窮屈な朝
けっこう前から、鳥のさえずりは聞いていた。
でも、軆も気分も重くて、ぐずぐずとふとんの中にこもっていた。少し吐き気がする。朝はいつも憂鬱だ。
やがてアラームが六時四十五分を知らせはじめ、私はうめいてスマホを手に取ると、眼鏡をかけて音を止める。
ため息をつきながら起き上がる。七時までに部屋を出ないと、また親がうるさい。ルームウェアを脱いで、制服に着替える。姿見の前で、胸元のリボンの角度を整えると、七時きっかりに部屋を出る。
ルームウェアを浴室の洗濯かごに入れて、キッチンにつながるダイニングに踏みこむ。おとうさんは新聞を読んでいて、おかあさんは朝食をテーブルに並べている。
「優真梨。もっと早く起きなさい」
おかあさんがそう言って私を見る。おかあさんの眉間には神経質な皺がくせになっている。私は目をそらして「ごめんなさい」と言ってから、トーストとハムエッグの前に座る。
ばさっ、とおとうさんが音を立てて新聞をたたむ。
「だらだら遊んだりするから、生活も弛んでくるんだ」
おとうさんも眼鏡の奥で不機嫌を顔に貼りつけている。私は滅入りながら、また「ごめんなさい」と言う。幼い頃から、この両親の前では私は最もこの言葉を発している。ごめんなさい。
千美さんのことも、安桜さんのことも、昨日のことは両親には何も話していない。話したところでお前が不注意なのだとしかられるだけだし、このふたりは心配なんてしないだろう。いや、そもそも信じないかもしれない。だから、友達とお茶をしていたと言っておいた。
両親は、私に優良な将来しか期待していない。今は成績。次は進学。そして就職。私は、両親にやりたいことなんて訊かれたことはないし、私もやりたいことなんて考えたことがない。ひとりっこで、私にしっかりしてもらわないと、ふたりとも困ることになる。結婚相手も両親に決められるのだろうなと思う。
ほとんど会話のない食卓で朝食を胃につめこむと、朝の支度をこなして「いってきます」と家を出る。
マンションの六階から地上に降りて、雲が出てちょっと天気が悪いのを見上げる。傘持ってきたほうがよかったかな、と思ったけれど、家に戻るのも憂鬱だ。まあいいか、とアスファルトに踏み出して、駅へと歩いていく。
七時五十分に出る電車に乗って、サラリーマンとOLと学生に押しつぶされながら、学校に向かう。他人の体温と密着、誰かの香水、ヘッドホンの音漏れ。路線乗り換えのとき、ホームの列に並んで、スマホで一日の天気とニュースをチェックした。
ニュースでは昨日のことを案じたけれど、ああいう街であったことのせいか、何も報道されていなかった。それでも夢ではなかったのは、私のスマホの連絡先が一件増えているのが証拠だ。
安桜さんの番号。念のため、昨夜、登録しておいた。何かあったら、と言われた。何か。考えられるとしたら、千美さんだけど──。
アナウンスが流れて顔を上げ、スマホをかばんにしまって、滑りこんできた電車に乗りこむ。
高校最寄り駅で降りて、桜並木を歩き、このまま雨が降ったら完全に散っちゃうな、と残りわずかの桜の花びらを見やる。周りでは挨拶や笑い声が飛び交ってにぎやかに朝が始まっている。
予鈴が鳴る五分前、八時二十分にいつも校門を抜ける。そして靴箱で上履きに履き替え、ざわめく階段をのぼると、三階にある自分のクラスの教室のドアを開けた。
「あ、香春さんだー」
そんな声がかかって、私は無表情のままそちらに視線を向ける。声で察したとおり、千美さんだ。千美さんはこちらに駆け寄ってきて、目が合うとくすくすと嗤った。
「昨日は残念だったね?」
「……残念、って」
「えー、アイドルになりたかったのにねえ?」
私が眉を顰めるより早く、クラスがさざめいて「どういうこと?」と千美さんの友達が集まってくる。千美さんは友達を見まわし、教室に聞こえ渡る声でそれに答えた。
「香春さん、昨日アイドルのオーディション受けて、その場で落ちたんだよね」
一瞬、教室が止まった。ついで、クラスじゅうの爆笑が巻き起こった。
私は舌打ちしたいのをこらえて、千美さんのかたわらをすれちがう。「お前そういうキャラだったのかよ」とか「千美さんがアイドルやりたいなら分かるけどー」とか、煩わしい声がバケツから引っくり返す水のように浴びせられる。「無視しないでよお」と千美さんは私を追いかけてきて、私はつくえにかばんを置いてから千美さんを見る。
「生田って人と連絡はついたの?」
「さあ。昨日の夜、引き継ぎって言って新しい人が連絡はくれたけど」
「……そう」
「その人が香春さんに切れてたよ」
「千美さん、あのあと何があったか知ってるの?」
