校行くので。でも、玄関の鍵開けっ放しにしてるのも危ないですし」
「ん……何、学校行くの?」
「一応行きます」
「サボればいいのにー……」
「また来ます。安桜さんのところにも行きます」
「んー、分かった……え、鍵? あー、そっか……」
まだ寝ぼけている様子ながら、芽衣奈さんはふとんを出てふらふらと玄関に向かう。私はかばんを持ち上げてそれを追いかけ、「どうぞー……」と鍵を開けられた玄関のドアノブをおろす。
「じゃあ、泊めてくれてありがとうございました」
「ん……またいつでも来て」
「はい。じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃーい……ふわあ」
大きなあくびした芽衣奈さんに咲ってしまいつつ、私はアパートを出た。
太陽が白く輝き、その光が早くも暑い。道分かるかな、と心配したものの、昨夜のファミレスがちょうど目印になって、安桜さんの事務所のビルの前に着いた。ここからは安桜さんにも案内してもらったこともある道だ。
まっすぐ駅に向かって電車に乗り、ホームルームが始まる八時半はまわってしまったものの、何とか学校に到着した。
誰もいなくなった靴箱で上履きに履き替え、教室に向かう。廊下もほとんど静まり返って、ホームルームを行なう先生たちの声だけが漠然と流れている。
自分のクラスの教室の前で、閉まっているドアに、これ開けて入るの勇気いるな、と逡巡してしまう。ホームルームを終えて、先生が出ていくのを待とうか。そして、一時間目が始まるまでの一瞬に教室に混ざればいい。クラスの人は、別に私になんか目を止めないだろう。
そうしよう、と身を返しかけたのに、その瞬間、背後でドアが開く音がした。はたと振り向き、同時に教室から担任の先生が出てきて、「香春!」と先生は驚いた声を上げる。
やばい、と身をすくめたけれど、思いがけず、がしっと両肩をつかまれて心配そうな顔で覗きこまれる。
「大丈夫だったのか」
「大丈……夫、です、けど。あの、私──」
「昨夜帰らなかったって、朝に親御さんから連絡もらって先生も心配してたんだぞ。何をしてたんだ? お前のことだから、遊んでるっていうのはないだろうと親御さんに言っておいたが」
「あ、……えと、友達……と、勉強を」
「友達? クラスの奴か? お前の行方を知ってるって奴はいなかったが」
「中学時代の、友達です。久しぶりに会って、くつろいでたから、そのまま友達の部屋で寝ちゃって」
「本当か?」
「本当、です。それで、時間がなかったから、家に帰るより学校にとりあえず来ようって急いで」
「そうか──。よかった、無事で。何か事件にでも巻きこまれたのかとも考えたぞ」
「すみません。今日はちゃんと家に、」
「いや、今日はもう家に帰りなさい」
「えっ? で、でも」
「親御さんも心配してるだろうからな。お前の成績なら、一日休んでもすぐ取り戻せる」
「だけど、試験前ですし」
「何なら、今日のぶんのノートは先生がコピーもらっておく。とにかく、親御さんに顔を見せてあげなさい。寝ずに帰りを待ってたみたいだから」
心配。寝ずに待っていた。
本当、だろうか。あの両親が? 面倒事だといらいらしていたわけではないの?
