私にできること
芽衣奈さんの部屋から帰宅してしばらく経った日、午前中から安桜さんが留守にする日があった。「いってきます」とハグされて、「いってらっしゃい」とぎゅっと返した。
安桜さんは微笑んで頭を撫でてくれて、言ったほうがいいのかな、と思った。でも、言ったらこの人は止めてくれるんだろうな。確かに、安桜さんに任せてしまったほうがスマートだろうし、何とかしてくれそうでもある。
でも、安桜さんの探偵家業がなまじいかがわしさもあるから、最悪警察沙汰になったときが心配なのだ。安桜さんは平然と人の目に煙草を突っこむような、そんなやり方も辞さずに、来た依頼を解決している。だから、警察とは関わり合いになりたくないと思う。私も安桜さんが逮捕されたらどうしたらいいのか分からない。
だから、これは私ひとりでやらなくてはならない。
私が軆を離すと、安桜さんも身を返して事務所を出ていった。よし、と私は気を引き締めてワンルームに向かい、親名義のスマホと一緒にバックの奥につめこんでいた高校の制服を取り出した。
久しぶりに制服すがたになると、慣れない手つきでコンタクトを入れて、揃ってきた化粧品でメイクもした。かばんはないから、リュックにスマホや財布を入れる。そして、誰もいない隙に私は事務所をあとにして、久しぶりにこの街を出て駅に向かった。
六月の下旬、今日の空には、雲はあっても晴れ間が覗いている。時刻は十一時半が近く、このぶんなら十二時くらいに高校に着くだろう。電車に揺られながら、ここ数日胸の中で練ってきた作戦に、緊張してどきどきしてくる。
勝算なんてない。でも、私にできることはやってみる。芽衣奈さんが私をいろいろ励ましてくれたみたいに、私も芽衣奈さんの力になりたい。
高校に着くと、校門を抜けて、靴箱に残っていた上履きに履き替えた。ちょうど四時限目が終わって、昼休みのようだった。授業中に校内を歩いて先生に捕まったら意味がないから、これでいい。
ざわめく廊下に混ざって、光の射す階段をのぼって、一ヶ月ぶりくらいの自分がいたクラスの前に立った。ドアは開いていて、みんなお弁当を食べている。教室出て食べてたら厄介だなあ、と思ったけど、私のすがたにざわつきはじめるクラスの中に、千美さんのすがたが見つかった。
千美さんも私に気づいて、動揺を表したまばたきをする。私は教室に踏みこんで、「おい」とか「香春さん?」とかいう元クラスメイトの声は無視して、千美さんの元にまっすぐ行った。
「こんにちは、千美さん」
「……香春、さん?」
「そう。久しぶりだね」
「え……何か、行方不明とか聞いてたけど」
「話があるから、ちょっといい?」
「話って、」
「話せないっていうなら、千美さんが私にやったこと全部警察にばらすから」
千美さんが言葉につまる。「何ー?」と千美さんの友達が千美さんを窺ったものの、「大丈夫」とそれを制して千美さんは椅子を立ち上がった。
「ここじゃなくてもいいでしょ」
「もちろん」
「──ごめん、ちょっと香春さんにつきあってくる」
「先生呼んだほうがよくない?」
「そうだよ。見つかったって先生に──」
「先生には言わないで」
私が鋭くさえぎると、千美さんの友達は口ごもる。「言わないでおいて」と千美さんも言って、お弁当箱に蓋をすると歩き出す。私はそのあとをついて、騒然とする教室を出た。
「香春さん」
「何」
「何か変わったね」
「そうでもないよ」
「どこにいるの?」
「言えない」
「帰らないの?」
「さあね」
階段をのぼって四階に行くと、特別教室が並ぶばかりで、人気がなくなる。窓の向こうで雲の切れ間に青空があって、空気がちょっとむしむししている。
千美さんはこまねいて私を向かい合った。私はそれを見つめ返してから、「千美さんに訊きたいことがあるの」とゆっくり切り出した。
「訊きたいこと」
「前に、私のこと、アイドルに誘ったでしょ。コンデンスミルクっていう」
「まあ、うん」
「まず、コンデンスミルクなんていうアイドルグループは、ほんとにあるの?」
「はあ? そんなの関係な──」
「いいから答えて」
「……あるわけないでしょ。それは制作会社の名前だよ」
「制作会社」
「AV制作会社」
「所属事務所ではないの?」
「専属女優とかいるから、兼ねてることにはなると思う」
「そう。じゃあ、その制作会社がどこにあるのか分かる?」
「行ったことはあるよ」
「じゃあ、そこの住所教えて」
「何? AV出るつもり? 家出資金かよ。あんた、写真写りで落ちたんだよ?」
「千美さんはそう聞いてるだろうけど、実際は、私は連れこまれる前にある人に助けてもらったの」