「撮影でしょ。で、香春さんは写りが悪すぎて使えなかったって」
「………、そう思っておいたほうが、平和かもね」
千美さんがむっとした顔になって、「何か違うの?」と腰に右手を当てる。私は席に着いて、「別に何でもない」と教科書やノートをつくえに入れる。
「何、」と千美さんが続けようとしたとき、チャイムが鳴った。千美さんは不愉快をちらつかせたものの、先生が来る前に、自分の席に行ってしまった。
私に切れていた、か。何もないといいけど。でも、何かあったら安桜さんに連絡できる。我ながら、どっちだろう、と思った。
千美さんは私が「使われなかった」理由が、実際どういうことなのか引っかかったようだった。でも私は何も言わないし、引き継いだという人からも説明はもらえないようだ。
それでいらいらした千美さんは、「アイドルになりたいとか痛いよね」と私の陰口を流しはじめ、ペンケースを隠したりノートのページを破ったり、微妙な嫌がらせを行なうようになった。
私と口をきいたらその人にも手出しするから、誰も私に寄りつかなくなった。クラスに友達がいないのは元からだったけど。ああいうタイプの人ってほんと意味が分からない、と私はうんざりして、こっちまでいらいらしながら毎日を過ごした。
「眼鏡ブスのくせに、自分のことかわいいとか思ってんのかな?」
そんな声が聞こえてきた日の夜、シャワーを浴びて軆にタオルを巻いて、洗面所の曇る鏡をきゅっと手のひらで拭いた。眼鏡をかけると、曇りが切り開かれた部分に自分の顔が見取れる。
ショートボブ、淡泊な瞳、感情を噛み殺してばかりの唇。
ブス。分からない。そうなのかもしれない。確かに、たいしてかわいいとは思わない。でも、かわいくない子に「かわいいね」と声をかける千美さんの行為だって、そうとう醜いんじゃない?
四月から五月へ、連休のあいだに気候はすっかり初夏になった。熱中症という言葉を早くも目にするようになり、学校でも衣替えが解禁になって夏服をまとう生徒がちらほら現れはじめた。
授業では中間考査の範囲が公開されたけれど、やっぱり進学校の範囲は広い。私は塾に行っていないぶん、図書室に残ったり、夜更かししたりして、とにかく勉強する。
その日も図書室で閉館の十八時まで勉強をしていて、「そろそろ閉めまーす」と受付の生徒が不意に声を上げ、はたと顔を上げた。周りもふっと集中を切らして、静かだった図書室にため息やあくびが流れる。私は教科書やノートをまとめて、借りていた参考書も元の本棚に返すと、さっさと図書室を出た。
窓の向こうの空はまだ明るさを残し、望める桜並木はすっかり鮮やかな緑になっている。廊下に昼間のような賑わいはなく、部活の声も終わった。
かすかに汗ばむ陽気の名残に、私もそろそろ夏服でいいなあ、と思いながら、一階に降りて靴を履き替え、花壇の土の匂いを感じながら校門にさしかかったときだった。
「香春優真梨ちゃん」
立ち止まった。顔を上げると、サングラスをかけて長髪を束ねた二十歳そこそこの男が歩み寄ってきている。
誰、と怪訝を浮かべると、男は笑みを浮かべて「千美繭香ちゃんの紹介を受けたよね?」と言った。それではっとして、私は後退ろうとした。
途端、男は鋭く私の手首をつかんでくる。
「離して、」
「もう一度チャンスをあげるよ」
「何? 私のことは、」
「生田のこと憶えてる? 煙草を目に突っこまれた奴。失明しちゃったんだよ」
「そんなのっ──」
「おまけに、うちの事業が漏洩してね。消えた奴もいるんだ。ほんと困るなあ……」
車が歩道に横づけされているのに気づく。あたりを見まわしても、こんなときに限って通りかかる人がいない。
「君のせいだからね。よっぽど恥ずかしいものを撮らせてもらわないと」
「私は何もしてな──」
「てめえがサツにしゃべった以外、どんな可能性があるんだよっ」
いきなり怒鳴られて、びくんとすくんでしまう。
何。この人たち、私が警察に話したと思ってるの? 安桜さんが暴いたということは知らないの?
でも、よく考えたらそうか。安桜さんは「探偵」なのだから、探っていたことをこいつらに悟られているわけがない。居竦まった隙にぐいと腕を引っ張られ、車の後部座席に押し倒すように乗せられた。
声を上げる前にばたんとドアを閉められ、崩れた体勢から軆を起こすあいだに、男が運転席にまわって車を発進させてしまう。自動でロックがかかり、急速に心臓がどくどくと不安を巡らせはじめる。
何で。嘘。またこんなの──
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