ミルク-12

心で生き残るのは

 そんなふうに過ごしていた雨音が響く日、安桜さんは外から帰ってきてPCで報告書を作成し、私は乾燥までかけた洗濯機が止まるのを待って、事務所のソファで新しいスマホの操作を手になじませていた。
 こん、と事務所のドアにひかえめなノックが聞こえて、私と安桜さんと顔を合わせた。「お茶用意しといて」と言われて私はうなずき、奥のワンルームの台所に行く。冷たいお茶、温かいお茶、どちらがいいだろう。雨で蒸してるしひんやりしたほうがいいか、と緑茶のティーバッグを湯飲みに水出しする。
 それをお盆に乗せて事務所に帰ると、いつも芽衣奈さんが腰かけるソファに、誰か座っている。「あ、あの子が優真梨ちゃんだよ」と安桜さんは私を見返り、首をかしげながら私はテーブルに近づく。「どうぞ」とお茶を出してその人を見て、あ、と思った。
 白い肌、長い睫毛が縁取る瞳、華奢な軆の男の子──絃音さんだ、とすぐ分かった。
 絃音さんは私を見て、頭を下げた。絃音さんの目の色に、思わず息を飲んでしまった。井戸の湿った底みたいな、すごい闇だった。あのDVDでは、はにかんでかわいらしく咲っていたのに、笑顔になることがあるなんて信じられない。
 長袖のTシャツを着ていても、手首に目をやると赤い線が見て取れる。ぼろぼろになっている、という芽衣奈さんの話がよみがえった。
「この子ね、芽衣奈ちゃんがすごくかわいがってくれてるんだよ」
 安桜さんは屈託なく絃音さんにそう言って、私の背中をぽんとたたく。
「メイちゃん、が」
 声も張り合いがなく、哀しそうに沈んでいる。
「化粧とか教えてもらってるんだよね」
「あ、はい。いつもお世話になってます」
「メイちゃん、女の子の友達、久しぶりかも……」
「そうなの?」
「俺が昔、メイちゃんの親友とつきあってから、メイちゃん女友達持たなくなった」
「え、それはまずいでしょ。芽衣奈ちゃんショックじゃん」
「……うん。傷つけた」
 絃音さんはうつむき、「いただきます」と言ってからお茶に手を伸ばしてひと口飲みこんだ。
「芽衣奈ちゃんとは約束してるの?」
「うん。十二時くらいにここに来るって」
「あと一時間か。ま、ゆっくりしていきなよ。優真梨ちゃん、話相手になれそう?」
「私でよかったら」
 絃音さんは、私を見上げる。虚ろな濁った目で、底冷えするような怖さがあったけど、芽衣奈さんに絃音さんがそれだけの瞳になる理由は聞いているから見つめ返す。絃音さんは「メイちゃんの話、聞きたい」と言って、私は安桜さんと目を交わすと絃音さんの正面に腰を下ろした。
「ゆまり……さん?」
「あ、はい。香春優真梨です」
「初めて、名前聞いた」
「ここ知ったのも、最近なので」
「今は、安桜さんの秘書?」
「ただの家事手伝いです。家にいづらくなっちゃったから」
「そっか。俺も、家はつらかったことしか憶えてない」
「えと、芽衣奈さんと同じ施設でしたっけ」
「施設に引き取られる前は親と暮らしてた。殴るのがひどかったから保護されたんだ」
「そう、なんですか」
「メイちゃんはおとうさんもおかあさんもどこかに行っちゃって、家にひとりぼっちになってたところを保護されたんだ」
「……初めて聞きました」
「だから、俺はメイちゃんのそばにいてあげたいのに。いつも、うまくできないけど」
「……えと、芽衣奈さんの親友とつきあったって、さっきも言ってましたけど──それは、その人が好きだったんですか?」
 絃音さんは首を横に振り、「俺よりもメイちゃんに近づこうとしたから、引き離したかっただけ」とお茶を飲む。
「メイちゃんにひとりぼっちになってほしくないのに、メイちゃんが俺以外の人といると苦しいんだ」
「あ、じゃあ、何か私、すみません」
「……大丈夫。俺を置いて、その人と遊びにいったりしてたのが嫌だったから。友達になるくらいなら、平気」
「芽衣奈さんのこと、大事なんですね」
「うん。好き……」
 私は絃音さんを見た。
「好き、って芽衣奈さんには伝えないんですか?」
「言っても本気にしてもらえない」
「そ、そう……ですか?」