だとしたら、悪いことをした……かな。「じゃあ」と私が顔を上げると、先生はうなずいて私の肩をたたく。「失礼します」とお辞儀して、私はきびすを返して階段に向かった。
まだ少し混んでいる電車で、自宅の最寄り駅まで揺られながら、両親にも友達の家で通用するかなあと不安になる。その友達の名前を出せと言われたらどうしよう。芽衣奈さんの名前で一応ごまかしてみるか。
本当に心配なんかしてるのかな、と膝の上のかばんを抱きしめる。確かに、無断外泊なんて初めてだけれど。でも、怒っているだけなら、わざわざ学校に連絡はしないか。
そう思いながら、地元に着くとまっすぐ家に帰って、恐る恐る鍵を開けてドアを開いた。
「ただいま……」
そう声をかけてみると、家の中から物音がして、足音が近づいてきた。「優真梨!?」とおかあさんの声が続き、私は後ろ手にドアを閉める。そしてすぐにおかあさんがすがたを現し、その厳めしい表情で、あ、とすぐに分かった。
「やっと帰ってきたの! ひと晩じゅう何をしてたの!?」
「えと、あの──」
「学校から連絡来たけど、友達の家なんて本当なの? そうだとしても、電話くらい出れるでしょう!? 人の家で寝ぼけるくらいなら、勉強は家でやりなさい!」
「……でも、」
「おとうさんも、学校に連絡もらってやっと仕事に行けたのよ。何でこんな迷惑をかけるの!」
私は顔を伏せた。
迷惑、か。心配じゃなくて、迷惑。
私は唇を噛むと、いつもの「ごめんなさい」さえ言えずに、靴を脱いで黙って部屋に行こうとした。すると、おかあさんが私の腕をつかんだ。
「離して、」と顔を上げた途端、左頬で痛みが破裂した。私は引っぱたかれた痺れを抑え、おかあさんを見る。眉を顰めて、瞳はいらいらと濁って──
私はおかあさんを壁に突き放して、叫ぶように言った。
「帰ってこなきゃよかった!」
「なっ……」
「こんな家大っ嫌い、学校も嫌い……逃げたくもなるよ、私の気持ちなんて、みんなぜんぜん考えてくれない!」
おかあさんの顔が、怒りで赤くなっていく。
でも、何かわめきだす前に、私は部屋に入ってばたんとドアを乱暴に閉めた。そして、かばんをベッドに投げると、すぐにクローゼットから大きなバッグを引っ張り出す。
部屋を見まわして、目についた必要なものを投げこんでいく。着替え、充電器、通帳や印鑑も、かばんがぱんぱんになるまで詰めこんでいく。最後に、通学かばんから財布やスマホを抜き取って移し入れると、それを力をこめて抱えて背負いこみ、部屋を出た。
おかあさんがまだ玄関にいて、荷物を抱えた私に目を開く。
「優真梨、」
「さよなら。私、もう行くあてもあるから」
「な、何言ってるのっ。そんなの、どうせ相手には迷惑──」
「私のことを迷惑なんて言わない人が、もういるの! ほっといてよ、こんな家うんざり!」
「落ち着きなさいっ。おとうさんに何て言うの、帰ってきて優真梨がいなかったらおとうさんが怒る──」
「おかあさんが怒られておけばいいじゃないっ。私は関係ない!」
おかあさんを押し退けて、玄関で靴を履いて、ドアを開けた。よろめいたおかあさんが私の名前を呼んだけど、無視してエレベーターに駆け出す。
さいわい、私が乗ってきたまま六階で停まっていて、すぐ乗ることができた。一階に降りて、駅までは走ることにする。
走りながら、涙が出てきた。
ああ、少しだけ、ほんの少しだけ、期待したのに。私が無事に帰ってきて、せめて咲ってくれるかなって。でも、やっぱり顰め面だった。おとうさんだってそうなのだろう。
私は、あの家で愛されていない。ただ縛られてきただけだ。二度と帰るものか。私には、私のことを守りたいって言ってくれる人が、もういるんだから──
電車に乗って、安桜さんや芽衣奈さんのいる街のそばの駅で降りて、とりあえず安桜さんの事務所に向かった。午前十時が近い。事務所のドアには鍵がかかっていて、安桜さんが留守なのか寝ているのか分からなかったけど、とりあえず地面に座りこんだ。
今はまだスマホは動いているけど、もしかして止められるかもしれないなあなんて思う。当然ながら、親の名義だし。動くうちに一度電話しておいてみるか、と安桜さんの番号を呼び出して、躊躇ったものの、思い切って通話ボタンをタップした。一コール。ニコール。三コールの途中で、『こちら安桜』と声が聞こえてきた。
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