「は……?」
「それに、あのあとまた連れこまれそうにもなった。そのときも同じ人に助けてもらった」
「何、見栄張ってんの? あんたがブスだっただけ──」
「じゃあ千美さん、ブスをよくスカウトしたね?」
千美さんは唇を噛んで、私を睨む。
「とにかく、その制作会社の場所を教えて」
「ガサ入れでもさせるの? そんな裏切りできるわけ、」
「じゃあ、千美さんがやったことを警察に通報する。いい? どうせ、似たような被害に合わせた女の子もたくさんいるんでしょ?」
「っ……」
「自分だけでも助かりたいなら、住所教えて」
千美さんはこぶしを握って苦々しくしていたけれど、不意に息をつくと制服の胸ポケットから一枚の名刺を取り出した。差し出されたそれを受け取ると、『コンデンスミルク企画』という文字と社員らしき人の名前、裏側に住所と簡単な地図が記してあった。
「今のあたしの取次ぎの人。スカウトしたら、そこに連絡するようにしてる」
「……分かった。ありがとう」
「そんなとこ行ってどうすんの? 下手に顔出したら、スタジオに連れこまれるよ」
「知らないほうがいいと思う。じゃあ、先生には私が来たこと言わないでね」
そう言うと、私は階段へと踏み出して靴箱を抜け、急いで学校をあとにした。
さいわい、先生には捕まらなかった。先生には親から行方不明の連絡がいっているだろうから、見つかったら強制帰宅させられるリスクはあった。それでも、一番確実な情報は千美さんからだと思ったから、ここまでやってきた。
校門で一度校舎を振り返り、まさか自分が高校を投げ出して男の人と暮らしはじめるなんてなあ、と咲った。
駅に戻ってから、スマホのアプリで名刺に書いてある住所を検索した。最寄り駅は、今暮らす街のひとつ先の駅みたいだ。
とりあえずその駅に行くか、とICカードで改札を抜ける。残高がそろそろ尽きそうでも、そうなったらチャージより切符に切り替えたほうがいいだろう。どうせ、もう電車に乗る機会なんてなくなっていくのだろうし。
到着して初めて降りた駅は、ビル街の中だった。コンデンスミルク企画も、『4F』と住所にあるから雑居ビルの中にあるみたいだ。似たようなビルばっかで見つかるかなあ、と多くない人通りの中を彷徨ったものの、ようやく『コンデンスミルク企画』という文字がある雑居ビルを見つけた。
私はスマホのアプリを閉じて、安桜さんに電話をかけた。『はい安桜』と二コールで返事があって、「私です」と言うと『優真梨ちゃん』と安桜さんはちゃんと言い当ててくれる。
『どうしたの? 僕さっき戻ってきたんだけど。買い物?』
「いえ。万が一に備えて、連絡はしておいたほうがいいかと思って」
『万が一』
「今、私を連れこもうとしたAV制作会社の前にいるんです」
『はっ?』
「ここで絃音さんのも撮ってるみたいで」
『絃音くん、って』
「だから私、絃音さんがもう出演しなくていいように話し合ってきます」
『えっ!? いや、それは──待って、落ち着いて。とりあえず僕がそこに行くまで待って』
「安桜さんに迷惑かけたくないです。警察とか来たら、安桜さんも厄介じゃないですか」
『そりゃそうだけど。優真梨ちゃんに何かあったら、』
「私にできることがあるなら、やりたいんです。芽衣奈さん、私をいっぱい助けてくれたから」
『いや、その……気持ちは分かるけどね。やってることの規模がえらく違うというか』
「絶対帰るので、なるべく私に頑張らせてください。何かあったらごめんなさい」
『優真梨ちゃん、』
「またあとで連絡します。じゃあ」
安桜さんが何か言うのを切って、スマホはリュックにしまった。
私はビルの案内板を見て、コンデンスミルク企画が四階にあるのを確認する。
よし、とビルの中に踏みこんで、壁にいっぱいある張り紙や落書きを横目に、エレベーターの前に着く。『△』ボタンを押して、エレベーターを待つあいだに深呼吸する。
怖い。もちろん。無事に済む確率のほうが低い。千美さんも言っていた。連れこまれる。それでも、私はできるかもしれないことに賭けたい。家出して、かくまってもらって、面倒まで見てもらって──そんな、人に助けられてばかりじゃ嫌だ。私にできることがあるなら挑んで、助けてくれた人の役に立ちたい。
ベルが鳴って、エレベーターが来た。開いた扉の向こうには誰もいなくて、私をそれに乗りこむ。
『4』を押すと扉が閉まって、エレベーターが上昇しはじめた。
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