「俺は昔から、メイちゃんが好きって言ってる。でもメイちゃんは哀しそうに咲うだけ。俺の気持ちなんか、迷惑なのかな……って、もう何年かは言ってないけど」
「きっと、また伝えたら芽衣奈さんは嬉しいと思いますよ」
「………、でも、俺、汚れちゃってるし……」
「芽衣奈さんは、いつも絃音さんのこと心配してますよ」
「……そう、なのかな」
「たぶん芽衣奈さんは、絃音さんを守りたくても守れないから、手放しに受け入れていいのか分からないんだと思います」
「守る、って」
「あ、えと、そういうDVDで、絃音さんはつらい思いばっかりしてるから」
「………、メイちゃんがいるから、俺は生きてられるのに。いっぱい、助けてくれてる……俺がどんな汚くなっても、メイちゃんはそばにいてくれる」
 ぽつりぽつりとした乾燥した口調だけど、嘘のようには聞こえない。心なんて傷んで壊れてしまったように見えても、絃音さんにも感情はまだ残っていて、それは芽衣奈さんへの想いなのだ。
 だとしたら、芽衣奈さんと気持ちが結ばれたら、絃音さんは本当の意味で咲うことができるのかもしれない。「私は芽衣奈さんと絃音さん応援しますよ」と言うと、絃音さんは私を見て、ゆっくりまばたきをしてからこくんとした。
「ありがとう。……優真梨さんは、何か、俺も好き」
 その言葉にほっとしていると、デスクでPCに向かっていた安桜さんがこちらを見て、にっこりしてくれた。私はそれが嬉しくて微笑んでしまって、絃音さんは安桜さんと私を見較べる。
「優真梨さんは、安桜さんと、つきあってるの?」
「えっ、いや、まさか」
「……安桜さん、いい人だよ?」
「え……と、まあ、それは──はい」
 絃音さんは言葉に詰まる私を眺めて、少し首をかしげても、それ以上は追求しなかった。ちら、と安桜さんを見たけれど、安桜さんは煙草を吸いながらPCに向かっている。
 十二時になる前に、芽衣奈さんが事務所にやってきた。仕事を上がった、ボーイッシュな格好だ。
「絃音」と芽衣奈さんは柔らかい笑顔になって、絃音さんに駆け寄るとその頭を撫でる。「メイちゃん」と絃音さんは芽衣奈さんの服をつかみ、「また痩せた?」と芽衣奈さんはその手を握ってあげながら絃音さんを覗きこむ。
「少し」と絃音さんが答えると、「じゃあ今日はちゃんと食べなさい」と芽衣奈さんは絃音さんを立ち上がらせる。そして安桜さんと私を見て、「絃音預かってくれてありがと」と微笑する。
「いーえ。話相手になってくれてたのは優真梨ちゃんだから」
「優真梨さん、優しかった」
「はは、そっか。サンキュ、優真梨」
「いえ。ふたりでゆっくり過ごしてきてください」
「うん。じゃあ行こうか、絃音」
 芽衣奈さんがそう言うと、絃音さんはこくんとして芽衣奈さんの腕にしがみつく。「甘ったれなんだから」とか言いつつ、芽衣奈さんは嬉しそうで、「じゃあ行ってくる」と安桜さんと私に挨拶すると絃音さんと事務所を出ていく。
 それを見送ってから、少し残った絃音さんに出したお茶を片づけようと立ち上がると、「ねえ、優真梨ちゃん」と安桜さんに声をかけられて、私は振り返る。
「何ですか」
「そろそろ、言おうと思ってたんだけど」
「はい」
「優真梨ちゃんがOKになったら、僕たち、つきあおうね」
「は……はいっ?」
 ぎょっとして安桜さんを見直すと、安桜さんはにこにこしたままPCを覗きこむ。
 え。え? え──……と。
 私は深呼吸して、どきどきする胸を抑えてから答える。
「わ、私は、とっくにOKですけど」
 すると安桜さんは私を見て「両想いだね」なんて飄々と言う。
 両想い。両想い、って。私は何だか妙に恥ずかしくなって、「何か照れるっ」と上体を折ってしまう。
 安桜さんはからからと笑っているけれど、つきあおうって、夢でも、幻聴でも、ないよね。私は力が抜けて、お盆を置いてソファに沈んでしまう。洗濯機が止まった音がするけど、ちょっとしばらく、余韻で動けそうにない。

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